民主主義の「本源的蓄積」

ジジェクは、スターリン主義=全体主義を、ある一点において民主主義よりも評価している。 それゆえ、スターリン主義的な共産主義は、或る意味では「正常な」市民的秩序よりも率直なのである。それは創設の暴力をあけっぴろげに認めるからである。大文字の党…

三島由紀夫の「政治と文学」

三島由紀夫は、共産主義の「粛清」を、カトリックのエロティシズムとパラレルに捉えた。 仮に、言論の自由、表現の自由をエロティシズムの領域に限ってみても、私はかねがねエロティシズムの問題と宗教の問題を最も賢明に解決したのは、カトリックであると思…

革命それ自体の転向について

前回の記事の続きにもなるが、平野謙は、スターリン主義の粛清を「野蛮なアジア的後進性の特産物」とみなしていた。つまりそれは、「ナチス・ドイツの近代的な野蛮性」とは違う何かである、と。「『夜と霧』の悲惨は決してアジア的後進性の特産物ではない」…

福田恆存の「政治と文学」その3

福田の「政治=九十九匹」は、従来の「政治と文学」における「政治=マルクス主義」からすでに転換している。「ぼくがこの数年間たえず感じてきた脅威は、ミリタリズムそのものでもなければナショナリズムそのものでもなかった――それはそれらの背後にひそむ…

福田恆存の「政治と文学」その2

福田恆存は、「一匹と九十九匹と」や「人間の名において」(いずれも一九四七年)によって、主に中野重治と荒正人、平野謙との間で繰り広げられた、いわゆる戦後「政治と文学」論争にコミットした。 特に「一匹と九十九匹と」は高名だが、福田はそこで、ルカ…

福田恆存の「政治と文学」

黙示録論 (ちくま学芸文庫) 作者:D・H ロレンス 発売日: 2004/12/09 メディア: 文庫 情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む (ポストモダン叢書) 作者:ドゥルーズ,ファニー,ドゥルーズ,ジル メディア: 単行本 「他人を裁かずにいられない」という現在の…

階段と戦争――小津安二郎の「不潔」その3

だから、その後の『晩春』で、原節子が口にする「不潔」は、消えた「階段」と引き換えの言葉だった。小津作品においては、何よりも「階段」が、語らずに語る「階段」こそが、「不潔」と言われて「排除」されてきたものなのである。 そう考えてくれば、『晩春…

階段と戦争――小津安二郎の「不潔」その2

田中絹代は、「小津映画の俳優としては、私は落第生なのでございます」と言っていたという(『小津安二郎―人と仕事』一九七二年)。この言葉は、もう一方に、小津映画の優等生であった原節子を想起させずにおかない(石田美紀「田中絹代と小津映画」、『ユリ…

階段と戦争――小津安二郎の「不潔」

全日記 小津安二郎 作者:小津 安二郎 発売日: 1993/12/01 メディア: 単行本 『全日記 小津安二郎』(一九九三年)や、田中眞澄『小津安二郎周游』(二〇〇四年)以来、小津安二郎が、野戦瓦斯第二中隊の分隊長として、日本軍の中国侵略とその毒ガス使用に深…

ミッドナイトスワン(内田英治)

9月25日公開『ミッドナイトスワン』100秒予告 トランスジェンダーに夜の街というあいかわらずの組み合わせ、性別適合手術を受けた主人公の胸がはだけてなぜか露わになるシーン、あたかもタイの医療技術が未熟であるかのような展開…。違和感は多々あった。…

TENET(クリストファー・ノーラン)

映画『TENET テネット』US予告(時間の逆行編) (本稿は、作品の「読解」を精緻に試みるどころか、それに「逆行」しています) 地球に住めなくなった未来人が、いったん現世界を終わらせ、そこから時間を逆行させることを「選択」する。すなわち、今後は未…

国民文学論は不毛だったか(その2)

六〇年安保は、竹内の「民主か独裁か」の声とともに、あれほどまでに「国民」的に高揚していったといわれる。 竹内は、「民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない」、「そこに…

国民文学論は不毛だったか

前田愛「国民文学論の行方」(一九七八年五月『思想の科学』)などを見ても、竹内好が提唱し、戦後最大規模の文学論争に発展した「国民文学論」は、しかしきわめて不毛に終わったというのが概ね定説になっているようだ。前田は、不毛に終わった原因を、竹内…

はちどり(キム・ボラ)

2度と戻らない10代、私の人生もいつか輝くでしょうか?映画『はちどり』予告編 主人公である中二の少女「ウニ」が、リビングのソファの下をのぞきこみ、ガラスの破片が落ちているのを見つける。いつかの夫婦喧嘩で、たまりかねた母が、父に向って振りかざし…

持久戦は持続しているか その3

そのグラムシ主義や第三世界論の、資本主義への「回収」ぶりが露骨に現れたのが、「土地」の問題だろう。津村は、これについても、「革命の考古学」や「共同体論」として、当初から問題の所在を示していた。滝田修のパルチザン論を批判した藤本進治の第二戦…

持久戦は持続しているか その2

『津村喬 精選評論集――《1968》年以後』(二〇一二年)を編集した際(あるいはそれ以前から)、すでにすがは津村の思考のジレンマを見ていた。それは、「六八年」を「六八年」たらしめた津村や華青闘告発が、だが同時に「「六八年」を衰弱させた張本人として…

持久戦は持続しているか

戦略とスタイル 増補改訂新版 (革命のアルケオロジー) 作者:津村 喬,高祖 岩三郎 発売日: 2015/12/18 メディア: 単行本 生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ 発売日: 2017/07/03 メディア: 単行本 備忘録として(といっても、もうずいぶん前の話)。 二〇一…

「関係」は存在しない、「敵対性」が存在する

いまや、ほとんど参照されることもなくなっているらしいジジェクは、次のように言っている。 したがって、敵対とは、異性愛とLGBTとの敵対ではない。敵対は(再びラカンのことばで言い換えれば、「性関係はない」という事実は)、規範的異性愛の核心に存在し…

感染予防行動と経済

経済を回しつつ、感染予防行動を徹底せよ。そんなことが容易にできるのだろうか。 誰もが気づいているとおり、それは「動け、かつ動くな」というダブルバインドの命令であり、端的に「矛盾」だからだ。 もちろん、資本制国家は、「ならば」とばかりに、前者…

近代のはずみ、ひずみ 深田康算と中井正一(長濱一眞)

近代のはずみ、ひずみ 作者:一眞, 長濱 発売日: 2020/01/31 メディア: 単行本 何度か書いてきたことだが、ISの登場以降、再び三度「非西洋」が「もの」(フェティッシュ)としてリアリティを帯びてきている。それは、このコロナ禍においても、持続、拡大し…

嘘と転向――冷戦終焉期の大西巨人 その2

大西は、その代名詞ともいえるエッセイ「俗情との結託」を一九五二年に、「再説 俗情との結託」を五六年に発表する。そして、九二年に「三説 俗情との結託」を、九五年に「「俗情」のこと」を発表した。大西は、前の二つのエッセイから後の二つに至る「三十…

嘘と転向――冷戦終焉期の大西巨人

『大西巨人 文選2 途上』の「月報」の一文を、大西は「年ごろ私は、〈嘘(非事実ないし非真実)〉に関して幾度も書いた」と書き出している(「〈嘘(非事実ないし非真実)〉をめぐって」)。この一文が書かれたのは「一九九六年九月中旬」だから、「年ごろ…

ペイン・アンド・グローリー(ペドロ・アルモドバル)

脊椎の痛み、何種類もの頭痛、いちいちクッションを差し挟まなければ、床に跪くこともできない。最近は、水を飲んでも喉がつまりせき込んでしまう。喉にしこりがあるのだ。悲鳴をあげ続ける身体は、母から与えられた罰なのか。 主人公サルバドール(アントニ…

制度、リアリズム、転向 その4--私小説≒天皇制という「虚構」

コロナ禍における「西洋」からの「アジア」への差別には、YouTubeやSNSの卑劣な映像や言説を見るにつけても、「いったい、啓蒙された西洋市民社会など、本当にあったのだろうか」という「「近代」への疑惑」(中村光夫)を再び三度抱かずにはいられない。「…

制度、リアリズム、転向 その3--中村光夫、蓮實重彦、すが秀実

もう何度も触れてきたが、「転向」の問題を「告白=弁明」の問題として捉えかえした点において、蓮實重彦とすが秀実の対談「中村光夫の「転向」」(一九九三年十二月「海燕」。蓮實『魂の唯物論的な擁護のために』所収)は、「転向」を考えるうえで画期をな…

制度、リアリズム、転向 その2――柄谷行人「近代文学の終り」について

資本主義の商品aとbとの「等価交換」の原理が、aやbの中に「労働力商品」をも捕獲し、その結果「社会」全体を包摂するに至った時、「リアリズム」が価値尺度となる。 近代資本制の要諦をなす等価交換システムが、商品化された労働力を疑似的中心とする商品世…

制度、リアリズム、転向 その1

あくまで整理ノートとして。 沖公祐は、「市場が制度をつくるのではない。しかし、資本主義における制度は市場から切り離されたものではありえない。資本主義のもとでの制度とは、市場と社会が切り結ぶところに立ち現われてくるものである」(「制度と恐慌」…

「新しい生活様式」について

「新しい生活様式」は、決して「新しい」ものではなく、いわゆる(多文化主義的)「寛容」の完成形態に思える。 ネオリベ以降、われわれは他者と適切な距離を置くべきだとする、「寛容」な社会を求められてきた。あらゆるハラスメントはアウト、もちろん人種…

大西巨人と中村光夫の論争 その4

中村は、自らの短編集『虚実』(一九七〇年)の「あとがき」に次のように書いた。 事物を言葉で表現するのは、何らかの形で嘘をつくのを強いられることだが、嘘が嘘としての機能を果たすためには、本当に見えなければならない、という当り前のことが、いくぶ…

大西巨人と中村光夫の論争 その3

小説における「仮構」が、「いい加減な作りごとの方向」に逸脱せずに、「独立小宇宙」として完結した「仮構(の真実)」たり得るには、小説家が「公人」としての自覚を持たねばならない。そして、そのことによって、「語り手=ファクト・テラー」と「作者=…