国民文学論は不毛だったか

 前田愛「国民文学論の行方」(一九七八年五月『思想の科学』)などを見ても、竹内好が提唱し、戦後最大規模の文学論争に発展した「国民文学論」は、しかしきわめて不毛に終わったというのが概ね定説になっているようだ。前田は、不毛に終わった原因を、竹内の国民文学論が、結局は「共産党の政治路線の変更と消長をともにし」、「文学運動としての自律性を欠いたこと」に求めている。

 

国民文学論の口火を切った竹内の「近代主義と民族の問題」(「文学」)が発表された昭和二十六年九月は、サンフランシスコ講和条約が調印された月であり、共産党幹部が地下潜行を余儀なくされた月である。戦後日本の重要な曲り角のひとつであった。前年の一月にはコミンフォルム日本共産党批判が出され、六月には朝鮮戦争がはじまっていた。コミンフォルムの批判を契機に主流派と国際派に分裂した日本共産党は、この年の二月に国際派を分派活動と規定する四全協の決議を採択、ついで十一月にひらかれた五全協では、アメリカ占領軍を解放軍と規定していたこれまでの平和革命路線が百八十度転回され、日本がアメリカの植民地であり、従属国であるという現状認識のうえに立って、民族解放民主革命の路線をあらたに打ち出した綱領が採択される。竹内の国民文学論が、この民族解放の新路線に強引に組みこまれ、中国の解放文学の強い影響のもとにあった共産党主流派の文化政策の重要なテーゼのひとつとして、「新日本文学」に対抗する勢力を結集した「人民文学」の誌上でくりかえし論議されたことはよく知られているとおりである。

 

 国民文学論の政治的背景は、大筋前田の述べるとおりだろう。だが、竹内の国民文学論は、本当に、共産党の新路線に「強引に」組みこまれたのだろうか。

 

 前田の言いたいことはわかる。竹内の国民文学論が、共産党の主流派と国際派、『人民文学』と『新日本文学』の対立に巻き込まれ(あるいは対立を激化させ)、前者に吸収された結果、竹内の国民文学論の「もっとも主要なモチーフをなしていた近代主義批判がきれいに切りすてられて」しまった、竹内の国民文学は何より「「近代」総体への問いかけ」だったにもかかわらず。要は、国民文学論にこめられていた共産党マルクス主義近代主義そのものへの批判が、削ぎ落されてしまったということだろう。

 

 だからこそ、前田は、竹内の意図を、「戦前の知識人をとらえていた「理論信仰」への懐疑から出発し、大衆の実感そのもののなかに入りこんで行」こうとした「思想の科学」グループへと、「正しく」接続し直そうとするのだ(『思想の科学』に発表されていることもあるが)。「竹内好の意図が「文学の国民的解放」にあったとすれば、「思想の科学」グループの目指していたところは、「思想の国民的解放」にあったといってもいい」。

 

 だが、ここには、文学に政治からの自律を求めるあまり、最悪の政治性が表れてはいないか。そもそも、竹内が「近代主義」に対して「民族」を掲げた枠組自体が、講座派マルクス主義的な歴史観に基づくものではなかったか。講座派的な二段階革命論の第一段階においては、民主主義革命を目指す民族解放路線=ナショナリズムがとられるほかない。竹内の主張する「民族」は、決してこれと矛盾するものではない。

 

 とりわけ、前田の言うように、竹内が国民文学論を提唱した時期は、解放軍が占領軍だったことで共産党が反米愛国に革命路線を転じていった時期であり、両者の並行性は自明だったはずだ。しかも、その反米愛国は、「反米」である以上、冷戦体制の枠組で見れば、主観的にはどうあれ、相対的にはソ連という「平和」勢力=「平和共存」の側につくことを意味していた。いかに、前田が(国民)文学(論)の自律性を求め、竹内の「民族」が反「近代主義共産主義」たろうとしていたとしても。こうして、反米―愛国(民族)―民主―平和は、ねじれを含みながらも、相互に結びついていく土壌が醸成されていた。

 

 何もことさらに、竹内の国民文学論を、共産党の革命路線(の変更)と同一視したいわけではない。そうではなく、国民文学論は不毛に終わったどころか、その後の六〇年安保を準備したのではないかと思うのだ。すなわち、竹内の国民文学論は、安保における竹内の総括、「民主か独裁か」に直結していったのではないか、と。

 

(続く)