TENET(クリストファー・ノーラン)


映画『TENET テネット』US予告(時間の逆行編)

 

(本稿は、作品の「読解」を精緻に試みるどころか、それに「逆行」しています)

 

 地球に住めなくなった未来人が、いったん現世界を終わらせ、そこから時間を逆行させることを「選択」する。すなわち、今後は未来ではなく、過去に生きることを「選択」する。そして、その下手人に、まさに世界が未来を失った冷戦崩壊時に(冷戦崩壊が、その後の未来という時間を喪失させた出来事だったということは、いったいどれくらい共有されているのだろうか)、旧ソ連の核爆発で地図にない街と化した「スタルスク12」に居合わせた男「アンドレイ・セイター」(ケネス・ブラナー)を「選択」し契約する――。

 

 ならば、本作の未来人たちは、例えばほとんど「ダーク・ドゥルージアン」といえないか(アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥールーズ』)。ダーク・ドゥルージアンは、「神の死」、「人間の死」に続いて、「この世界の死」を要請する。「この世界の死」は、物質的な世界破壊を求めることではない。「神の死」が、僧侶の殺害や教会を焼き尽くすことを求めず、また「人間の死」が、人類の大虐殺や絶滅を求めなかったように。「それらは、ただ神や人間という概念が不十分であると言って非難し、依然としてそれを信じている者たちを批判し、思考の目的としてあるそのような概念など除去してしまえと要求していただけである」(『ダーク・ドゥールーズ』二〇一六年)。

 

 「神の死」とは超越神への信仰の「死」であり、「人間の死」とはそうした神と人間との共犯関係の「死」である。だが、それらは「死んだ」「死んだ」と言われて、なおいっこうに「死んで」いないではないか。ならば、真に「神の死」「人間の死」をもたらすために、「この世界の死」が必要なのではないか。「言い換えると、それは、もっぱら反動的な生成の意味しかもはやもたないような受動的ニヒリズムのなかでの問題提起や充足理由に完全に見切りをつけることである。それは、世界のあるいは文明には救う価値などないと理解することである。こうした見切りや理解は、残酷の情動をともなうことなしには成立しない。〈神―人間〉の死は、世界の死によって完成するのである」(江川隆男「破壊目的あるいは減算中継―能動的ニヒリズム宣言について」、『ダーク・ドゥールーズ』への「応答」)。

 

 「人間の死」以降、「生きさせて死ぬにまかせる」生権力が世界を覆った。反動的かつ受動的ニヒリズムの支配。われわれはすでに殺されているが、まだ死んでいない。「死んだ」「死んだ」と言われているのに、むしろ権力によって「生きさせ」られているのである。「生きさせろ」と言うまでもなく。ならば、きちんと「死ぬ」ことこそ革命的ではないのか。

 

しかし、それゆえにこそ、現在の時空間を犠牲にする革命の方向に舵を切って、新たな―未だ―実現していない未来に対する身構えが既にできているとも言えるだろう。こうした視点から見ると、手がつけられない気候変動も、6度目の大量絶滅も、そして、他の差し迫った厄災(カタストロフ)も、全てがこの世界にとって必要不可欠なものとなる。それゆえ、「この世界の死」は、世界を救おうというかつての試みの不十分さを認め、その代わりに革命に賭ける。この世界を破壊できたときにだけ、私たちはこの世界の問題から解放されるという賭けへ。(『ダーク・ドゥールーズ』)

 

 未来人と、その目論見を託されたセイターの「革命に賭ける」「身構え」。TENETは、そんなセイターの「革命」を阻止しようとする「反革命」的な組織である。だが、順行時においては、CIAから選抜されるままに訳も分からず(TENETの)任務を遂行する、名もなき「主人公」(ジョン・デヴィッド・ワシントン)が、作品後半の逆行時において、実はTENETの黒幕だったことが判明する。すなわち、主人公自身も、地球に住めなくなった未来人の一人なのだ。

 

 名もなき主人公は、おそらくセイターと、TENETの幹部らしきプリヤ(ディンプル・カパディア)との「対立」を利用しながら、エントロピーの減少によって全世界の時間を逆行させるアルゴリズムのパーツをいったんすべて彼らに集めさせようとしたのだろう。そして、すべてが揃った段階で、いざアルゴリズムが作動し始める瞬間、一気に奪還する作戦に出たのだろう。プリヤにすら、自分が黒幕であることを明かさずに。

 

 したがって、主人公=TENETとセイターはほぼ共犯ともいえる(だから途中、主人公は自分自身と「戦う」はめになる)。両者が異なるのは、過去の先祖を殺してまでも「この世界」に「死」をもたらそうとするセイターに対して、先祖を殺してしまえば未来の自分たちも存在し得なくなるという「先祖殺しのパラドックス」を重視する主人公=TENETという一点である。その一点で敵味方に分かれるのだ。

 

 「先祖」を重んじることで「未来」を重んじる。これがTENET=信条である(TENETは「信条」という意味でもある)。ならば、柳田国男「先祖の話」(一九四五年)によって作られた戦後天皇制という「この世界」のなかでは、あえてセイターの陣営につく(セイターという人間に、ではない)というのが、「この世界」に「死」をもたらそうとすることだろう。先に述べたように、「この世界」(=戦後天皇制)の「死」がなければ、「神」(=天皇)の「死」もないのであって、その逆ではない。先祖を生かし、自分を生かそうとする者が、結局は未来を信じる生産主義者でしかなく、ならば「先祖殺しのパラドックス」の危険をおかしてまでも、「この世界の死」を望むことこそ、ダーク・ドゥルージアンの「残酷」という情動というものではなかろうか。

 

「この世界を信じるべき何かを見つける」という大義の下で、与えられたものを肯定する生産主義者など批判されてしかるべきだ。世界がこんなに悲惨にもかかわらず、もっと良い世界になるための材料がここに予め全て含まれているかのように思い込んでいるおめでたい連中なのだ。こうした輩は、結局のところ、破壊の力を放棄したがゆえに、蓄積と再生産の論理を通じてしか、生産を利用=資本化(キャピタライズ)することができないのだと私はよく分かった。しかし、古いものを条件にして新しい世界を創設したとしても、そんな世界の地平が既存のものを超えて広がることはない。これに対して私が提案する別の選択肢は、世界を破壊する理由を見つけ出すことである。

 

 セイターは「息子を作ってしまったのが最大の失敗だ」と後悔する。それによって、どうしても「蓄積と再生産の論理を通じて」「生産を利用=資本化すること」に関わってしまうからだ。未来を失ったニヒリストのセイターが、唯一「世界を信じ」「未来を信じ」てしまった行為だ。だから、この息子マックスをめぐるセイターと主人公の攻防がことのほか重要になる。そのことは、ラストシーンが雄弁に語っているだろう。

 

 かつて柄谷行人は、「未来の他者」のことを考えることこそが「倫理」だと言った。それに対して、おそらくノーランなら「…だが、もう間に合わない」と言うだろう。未来にいるのは、もはや「他者」ではない。現在にさまざまな「負債」を理不尽に負わされ続けた挙句、はっきりと「敵」と化した者たちだ、と。

 

中島一夫