嘘と転向――冷戦終焉期の大西巨人 その2

 大西は、その代名詞ともいえるエッセイ「俗情との結託」を一九五二年に、「再説 俗情との結託」を五六年に発表する。そして、九二年に「三説 俗情との結託」を、九五年に「「俗情」のこと」を発表した。大西は、前の二つのエッセイから後の二つに至る「三十数年間にも、「俗情との結託」現象が存在しなかったのではない。いや、それどころか、そういう類は、多々あった。その間に私が発表した批評文の大部分に、私は、「俗情との結託」と題することもできた」と述べている(「三説 俗情との結託」)。

 

 だが、結果的にそうしなかった理由は明白だろう。前二つはスターリン批判前後の、後二つは冷戦終焉期の言説空間において書かれているのである。大西のいう「俗情」が、いかに共産主義の危機における「転向イデオロギー」とのたたかいだったかが分かる。

 

 大西は、最初の「俗情との結託」で、「俗情」を「いまなお労農市民・国民大衆――特にそのおくれた層――のなかに広汎に存在する封建的・後退的な要素」と定義した。いわゆる、講座派マルクス主義の「半封建的」そのままである。軍隊を「特殊ノ境涯」(『軍隊内務書』)と認めて疑わない野間宏の『真空地帯』を、「半封建的」なものとの「結託」として批判したわけだ。そして、そのような「転向」に対する抵抗として「半封建的」な軍隊の、そしてそれが反映する天皇制の構造やあり方とたたかおうとするのが、かの『神聖喜劇』であった。

 

 だが、「俗情との結託」という批判が真に有効であるためには、まずもって「俗情=半封建的」という概念にリアリティがなければならない。そして、一九六〇年代の高度経済成長にともなって、それ以降そのリアリティは徐々に喪失されていったのである。大西が、冷戦終焉期に「バスに乗り遅れまいとした」「変節転向者」たちを、今一度「俗情」という言葉で糾弾しようとした時には、もはやその有効性は相当薄れていたのではなかったか。前回述べたように、大西が「俗情」を「嘘」と言い換えねばならなかったゆえんである。

 

 だが言うまでもなく、「嘘」という通俗的な言葉自体、「俗情=半封建的」よりもいわば「俗情」性にまみれている。そこで大西は、さらに「嘘」を、「方便としての嘘」と「本当の嘘(つき)」とに峻別し、後者をしっぽ切りしていくことになったのだろう。「嘘」という言葉自体の「俗情との結託」を切断しようとしたのである。

 

「小説は、『フィクション』、『ワーク・オブ・フィクション』である。」という命題の「仮構(フィクション)」とは、「方便としての嘘」のことであり、「本当の嘘」ではなく、したがって小説家は、断じて「本当の嘘つき」ではない。「仮構の真実」を作り上げるのが、小説家である。終世、井上光晴は、その間の消息を理解することができなかった(井上のほかにも、その手の似非小説家・批評家が、少なくない)。(「一路」一九九四年)

 

 だが、「俗情」という言葉が「半封建的」のリアリティに支えられていた以上、それが喪失された今、これは苦しいロジックと言わざるを得ない。「嘘」という言葉に「俗情=半封建的」の代わりはあまりに荷が重いし、「方便としての嘘」と「本当の嘘」とを明確に分かつものももはやないからだ。「俗情=半封建的」のリアリティが喪失されていくとともに、大西が「革命の人」というよりは、PC的「正義の人」や「民主主義の人」(すが秀実大西巨人の「転向」」)に見えていってしまったというのもわからないではない。天皇制批判が後景に退いていったというのも同断である。講座派において「俗情=半封建的」とは、まずもって天皇制を意味していたからだ。それは、大西個人の問題というよりも、講座派イデオロギーの耐用年数の問題だろう(※注)。

 

 大西はとうとう「嘘」を批判するのに、四百年以上前のモンテーニュ『エセー』にさかのぼるところまで追い込まれる。「実に、嘘は呪われた悪徳である。われわれはただ言葉だけによって、人間なのだし、また、たがいにつながっているのである。この嘘の恐ろしさと重大さを認めるならば、他のいろいろの罪悪以上に、これを火刑をもって追求して然るべきであろう」。そのうえで大西は、現実上の「嘘」と「フィクション(仮構)」とを同一視することはできない、そうすることは「似非芸術家における特権意識の思い上がりであるという(「〈嘘〉あるいは〈嘘つき〉のこと」一九九五年)。「似非」ではない本物の作家による「フィクション(仮構)」を、「嘘」から守ろうとしたのだ。

 

 だが、ここでも事態は、「フィクション(仮構)」と「現実上の「嘘」」とは、「同一視」以前にもはや峻別できないということではなかったか。それが、68年を席巻したいわゆる「言語論的転回」の問題だろう。あまりにも高名な例を引こう。

 

ギリシア的真理は、かつて、「私は嘘つきだ」という、このただ一つの明言のうちに震撼された。私は話すという明言は、現代のあらゆる虚構作品(フイクシオン)に試練を課す。(フーコー「外の思考」一九六六年)

 

 「私は嘘つきだ」という「ただ一つの明言」自体の真偽が、もはや決定不能である。いわゆる「嘘つきのパラドックス」というやつだ。「ギリシャ的真理」もモンテーニュの「真実」も、この事態に「震撼され」るほかはない。この中で「虚構作品(フイクシオン)」はあり得るのか。フィクション(仮構)は「嘘つきのパラドックス」に包摂され、おしなべて存在理由の「試練」を「課」されている。

 

 ここにおいては、大西の試みた「フィクション(仮構)」と「現実上の「嘘」」とか、「本当の嘘」と「方便としての嘘」とかいった区別は何の意味をもたない。もはやここでは、言葉は、「現実」やら「仮構の真実」やらの「表現ではない」(入沢康夫)のである。

 

 大西が言うように、確かに井上光晴は、「「仮構の真実」を作り上げるのが、小説家である」ことを「理解することがなかった」。前回述べたように、それは疑いの余地がない。だが一方、大西は、おそらく「言葉は表現ではない」ことを「理解することがなかった」のだ。このあたりに、大西が(あるいは武井昭夫が)68年に無理解だった理由があろう。

 

 では、言葉が、「現実」や「仮構の真実」を「表現」するという「リアリズム」はのり越えられたか。むろん、いまだそのような「アフター・リアリズム」を提示し得た者は誰もいない。68年が革命だったか反革命だったかという議論に、もはやリアリティがあるとは思えない。それこそ革命か反革命かが決定不能であることが、現在を規定するパラドックスではないのか。だがそれ以降、「嘘」や「フィクション」に課された「試練」から、誰ひとり逃れられないこと。その意味において、68年があるリミットを示していることは間違いないだろう。われわれは、依然として、大西が苦しんだそのリミットから何事かを学びとっていくほかはない。

 

 

(※注)

 「俗情=半封建的」がリアリティを失っていく過程で、講座派はいわゆる「構造改革派」へと転回していった。政治的にはグラムシ主義と陣地戦の導入である。日本における二〇〇九年の旧民主党の政権奪取は、その帰結であった。旧民主党政権最後の首相となった野田佳彦は、自民党安倍晋三に国会で「嘘つき」呼ばわりされ逆上し、「自爆テロ解散」(田中真紀子)に踏み切って大敗。その結果、政権を失ったのは、この文脈において象徴的であった。旧民主党構造改革派において、「俗情=半封建的」のリアリティは喪失されていたものの、かろうじて「嘘(つき)」はリアリティの残滓をとどめていたということか。野田は、「嘘つき」と言われることにプライドが許さない最後の政治家であろう。以降は、平然と嘘をつき、またそれを周囲の忖度によってなかったことにする、あるいはその発言がフェイクか否かがもはや決定不能な政治家が、世界の指導者として君臨することになる。

 

中島一夫