民主主義の「本源的蓄積」

 ジジェクは、スターリン主義全体主義を、ある一点において民主主義よりも評価している。

 

それゆえ、スターリン主義的な共産主義は、或る意味では「正常な」市民的秩序よりも率直なのである。それは創設の暴力をあけっぴろげに認めるからである。大文字の党は、「我々の狙いは食人主義を無効にすることだ――だからこれをやり遂げるために最後の一人を食うことが我々の仕事なのだ」と言う原住民のようなものなのである。恐らく、ここから引き出されるべき結論は、或る根本的な素朴さ、何らかのことを語られなかったことにし、まるで知らないかのように行為しようという或る決心を含んでいるのがいわゆる「民主主義」であるということであろう。(『為すところを知らざればなり』)

 

 「食人主義」の「原住民」については注が必要だろう。これは、カントとサドの差異について、よくジジェクが挙げる笑い話に基づいている。

 

人食いの風習を探している探検家の問いに答えて、原住民はこう言う「いや、このあたりにはもう人食いはいないよ。昨日最後の食人種をこっちweが食べたんだから」と。発話結果の主体の水準ではもう食人種はいないが、発話作用の主体こそ最後の食人種を食べてしまったこの「こっちwe」なのである。ここにこそ「発話作用の主体」の割り込みがあるのだが、この割り込みをカントは避けたのであった。人食いを禁止する大文字の法の秩序は、最後の食人種を食べることを自ら引き受けるこのような卑猥な執行者を介してしか確実なものになりえない。カントは法の起源、法の力の起源を突き止めることを禁じているが、この禁止こそまさに「発話作用の主体」という意味での、すなわち卑猥な執行者―手先の役割を引き受ける主体という意味での大文字の法の(=只中の)この小文字の対象に関わっているのである。

 

 このたとえに倣えば、「この国にはもう人民を権力で統治する王はいないよ。昨日最後の王の首をはねてしまったんだから」というのが、王殺し=民主主義革命になろう。だが、重要なのは、「発話結果の主体の水準では」すでに王殺し=民主主義革命は成就しているものの、そのように発話している「発話作用の主体」こそが、その首をはねたという「卑猥な執行者」張本人であるということだ。

 

 このように、民主主義やその法の起源には、それを成り立たしめた「本源的蓄積」たる暴力=享楽があったにもかかわらず、それを「まるで知らないかのように行為しよう」としているのが民主主義にほかならない。主体には、つねにすでに「発話作用の主体」と「発話結果の主体」との亀裂が含まれているのに、カントはこの亀裂を隠した(あるいは隠せるように主体をあらかじめ二重化した)。この意味において、民主主義はカント的である。

 

 一方、スターリン主義全体主義は、「創設の暴力をあけっぴろげに認める」。「大文字の党は」「最後の一人を食うことが我々の仕事なのだ」ということを隠さない。すなわち、福田恒存が言った「九十九匹」に対する「一匹=最後の一人」は、われわれの宇宙では存在し得ないと明言しているのがスターリン主義全体主義なのである。前回、三島の記事で述べたように、スターリン主義には「百匹」しか存在しないのだ。

 

 「九十九匹」に対して「一匹」を、という全体主義批判、政治(組織)批判は、民主主義革命を担保にしているが、その言説においては、王を「最後の一匹」として殺すという「創設の暴力」など、あたかもなかったかのようにスルーされているのである。あるいは、福田が主張する「一匹」は、すでに王の首が切られ革命が成された後の、「九十九匹」(百匹ー1)のうちの「一匹」に限定されていると言ってもよい。

 

 「一匹と九十九匹と」というと、まるで「一匹」と「九十九匹」とが対立項を成しているように見えるが、両者はともに王殺しが先行しなければ存在し得ない「発話結果の主体」なのである。福田にとって「政治」は、「九十九匹」の枠内の問題でしかないのだ。では、王の首を切った「発話作用の主体」という「一匹」はどこへいったのか。

 

 ここでは、王の首をはねるという革命は、「政治」からあらかじめ排除されている。この「革命」を「政治」からオミットする思考が、「九十九匹」の枠内としての(戦後)民主主義の前提となっている。だが、革命を思考するとは、「九十九匹」でも「一匹」でもなく、あくまで「百匹」を思考することではないか。

 

(続く)