帰れない二人(ジャ・ジャンクー)

 ジャ・ジャンクーの中国は、いつも懐かしい。

 前作『山河ノスタルジア』の、あるいは代表作『長江哀歌』のタイトル通り、ノスタルジーやエレジーに満ちている。北京五輪あたりから、まるで中国は、かつて日本に起こったことが大規模かつ早回しに映し出される映画のようだ。中国は、何より日本にとってのノスタルジーではないか。ジャ・ジャンクーを見ていると、いつもその視線に遠さより近さを感じてしまう。

 

 もちろん、それが「中国の近代と日本の近代」(竹内好)の差異を無視した幻影=映画であることは百も承知だ。下手をすると、マルクス主義講座派歴史観よろしく、「前近代性」を日本にも中国にも等しく当てはめてしまうのがオチだろう(そして、その帰結は戦前の「支那統一化論争」だろう)。だが、ジャ・ジャンクーの「風景」が、すでにノスタルジーもエレジーも喪失した、日本のノスタルジーやエレジーの幻想的な代補に見えてしまうことも否定しがたい(今作で、いきなり『YMCA』や『チャチャチャ』が流れる瞬間といったら!)。

 

 作品が告げるように、北京五輪開催が決定した2001年は、山西省、大同の宏安鉱山の閉山が決まった年でもある。大同の街をシマとする江湖=渡世人の「ビン」(リャオ・ファン)は、組員一同と盃をあおり義兄弟の契りを固く結んできたが、昨今大同が様変わりしてくるにつれ、仁義なき新興ヤクザらがのし上がってくる。彼らは前触れも挨拶もなく、ビンらを奇襲する。ビンの恋人「チャオチャオ」(チャオ・タオ)は、炭鉱をクビになった父を連れて開発計画で経済成長の波に乗る新疆へと移住し、新天地でビンと新しく家庭を築きたいと願う。一方、ビンは「渡世人には新天地も安住の家庭もない」とにべもない。だが、渡世人の仁義もチャオチャオとの愛も、先に裏切ったのはビンの方だった。チャオチャオは、大同から奉節、新疆、再び大同へ7700kmを移動しながら、失われた愛と仁義を追い求めてさまようことになる。

 

 ずっとジャ・ジャンクーを見てきた者であれば、ビンとチャオチャオが、あの『青の稲妻』(2001年)の若い二人と同じ名前であることに思いをめぐらせずにいられないし、チャオ・タオが長江の客船に乗って三峡を移動する時の服装や髪形が、『長江哀歌』(2006年)のそれであることに心動かされてやまない。

 

 また、これも『長江哀歌』のヒロイン同様だが、チャオチャオが常にペットボトルの水を手にしているのが印象的だ。われわれはもう忘れているが、飲み水を商品として買うようになった時の衝撃といったらなかった。ペットボトルの水は、あらゆるものを商品化していく資本主義の「媒介性」の力をそれ一つで示すアイテムであり、かつ失われていく鉱山のミネラルを想起させる(捏造された)「純粋性」の表象でもある(チャオチャオが、列車で出会ったUFO男に手をつなぐことを求められ、思わずペットボトルの水を差しはさんで握り合うシーンは、その媒介性と純粋性とを同時に示すシーンだ)。

 

 ジャ・ジャンクー作品のミューズ、チャオ・タオについても同様なことが言えよう。チャオ・タオは、ジャ・ジャンクー作品において、「純粋性=透明性」を体現しているが、それは中国の休みなき発展の時間と切り離せない。いわば、チャン・タオの純粋性そのものが、もとから存在するものではなく、飽くなき成長と発展という「媒介」を経て逆説的に、また遡行的に見いだされるものなのだ。チャオ・タオという存在がペットボトルの水なのである。

 

 ラストのチャオチャオの姿はその現在形だ。ビンを介護する形で愛を取り戻したかに見えたチャオチャオは、だが結局またしても裏切られてしまう。ラストは、仁義なきアナーキーと化した大同の街に対応すべく、家の内外に張り巡らされた監視カメラに、ビンが消えて右往左往する彼女自身の姿が、皮肉にもいくつもの画面に映し出されることになる。最近の『幸福な監視国家・中国』(梶谷懐 高口康太)が伝える、安全・幸福のためにすすんで監視社会化を歓迎する中国を想起させてやまない。

 

 渡世人の仁義やら愛やら絆やらは、完全に過去のものだ。強く結びついた「二人」にもう「帰れない」のは、ビンやチャオチャオだけではない。ヤクザがシマの「治安」を守っていた「暴力」は、一見暴力を感じさせない監視カメラにとってかわられた(これまた『幸福な監視国家・中国』が言うように、中国の監視カメラは日本のそれより数段これ見よがしに設置され、「監視しているぞ」という威圧感がある)。そんななか、確かに現在プロファイリングされてしまうのは、「帰れない」仁義や愛に固執してしまうチャオチャオのような人間なのかもしれない。彼女のような人間は、いまや記録され保存される過去のデータ=標本なのだ。まさにジャ・ジャンクーの作品は、失われていく中国の、いなくなっていく人間の、貴重な記録としてある。

 

中島一夫

 

上級国民と一夫多妻

 

上級国民/下級国民 (小学館新書)

上級国民/下級国民 (小学館新書)

 

 

 2019年4月の池袋における車の暴走事故以来、ネット上に飛び交うようになった「上級国民/下級国民」という概念について、『上級国民/下級国民』(小学館新書)の橘玲は次のように言う。

 

「上層階級(アッパークラス)/下層階級(アンダークラス)」は貴族と平民のような前近代の身分制を表していましたが、その後、階級(クラス)とは移動できる(下流から「なり上がる」)ものへと変わりました。それに対して「上級国民/下級国民」は、個人の努力がなんの役にも立たない冷酷な自然法則のようなものとしてとらえられているというのです。いったん「下級国民」に落ちてしまえば、「下級国民」として老い、死んでいくしかない。幸福な人生を手に入れられるのは「上級国民」だけだ――。

 

 かつての「下流社会」(三浦展)が名前のとおり「社会」だったことを考えると、「上/下」の分断は、階級→社会→国民、と移行してきたということか。下流「社会」には、まだ市民「社会」がかろうじて残存しており、だからこそ、まだ「上流」は「下流」の鏡像であって、「下流」から「上流」へのなり上がりも可能であった。

 

 だが、昨今の「上級国民/下級国民」になると、それは「冷酷な自然法則のようなもの」(今流行の進化論や功利主義的なもの?)として、巨大な分裂と強固なヒエラルキーを成している、と。いまや「市民社会」は縮減し、かわって「国家」がせり上がってきていることを、はからずも露出させている概念といえよう。

 

 興味深いのは、著者が「上級国民/下級国民」を、端的に「モテ/非モテ」という性愛の分断と見なしていることだ。「お金は分配できても、性愛は分配できない」からである。もはや現代は「事実上の一夫多妻」だというのだ。

 

 「事実上の」というのは、先進国で増えているのは、一部の男が複数の女性と「結婚と離婚を繰り返す」形の「一夫多妻」であるからだ。これによって男性の未婚率が女性の未婚率を大幅に上回ることになっている、と。昨今、男性の未婚率、非婚率の上昇が盛んに取りざたされるが、それは一般化にすぎるミスリードだ。本当は「マジョリティ」を形成してきた「男性」自体が、「モテ」と「非モテ」に分断しているのだ、と。「モテ=上級国民」とは要は「持てる者」であり、経済的にそれが可能なので、結婚と離婚を繰り返す「一夫多妻」を実践しているわけである。

 

 一方、「下級=非モテ」は、その「モテ」と多数の女性が形成する「領域」全体から疎外されているので、彼らは「「モテ」の男(上級国民)」とすべての女は自分たちを抑圧する〝敵〟」と見なしているという。最近、さまざまに論じられている、アメリカの「インセル」のように。

 

 すが秀実が、見事な「雑文」で論じているように、「一夫一婦制は民主主義のインフラであ」り、そして日本においてそれを支えてきたのは天皇制にほかならない。いわゆる「戦後天皇制民主主義」である(「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち――ケーススタディ」「G-W-G」03号)。

 

 であるならば、「事実上」の一夫多妻から排除されている「非モテ=下級国民」が、自分にも分配せよとばかりに「一夫一婦制=戦後天皇制民主主義」を、積極的に支持するのは当然だろう。アメリカでは「インセル」のような「非モテ」が、トランプ旋風のようなポピュリズムオルタナ右翼を醸成させ、それらは互いに結びついている。まだ日本がそこまで行っていないのは、本当は分断している「モテ/非モテ」を、一夫一婦制のインフラたる戦後天皇制民主主義が、かろうじてつなぎ合わせているからだ。だが、本当に「天皇」は、「非モテ」の鏡像たり得るのだろうか。

 

 すがが強調しているように、一夫一婦制の民主主義による平等は、男根(男性)中心主義のもとでのそれにすぎない。それは先日ブログで述べた(「疎外と天皇」)、資本主義=市民社会における「自由と平等」が、その実「支配と隷属」関係をつねにすでに隠し持っているのと同断である。いまや市民社会が崩壊しつつあるので、決して自然解消しない「支配と隷属」の非対称的な「核」が、「資本主義―市民社会」(経済)から「一夫一婦制=戦後天皇制民主主義」(性愛)へと領域的にスライドしてきているのである。それにともなって、「上流/下流」社会が、「上級/下級」国民へとスライドしてきたわけだ。

 

 三島由紀夫が東大全共闘を相手に「フリーセックスの天皇」と言った時、現在の問題を先取りしていたと言える。

 

私の言う天皇というのはその統治的な人間天皇のことを言っているのじゃないのだ。人間天皇というのは統治的天皇ですから儒教的原理にしばられて、それこそ明治維新以後あるいはキリスト教にもしばられていたでしょう。一夫一婦制を守られて国民の道徳の規範となっておられる。これは非常に人間として不自然だ。私は陛下が万葉集時代の陛下のような自由なフリーセックスの陛下であってほしいと思っている。

 

 『古事記』の天皇は、兄弟が平気で殺し合うし、父母をちっとも尊敬していない不道徳のかぎりを尽くしている天皇だ。だが、景行天皇日本武尊を疎外してからというもの、天皇は、儒教的原理やキリスト教的道徳に縛られた「統治的天皇=人間天皇」になり果ててしまったと三島は言う。三島の説く「神=天皇」とは、この「統治性」(フーコー)の外部自体を指している。

 

 三島の主張する「言論の自由」も、この一夫一婦制の道徳からの自由である「フリーセックス」の「フリー」をベースにしていよう。三島は「言論の自由」を、「文化を腐敗させる」「本質的に無倫理的」なものと言っているからである。三島は、無倫理なフリーセックスや一夫多妻が文化を腐敗させ、ポピュリズムを醸成させることなど百も承知だっただろう。にもかかわらず、「相対的にこれ以上のものは見当たらない」のだ、と(「文化防衛論」)。天皇制による一夫一婦制とその道徳とは、結局「男根(男性)至上主義」による「統治」でしかないからだ。いくら表面的にはPCの嵐が吹き荒れようとも、それは「モテ/非モテ」のヒエラルキーを微温的に保持し続けるだけだろう。

 

中島一夫

 

疎外と天皇(三島、江藤、柄谷)

 拙稿「江藤淳新右翼」(『江藤淳 終わる平成から昭和の保守を問う』)は、「右からの六八年=保守革命」(フォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』)の文脈で、江藤と三島を捉え直してみたものだ。だが、柄谷行人が「新しい哲学」(1967年、『柄谷行人初期論文集』)で、とうに同様な指摘をしていたことを最近思い出した。

 

 もちろん、柄谷は「右からの六八年=保守革命」や「新右翼」という言葉で述べてはいない。一言で言えば、柄谷は疎外論の文脈で捉えていた。そこでは「国家」と「市民社会」の分離とは、人間を類的存在という「本質」から疎外するものであり、その「疎外」を明確に認識し批判し得た存在として、三島と江藤とが論じられるのである。

 

戦後民主主義の虚妄に賭ける」という丸山真男はおそらくこの自己分裂の現実がどれ程深く文学者の表現にくい入っているかについて知らないか、梅本のように政治的有効性においてしか考えようとしないか、のいずれかである。政治学者は「合理化」の度合をプラグマティックに考量していればいいらしいが、人間の今の自己回復について過敏な少数の文学者は端的に分裂を表白する。その一人が三島由紀夫であり、また江藤淳なのである。三島は市民社会大衆社会)の私的実存にとって民主主義国家が疎遠なものと化し、利己的で非本質的な人間が競争する醜悪な現実に対して、ほとんど原理的といってもいい程わかりやすい反応を示す。つまり国家を市民社会の側にひきもどすこと、国家というかたちで疎外された人間の本質(類的本質)をひきもどすこと、そのためには(国家を揚棄するのではなく)国家を宗教化すること、いいかえれば天皇を神とすることである。天皇が三島にとって現状否定のシンボルとなるのは、それが転倒されたかたちでの市民社会揚棄をめざすからであり、林(注―房雄)にとって現状肯定のシンボルとなるのは、それが「民主主義」の保守的機能を果すからである。

 また江藤淳は国家と市民社会の分離を「喪失」として、つまり人間的本質の喪失として把握し、それが文学的言語の中にいかに表出されているかを指摘してみせる。かつての江藤淳はいわばブルジョア的合理化のイデオローグであり、それを散文化のうちに見ようとする文芸批評家にすぎなかった。その姿勢が実践的であるだけ、彼は市民社会の散文化自体が人間的本質の「喪失」を伴うことに気づいていなかった。だから僕は松原新一の江藤批判は実に下らないとしか思えない。松原の小道徳的批判にも拘らず、江藤淳の「転向」の意味するものは二つの点で鋭く僕ら自身に関わっている。第一に、先に述べた現状況の変化、第二にその変化を感性的にとらえうるために必然的に江藤がやらねばならなかった何ものかの放棄。すなわち〈行動する批評家〉から〈見る人〉への転換である。

 江藤淳が〈見る人〉であり、病者としての自己と世界を〈見る人〉であるのに対して、三島は「病者であるとともに医者でなければならぬ」といって積極的に思想を語りはじめる。但し三島の思想は「めざめた夢」(フォイエルバッハ)にすぎない。国家と市民社会の分裂は市民社会内部の分裂の表象なのだから、国家幻想のうちに市民社会を吸収しようとする空想は刹那的にしか実現されないことは先験的に明らかである。いずれにしても三島や江藤の意識に(たとえ転倒されたかたちにせよ)まるで鏡のように現実が映し出されているの驚かざるをえない。それに反して左翼知識人の意識に映っている危機感は、せいぜい民主主義の危機か戦争の危機でしかない。マルクスをいかにかじっても、彼らは〈見る〉ということができないのだ。(柄谷行人「新しい哲学」)

  

 三島と江藤にとって、「戦後民主主義」とは、「国家」と「市民社会」が分離、分裂しているにもかかわらず、それがないかのように、さらに言えば民主主義革命によって、あたかも「国家」が乗り越えられたかのように見なす「ごっこ」(江藤)であった。だからこそ、彼らはまず、人間の「疎外」を明確にしたうえで、「国家を市民社会の側にひきもどすこと」を目論んだのだ、と。

 

 つまり柄谷は、三島と江藤は、初期マルクス的な疎外論を共有していたと言っているわけだ。だからこそ、ニューレフトと交差し、保守革命を志向し得たのだといえる。保守革命は、必ず「本質=故郷」からの「疎外」をモチーフとするからだ。そして彼らが、「天皇」を最も疎外された者として、すなわち民衆の「疎外」を表象=代表する存在として捉え直し、それに対するフェティッシュ的な欲望を共有していたことも言うまでもないだろう。

 

 逆に言えば、彼らは、天皇へのフェティシズムを持つことによって、疎外論を保持し得たということだ。もし疎外が解消されるなら、還元し得ない存在がフェティッシュ化することもないからだ。

 

 市民社会マルクス主義の大衆天皇制論(松下圭一)や、廣松渉の疎外革命論批判(社会構成論)は、この疎外=フェティッシュが、松下のように陣地戦的に漸進的に、であれ、廣松のように錯視を除去することで一挙に、であれ、解消可能であるかに見なした。ここに誤りがあったのではないか。それらは、現在の「リベラル天皇制」や「新しい社会運動」にまで理論的にまっすぐつながっている。

 

 だが、マルクスによる商品の物神性論の「肝」は、商品の関係に、人間の社会的諸関係が、ひいては支配と隷属の関係が、(転倒されて)隠されているということではなかったか。商品の物神性とは、支配と隷属という人間相互の関係が、商品相互の関係に置換されたものだ。すなわち、資本主義による商品の物神性に覆われた近代市民社会とは、前近代的で封建的な支配と隷属の関係が抑圧された擬制にすぎず、前者における自由や平等は、後者を隠蔽したイデオロギーである。近代になって封建制から市民社会になったといっても、資本主義的な市民社会自体が、常にすでに「半」封建的なのだ。

 

 言い換えれば、資本主義における商品の物神性が存在する以上、支配と隷属からくる「疎外」がなくなることはない。疎外は、「自由と平等」のイデオロギーで抑圧され塗りつぶされ解消されたかに見える。

 

 だが、疎外が決して解消されていないことは、ほかならぬ「天皇」の存在が示しているのだ。先に述べたように、「天皇」とは、民衆の疎外が集積され表象された「もの」だからだ。「天皇」は疎外が解消されない証であり、「天皇制」とは半封建の残存ではなく、資本主義―市民社会そのものの半封建性の表れなのである。三島と江藤が、疎外から「天皇」をフェティッシュ化したゆえんだ。

 

 柄谷は、「新しい哲学」の時点でそれを触知していながら、私見では、その後『探究Ⅰ』の段階で「転回」した。『探究Ⅰ』で、商品と商品との関係に、垂直的な支配と隷属関係ではなく、水平的な(当時は「斜め」の言われた)非対称性や他者性を見出していった時、いわゆる「市民社会論」に漸近していったのではなかったか。その時、疎外―フェティシズムが見失われた(置換された)のだ。柄谷の他者論に、もう天皇の姿はない。

 

中島一夫

 

よこがお(深田晃司)

深田晃司は、ずっと「間=あわい」に立ち騒ぐ〝何か〟を撮ってきた人だ。

旧作のタイトルでいえば、「ほとり」や「淵」を見つめてきた人。

 

ある事件が起きる。

でも、この監督が捉えるのは直接の加害者や被害者ではない。

加害と被害に分岐する手前の、両者の「間」にある、人、もの、感情だ。

 

報道や周囲の目、とりわけその言葉というやつは、この「間」に生起する〝何か〟を、どちらかの陣営に取り込まねば気が済まない。

美術館のカタログが、ひまわりの絵を、「生」と「死」とに振り分けて説明しようとするように。

そうしないと「表現」し得ないから。

 

言葉はいつも「間」に無力だ。

だからこそ、そこには、「間」を無理矢理「言葉」へと落とし込もうとする暴力が働く。

「間」の〝何か〟は、ただただ受動的に暴力に巻き込まれるほかはない。

その立ち騒ぎに、監督はカメラを回す。

 

加害者の、母親でなく叔母でしかない市子(筒井真理子)は、いつ「加害者」になるのか。

市子に憧れ、同一化しようとしていた基子(市川実日子)は、いつ市子の「敵」になるのか。

また、基子の市子への感情は、いつ憧れ以上のものになるのか。

 

動物にすぎなかった人間は、いつ「男」になり「女」になるのか。

性への関心や欲望は、いつ「愛」になるのか。

 

言葉を与えられた「間」の〝何か〟は、もうそれで「決定」なのか。

市子が結婚してしまうと聞いて、焦った基子はこう言う。

「それって決定なんですか?」

 

 

市子の訪問看護師という仕事も「間=あわい」に立つ仕事だ。

訪問看護師は、家の中に入り込み、家族が抱える困難にともに取り組む、半分内で半分外の存在だから。

 

だから、一度信頼を失ってしまえば、家族にとっては一家を崩壊されかねない、内部に侵入してきた脅威=エイリアンとなる。

市子はリサとなる。

犬となった市子=リサは、家の中の存在か外の存在か。

 

一挙に彼女の横顔は、文字通り「よこがお=あまり知られていないその人の一面」となっていく。

リサなど誰も知らない。

そして誰も知らない「よこがお」は、だからこそ都合の良い言葉や物語を得て、いかようにも解釈され、一人歩きしていくだろう。

市子が小さな男の子だった甥のパンツを下げれば、たとえそんな気がなくても、それは「性的な導きをした」という物語となっていくように。

 

いかなる形、どのような大きさの「よこがお」も、鏡に、カメラに収まっていく。

鏡の中、カメラの中の市子のよこがおを、人は知っているか。

作品自体が、女優筒井真理子のよこがおに翻弄されていく。

七変化に映る女優の魅力にとりつかれたように。

 

あいかわらず、いやらしいほどにうまい。

エンドロールの静寂は、バックミラーのように映画を振り返っては、観客たちに主人公のよこがおを思い返させてやまない。

 

やがて、静寂の「間=あわい」から街のざわめきが戻ってくる。

ようやく観客は我に返り、自分が夢と現実の「間=あわい」におり、いつのまにか映画の半分内、半分外に立たされていると思う。

 

中島一夫

 

天気の子(新海誠)

 主人公の少年は、離島の核家族に「息苦しさ」を感じて上京しネカフェで生活。

 一方、もう一人の主人公の少女は、天気を左右する力を持つ「巫女」で、さらに王子のようなオーラを放つ美しい顔の小学生の弟と訳アリのアパート二人暮らし。

 この二人がマクドで出会い、警察から(結果的に)奪った拳銃一丁を武器に、国家権力=警察を敵に回して「セカイの形を変える」決断を敢行すること。

 

 では、二人はどのようにセカイを変えたのか。

 それは、人間の力を超えた天とのつながりを切断し、たとえいかんともしがたい天災に見舞われようとも、被災者の鎮魂や癒しを、誰か「一人」の手に委ね押し付けようとしないように、である。

 

 少年は言う。彼女のおかげで「ハレ」ていたことを、いつも彼女が「人柱」になってきたことを、「大人は皆知っているのに!」。

 

 少年の「命の恩人」である「スガ」は、「一人が犠牲になって空が安定するならその方がいい。皆、そう思ってるだろ」というようなことを言う。この時「空=天気」は、お天道様に照らされ続けることで安定する「地=民衆(皆)」という構造全体を指していよう。スガは、この構造全体の安定をはかり続ける官房長官のようでもある。

 

 二人の決断は、そんな構造は「もういい!」ということだ。誰か「一人」を透明な存在として、天上(それは同時に海の底(魚)とも通底している。君臣水魚の交わり?)に犠牲の人柱として差別し続けることで安定するような構造は「もういい」。逆にいえば、セカイは、その「一人」によって蓋をすることで、かろうじて不安定や不透明から免れているのだ。

 

 それを「もういい」と退けることは、したがって「天気の子=天皇の子」から下りるということだ。たとえ手錠をかけられ、逆さまに落下しようとも、またそれによってセカイが滅茶苦茶になり水没しようとも、そのように都会の片隅に疎外された若い二人が手を繋げば「大丈夫」だと「決断」すること。

 

 世界など最初から狂っていたし、東京も昔は水の底だった――。大人たちの寛容さは、例外状況の現在を、反復的な歴史観に回収しようとする。ラストで主人公は、そんな大人たちをきっぱりと否定する。あくまで、自分たちが下した「決断」こそ「セカイの形を変えてしまった」のだ、と。

 

 かつて宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術論綱要」)と言った。対して、今作の主人公は「世界全体」など「もう」どうなっても「いい」、知ったこっちゃない、あくまで大切なのは「個人の幸福」なのだと「決断」する。ネオリベの先端で起こる(かもしれぬ)究極の個人主義? 

 

 誰も特別な「プラスワン」(江藤淳)などではなく、普通に名前をもった単なる「ワン」でしかないこと。そのように「形を変える」ことでセカイは崩壊するかもしれない。その前に大人たちは事態に脅え(現在広がる異常気象へのぼんやりとした不安)、何だかんだと回避しようとするだろう。だが、自分たちは、断固としてそれを「大丈夫」だと肯定しよう――。

 

 果たして、家族を放棄し下層を決定づけられた若者たちが、そのようにセカイを変えることを「決断」する日は来るのだろうか。それとも、それ自体セカイ系の夢想でしかないだろうか。

 

 新海誠は、前作に怒った人たちを「もっと怒らせようと」今作を作ったという。だが、本当に怒らせたかったあて先は、もっと別にあったのではないか。少なくとも、そのような挑発を感じた作品ではある。

 

中島一夫

 

ハウス・ジャック・ビルト(ラース・フォン・トリアー)

 2011年カンヌ映画祭の『メランコリア』上映後の記者会見で、トリアーは「ヒトラーにシンパシーを感じる」と発言し、カンヌから永久追放となった。まさに今作のエンディングよろしく、カンヌから「二度とやって来ないで!」と排除された。

 

 もちろんあの発言は、トリアーが、ずっと自分はユダヤ人だと思っていたところ、実はドイツ人の血を引いていたことが分かり、そこで「僕はナチスだ」と言ったという文脈があった。トリアーがずっと重度のうつ病に悩まされていた時期でもある。だが、初期の『ヨーロッパ』(1991年)からしナチス側の視点に立った作品だったのだから、これは「失言」というより「本音」に近かったのではないだろうか。

 

 後半、アラン・レネ『夜と霧』の一場面――ユダヤ人の大量の死骸がブルドーザーになぎ倒され一掃されていく、例のアウシュヴィッツの記録映像――が挿入される。あたかも、今作の主人公のシリアルキラー「ジャック」(マット・ディロン)が、ナチスの末裔であるかのように。「ミスターソフィスティケート(洗練)」と呼ばれるこのシリアルキラーは、国「家」に住みつく不快な「しみ」を除去し浄化しようとする、一個の潔癖症的な20世紀の精神ではないか。

 

 作中言われるように、この20世紀の精神は、その昔ギリシャ人たちがヒュブリス=過剰と呼んでいた狂気と通底している。フーコーを待つまでもなく、近代以降のヨーロッパ人の理性は、こうした過剰な狂気を、非理性として疎外、排除、監禁した。

 

 だが、それらは写真のネガのように、必ずポジの奥底や裏側に張り付いている。ネガとポジは、カントとサド、啓蒙の弁証法のようにいつでもひっくり返る。作中、アニメで繰り返される街灯と影のくだりは、ジャックの狂気とともに時代の狂気の比喩でもあろう。時代が街灯の下まで歩みを進めたとき、世界のどこかでシリアルキラーたちが突如覚醒する。排除されてきたことへの復讐のごとく。

 

 技師のジャックが、「自分の家」を建てようと建築家を夢見ているというのも示唆的だ。そもそも、20世紀の建築家にとって、自邸をデザインし建てるのは、最も重要なマニフェストだった。隣が誰だか分からず、したがってSOSを叫んでも助けの来ない集合住宅に、もぐらのように住んでいる住人たちを、次々と草を刈るように殺しては運び出していくジャックは、まるで「家」が「住むこと=建てること」から遠く離れて、「住むための器になってしまっている」(「ヘーベル―と家の友」)と嘆いたハイデガーを想起させる(ハイデガーナチスの親近性については言うまでもない)。ジャックは、家を建てることを忘れ、家は買うか借りるものだとしてもぐら化した現代の住人たちを、今度は「家」の素材にしてしまうことで国「家」を倒錯的にデザインしようとしたのではなかったか。人体を洗う石鹸の素材を、自ら殺した人体にしようとしたナチスのように。人間がモノと化しているなら、お望み通りモノとして再利用し機能させよう。ツェランが言ったように、花を人間にではなく、人間を花に捧げようとしたユダヤ絶滅収容所のように。

 

 ここで、ジャックが、グレン・グールドに憧れていることがにわかに興味深くなる。グレン・グールドがピアノを弾く姿をもぐらにたとえたのは浅田彰だったか。

 

異常に低い椅子に腰かけ、背を丸めて、ほとんど鼻の先で忙がしく指を動かす。それは、もぐらが土の中で穴を掘っているところにそっくりだ。そういえば、日のあたるステージから逃れ、人目に触れない奥まった録音スタジオにこもったところも、もぐらのようだと言えるだろう。とはいえ、そのもぐらの穴は、地上の喧騒をはなれ、自分自身と一対一になるための、閉ざされた避難者というだけではない。それは、ほんもののもぐらの穴が無数の隙間によって外と通じているのと同じように、エレクトロニクスのネットワークによって全世界と通じているのだ。グールドはかつてスタジオのことをもっとも「子宮的」な場所と呼んだことがあるけれども、それはいわば電子の子宮である。地上からそこへと身をひいたグールドは、自閉に陥るどころか、慣習的なコード――例えばコンサートという演劇的儀式を律するそれのような――から解き放たれた、より自由なコミュニケーションを行なえるようになる。穴にこもることがいっそう大きな運動性を獲得することでもあるという逆説。(『ヘルメスの音楽』)

 

 ジャックもまた、死体を押し込んでおく巨大な冷凍庫という「スタジオ」に身を引きながら、しかし「自閉に陥るどころか」中盤から持病の恐怖症からも「解き放たれた、より自由なコミュニケーション」ならぬ「殺人」を行うようになっていく。

 

 グールドの音楽が「垂直的」というより「水平的」と評されるように、本当はジャックの殺人の「家」も、何かそこに「地下室=深層=無意識」があるような垂直的な構造をもってはおらず、水平的に横へ横へと連続的に解離的にズレていくだけだったのではないか(死体の保管の仕方も行き当たりばったりに見える)。だからジャックは、なかなか「家」を建てられないのである。垂直的ではなく水平的にズレていく「家」とは、いわば「家」の自己否定のようなものだからだ。

 

 だから、惜しむらくは、本作があの冷凍庫の奥に「開かずの間」を設計してしまったことだろう。部屋がどこへと続くのかは触れずにおく。だが、お決まりの枠物語としてあの部屋を設えてしまうところに、トリアーの愛らしい人の良さが表れていることもまた確かだ。いつも思うのだが、だがそれは彼にとって、解放なのだろうか、それとも呪縛なのだろうか。

 

中島一夫

 

誰もがそれを知っている(アスガー・ファルハディ)

  シェイクスピアハムレットは「時間の蝶番が外れてしまった」と言った。そして時間は発狂したように、それまで整序されてきた記憶や歴史がほどけ、亡霊が現れ出た。

今回イランからスペインへと舞台を移したファルハディは、スペインの小さな村とそこに住むある一家の「時間の蝶番を外」してみせる。

 

 冒頭から兆候はあった。村の中心たる教会の時計台の裏側が映し出され、この村の時を束ね刻んできた時計の歯車が、年季の入った音をたてている。

普段は隠されている時計台の内側。それは、この村の記憶や歴史の暗部の象徴だ。「誰もがそれを知っている」ものの、決して明るみに出てはならない秘密だ。

 

 物語は、一家の結婚式で村人総出のどんちゃん騒ぎ、一同泥酔のなか主人公「ラウラ」(ペネロペ・クルス)の娘が誘拐されるという事件が発生する。どうやら事件は、一家の秘密に関わっているようだ。だが、その秘密が、事件によって暴かれていくという程度なら、何もファルハディが撮るまでもなかっただろう。

 

 この監督ならではと思わせるのは、一家がお互いに疑心暗鬼に陥っていく要因に、土地をめぐる時間=記憶が横たわっていることだ。ラウラの一家は村の大地主であったが、父が賭け事に負け、ずいぶん昔に手放している。にもかかわらず、今もなお父はそれらが一家の土地であり、人々に不当に奪われたと思っているのだ。ラカン風に言えば、村人たちに、己の享楽が盗まれていると思い込んでいる人物なのである。

 

 その最たるが、ペネロペ・クルスの実際の夫でもあるハビエル・バルデム演じる「パコ」だろう。事件解決に向けて、ラウラを支えようと奔走するパコに、父は言い放つ。「一体何様だ。自分の家でもないのに、家族のように出入りしている。勘違いするな。お前は使用人の息子だ」。長年、胸に秘めてきた父の本音=「時計」の内側だろう。

 

 お前は使用人家族にすぎなかったのに、不当に土地を掠め取り、勝手にぶどう園にしてしまった挙句、今やワイナリーを営んで荒稼ぎしている。だが、その土地が、もともとうちのものである以上、「お前は村の誰よりも、わしに恩があるのだ」と。

 

 まるで父は、犯人から要求された身代金は、パコが払うべきだと言わんばかりだ。まだ、地主/使用人、村の中心/周縁という半ば封建的な関係性が存在し、両者に明確に一線が引かれていたあの日に時計を戻すように。結婚式でさかんに歌われていた「あの日に戻りたい、もう一度」とは、父の思い=封建制のことではないか。

 

 過去作で、イランにおける西洋=世俗化/イスラーム=伝統という時間のズレとそこから生まれる階級的な対立を、ずっと描いてきたこの監督は、今回スペインの小さな村を舞台に、大土地所有の封建的な関係の残存という、資本主義のより普遍的なテーマに移行したように思える。問題は、資本主義になって封建制の「主人」が退陣したことは、「主と奴」という人間同士の関係が、商品(物)同士の関係へと置換されたにすぎないことだ。

 

だからこそ、封建制から資本主義への移行をマルクスがどう捉えたかという点に、症候の発見を求めなければならないのだ。市民社会の確立によって、支配と隷属の関係は抑圧される。形式上は、自由な主体どうしの人間関係はいっさいの物神性から解放されている。だが抑圧された真実――すなわち支配と隷属がいまだにあること――は症候となってあらわれ、平等や自由などのイデオロギー的外観を突き崩す。この症候、すなわち社会関係の真実があらわれる点が、まさしく「物どうしの社会関係」なのである。(ジジェクイデオロギーの崇高な対象』)

 

 父は、大土地所有者として、過去の「人間どうしの」主従関係の物神性に、いまだ呪縛されている人物である。土地は、すでに「商品」として村人たちに売却されているのだから、パコをはじめ、土地を買った村人たちと父との間に主従関係はもはや存在しないはずだ。

 

 だが、本作のテーマは、主従関係は「抑圧された真実」として「物どうしの関係」に転移されているだけで、「症候」として必ず残存しているということである。それは、この村の時間を刻んできた「時計」の、隠された裏側に張り付いている「真実」なのだ。亡霊のごとく。

 

 だから、結局パコが身代金を支払うハメになるのは、ストーリー上の要因をこえて、本作の構造的な必然だとさえいえる。共同経営者もいる大規模なパコのぶどう園には、いまや多くの出稼ぎ労働者が、村の外から移民のごとくやってきている。村人たちは、パコの農園で重労働する気はない(そういう場面がある)にもかかわらず、彼らにとって、出稼ぎ労働者たちは、村の「物」を不当に村の外へと盗み出しているようにしか見えないだろう。

 

 パコの農園から獲れるぶどうと、それから醸造されるワインという商品は、もともと村の土地の恵みではないのか。それを掠め取り、合法的に外へと持ち出しているパコは、村の「敵」ではないか――。これが、かつての土地所有者である父とその家族、そして村のシンボルたる教会に集う村人たちの「誰もが知っている」「それ」の正体である。

 

 映画の前半で、パコが右手にぶどう、左手にワインを持ち、「両手の間に何がある?」と問いかける場面がある。「それは時間だ」。

 

 この時の彼は、この後、まさかその「時間」に復讐されるとは思いもよらなかっただろう。この両手の間には、封建制から資本主義への移行の「時間」が存在している。その「時間の蝶番」が外れたとき、近代の市民社会における自由や平等という「イデオロギー的外観」が、その裏側に何を隠してきたのかが一気に暴かれるのである。

 

中島一夫