ベンヤミンのシュミット批判――アンチ・オイディプスはまだ早い その3

 シュミットが、近代の「政治」とはまさに「政治神学」であり、世俗化された「神学」だと言ったのもそうした意味においてである。「例外状況」とは、神学おける「奇蹟」に相当するわけだ。したがって、ここでは不可避的に神(話)との再結託が起こるのである。バロック悲劇に両義性が宿るゆえんだ。重要な論点なので、長くなるが引用しよう。

 

同様の仕方、もっと広範でさえある仕方で、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』は、道徳性に関わるポスト・ギリシア悲劇的な用語に基づくはずのバロック悲劇が地下において悲劇と神話の結託を再生産している、と論じている。歴史を場面の中心に押しやり、神の権威ではなくリアルポリティックスに焦点を置くことによって、バロック悲劇は政治的支配の諸形態と取り組む。けれども、最終的に示されるのは、それらを断固として受け入れることをためらうバロックの姿である。

 確かに、バロック悲劇が描く政治的支配者たちは、超越的な価値を奪われた世界のただなかで、政治的主権の前例のないモデル、純粋な政治の諸概念に同意する。それらの概念は、支配のメカニズムから宗教的、道徳的、美的な関心を取り除き、したがって、政治という自律的な領域の分化をはっきりと是認する。バロック悲劇が表現しているのは、人間の相互行為からなる非形而上学的な場としての政治的なるものの出現である。そこでは、指導者と臣下たちが、社会的な目標、制度、法的な規範をめぐって交渉し、競合する野心をぶつけ合う。

 しかしながら、皮肉なことに、バロック悲劇が道徳的なものと政治的なものの分離を含むそのような国家の新しい諸概念を育むのは、道徳的反省を自然史の局面に、それゆえ神話の局面に移し替えることを代償としてのみである。自らの超越論的な故郷喪失、メランコリックな絶望に直面して、バロックの主権者たちは権力の世俗的な論理につまずき、今度は自分たちの危うい権威を、道徳性の再自然化されたモデル、すなわち美的・宗教的な領域において基礎づけようとする。ベンヤミンの捉えるバロック悲劇の作者たちは、あらゆる政治的なものを外化し、絶対君主制の基礎を確かにするためには何であれ舞台に登場させた。その一方で彼らは、政治的権威の衰退を阻止するために、法と秩序を身体に書き込み、道徳的な自律性と個人的な行為能力を消し去るのである。(ルッツ・P・ケプニック「スペクタクル、バロック悲劇、決断のポリティクス――ベンヤミンによるバロックとワイマールの重ね読み」細見和之訳、二〇〇四年『舞台芸術』06)

 

 ギリシア悲劇の英雄が、超越的に機能している神話の批判を敢行した(だが破壊しきれずに死んでいった)のに対して、バロックの君主は、すでに「超越的な価値を奪われた世界」で、したがって「神の権威」に頼れずに自律的な「政治」の領域=「リアルポリティックス」によって、政治=統治を行わねばならない。だが、そこは何の「形而上学的保証」もない世界であり、したがって「超越論的な故郷喪失、メランコリックな欲望」に覆われるほかはない。

 

 そして、「今度は自分たちの危うい権威を」「美的・宗教的な領域において基礎づけようとする」のである。宗教を密輸入した芸術諸ジャンルが、自らの統治を「美的・宗教的な領域において基礎づけようとする」バロックの君主に必要なゆえんだ。

 

 以前述べたように、日本近代文学はその典型だろう。日本近代文学の「故郷喪失」や「メランコリック」は、もともとこのバロックの君主=天皇の「表象」であり模造である。日本近代文学は、それを「内面」の「描写」と呼び、また「リアリズム」と称し、まさに君主=天皇の権威を背景にその正統性を誇ってきたわけだ。日本近代文学は、その存在自体が天皇制の「表現=代理」なのである。「故郷を失った文学」という「故郷喪失」の「メランコリー」が、人民の欲望(絶望)ではなく、あくまでそれを簒奪した天皇バロックの君主の欲望(絶望)である、欲望は(大文字の)他者の欲望なのだということを、何度でも銘記しなければならない。

 

 この自らの「政治的権威の衰退を阻止するために」、「例外状況」における「決定=独裁」をもってするのは、反動的な神の権威への後退にすぎないように見える。ここでベンヤミンが、シュミットに誘引されながらも、一方で批判を忘れていないことが重要となろう。そこに、第一次大戦後に基づくシュミットの政治理論を、あえて十七世紀のバロックに投影しようとしたベンヤミンの意図もあるはずなのだ。

 

 なるほど、確かにベンヤミンはシュミットに拠りながら、バロック悲劇の王の権力が、絶対君主制とその無際限な独裁であると論じている。だが、先のケプニックも注目するように、ベンヤミンは他方で、シュミット的な決断主義の「貧弱さ」と、政治の純粋な自律性が、「元来それが解き放った諸力によって、食いつぶされることによって崩壊する」さまを論じてもいるのだ。すなわち、バロック悲劇は、その「政治的権威を再興するために良かれ悪しかれ美的ないしカリスマ的権力に訴える」ほかない、と。

 

 要は、シュミットの政治理論が、反美学、反ロマン主義(『政治的ロマン主義』!)を掲げながら、その実、そのテクストは「美学的下部構造」とでもいうものに支配されている、と。カール・レーヴィットが、シュミットの政治理論を「機会原因論的決定主義」と呼んだのと同様に(頻繁に引かれるレーヴィットの一節—―ハイデガーの受講者が言った冗談「おれは決心したぞ、なにをかはわからんが」という「決断主義」——というやつだ)。

 

 ケプニックは、そのシュミットの美学を、「シュミットの政治カテゴリーが一九二〇年代の芸術的アヴァンギャルドの新たな美的感覚に由来していることは、否定しようもない」ことに求め、むしろベンヤミンはシュミットのこの部分に、批判の光を当てているのだという。

 

そうだとすれば、自ら掲げた目標を達成しているどころか、シュミットの政治的決断主義は、それがそもそも政治の領域から排除しようとした種類の美的経験に依拠している、ということになる。彼の決断主義は、政治的行為の、特殊近代的な、世俗化された自律的論理を引き合いに出しながら、結局のところ、芸術を支配の要求に従属させ、政治的行為を近代の美的経験の諸原理と混合しさえするのである。ベンヤミンは彼の生涯のどの地点においても自らの反ブルジョア的破壊主義とシュミットの決断主義のあいだに明確な分割線を引いてはいないが、立ち入って検証するなら、彼の『ドイツ悲劇の根源』が明らかにしているのは、シュミットにおける美的感性と政治思想のこの隠れた連関、近代権力に関するシュミットの、美学化へと向かう動揺なのである。(ルッツ・P・ケプニック、前掲論)

 

 十七世紀のバロックの絶対的な君主たちは、「宗教戦争とその苦痛からなる百年」、「物質的廃墟」や「道徳的廃墟」に直面せざるを得なかった。したがって、その絶対的君主制は、「カオスの深淵に吞み込まれ」ないように、「権力の世俗化されたエコノミー」を産み出すことになる。もはや彼は、「神の代理人」ではなく「権力の技術者」たらざるを得ず、したがって「ユートピア的ヴィジョンではなく機能主義的な命令がバロックの政治プログラムを支配」することになる。

 

 だが、この「権力の世俗化されたエコノミー」が、きわめて脆弱で危ういものであることは想像しやすいだろう。何せ君主は、いわば「世俗化たれ、だが同時に超越的たれ」というダブルバインドに見舞われ、自己分裂を起こしているからだ。この自己矛盾を理論的に解決しようとしたのが、「決断」の理由が不在のなかで、ただ「然り」とのみ「決断」するヘーゲル『法の哲学』の君主である。絓秀実は、ただ「みやびじゃのう」とのみ言う三島由紀夫の「文化概念としての天皇」を、このヘーゲルの君主のバリエーションと捉えている(「付論 戦後―天皇制―民主主義をめぐる闘争」、『増補 革命的な、あまりに革命的な』)。

 

 三島は、おしなべて「世俗的」たることでもたらされる、全き「言論の自由」のアナーキーを、しかしいざそれを導入するためには「超越的」たらざるを得ないので、その時全ての表現を「みやび」と言って全方位に許容する「(文化)概念としての天皇」という、ヘーゲルの君主にも似た、世俗的かつ超越的な存在が必要になることが分かっていた。私見では、動機は三島と真逆だが、江藤淳の言う「共和制プラス1」の「プラス1」としての天皇などもこれに近い。江藤は、おそらくプロイセン君主制を称揚したヘーゲルにならって、戦後日本を「君主国」と見なした。

 

 それはそうと、バロックの王のメランコリーとは、いやおうなくこうした「決断主義」の自己矛盾に陥っている。彼らは、「決断」できないのに「決断」を迫られているのだ。「非常事態を宣言する決断を果たすべき諸侯たちは、どんな機会であれ、自分たちがほとんど決意能力を有していないことを示してしまう」(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)。そして、この自己矛盾という隙間に、「隠れた美学主義」や政治のための芸術(政治の芸術化)が入り込むわけである。

 

 もちろん、三島の「天皇」も、この「政治の芸術化=美学化」であり、したがってファシズムに違いない。問題は、ファシズムを悪と見なし避けようとする者が、それが近代においては同時に不可避的であることが分かっているかどうかだ。ベンヤミンは、この「政治の芸術化=ファシズム」に対して「芸術の政治化」を対置した。だが、これは単なる両者(政治/芸術)の反転ではない。何よりも「政治」と「芸術」がお互いに自律できない磁場を、自らも共有していることを示しているのだ。この磁場に対する緊張も絶望もない者が、いくら「政治」と「芸術(文学)」などと言っても、それは言葉遊びにしかならない。

 

 したがって、先のケプニックが言うように、ベンヤミンはシュミットに拠りながらも、ぎりぎりのところでシュミットに対する決定的な批判を行ったのだと考えるべきである。ベンヤミンは、バロック悲劇の君主に、シュミットの「失敗」を見たのだ。

 

ベンヤミンとともにわれわれが近代の起源に目撃するのは、美学の領域と政治的行為の領域を区別する試みが欺瞞的にしかなされていないということであり、これこそは、一九二〇年代のシュミットによる近代政治学の理論的基礎づけのうちに反響している失敗である。バロック悲劇は政治の自律化を描きだしているのだが、政治的な機能主義と戦略的理性の特異な弁証法がたどる小道を舞台化することによって、それが結局明らかにしているのは、近代が意図することなくふたたび神話に回帰し、表現を欠いたものにおける芸術の基礎づけを破壊するということ、近代が、つねに同一なるものの恐るべき再現として登場する、歴史のアレゴリー的理解に依拠している、ということである。(ルッツ・P・ケプニック、前掲論)

 

 ベンヤミンバロック悲劇論は、「近代が意図することなくふたたび神話に回帰し」、「近代が、つねに同一なるものの恐るべき再現として登場する」ことを明らかにした。すなわち、ここでは、「法措定的暴力」によって共同体の法が形成されたあと、今度はその法を「維持」するための暴力が行使され続けることで「つねに同一なるものの恐るべき再現」がもたらされているわけだ。

 

 だが、ベンヤミンが「暴力批判論」で主張したのは、これら二つの「暴力」の区別というよりは、近代においては「法」は「暴力」なのだということ以外ではない。だからこそ、この「法=暴力」の外に出るために、一切の「法=暴力」の廃絶を要請する「神的暴力」を、「法措定的暴力/法維持的暴力」(合わせて「神話的暴力」と呼ばれる)に対置させたのである。

 

 この「神的暴力」が、ベンヤミンの「メシア的転換」(浅井健二郎)=メシアニズムではないか、それはまたしてもシュミットの言う「反神学の神学」、「反独裁の独裁」という「決断主義=政治の美学化」に接近しているのではないかという疑問は措く。今は、ベンヤミンが「法=暴力」を思考するうえで、なぜ演劇の問題に向かったのかに注目しておきたいからだ。

 

(続く)

 

アンチ・オイディプスはまだ早い その2

 では、一方バロック悲劇はどうか。おそらく、ベンヤミンのいう、ギリシア悲劇バロック悲劇の違いが最も端的に現れるのが、「王」の捉え方においてであろう。

 

バロック悲劇の王は「被造物の頂点たる者」としての専制君主であり、「君主は歴史を代表する」。そしてこの「歴史」とは「神が創った歴史」、つまり被造物の生の歴史である。これに対して、ギリシア悲劇の王は、歴史以前の神話時代において神話的運命と対決する「英雄」である。(したがってどちらの「王」も、近代市民社会的な意味での主体的自我としての人間と、同列に論ずることはできない。)(浅井健二郎「W・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』の基本的立場と。その近代芸術論への転回」、二〇〇四年『舞台芸術』06)

 

 述べてきたように、ギリシア悲劇の王は、反神話の「ゲーニウス」を告げる「英雄」である。したがって、ベンヤミンは、「英雄」の死とは、死であるとともに、その時神話的な運命が打ち破られることを意味している、すなわち神々の秩序の終焉を告知する「ゲーニウスの誕生」としてある、という。これに対して、バロック悲劇の王は、「被造物の生のうちに発現する運命を打ち破ることができない」(浅井)。

 

 ギリシア悲劇の「英雄」が運命を打ち破ろうとする人物だとすれば、バロック悲劇の王は運命を発生させ、展開し、それを描き出す――。バロック悲劇においては、運命は克服されずに、したがって歴史は「反復」されざるを得ない。その意味で、「反復」とはすぐれてバロック的な主題である。ベンヤミンのいう「運命と性格」(一九一九年)でいえば、バロック悲劇には「運命」が、ギリシア悲劇には、それを克服しようとする「性格」があるといえる。両者はまったく異質なものなのだ。

 

 そして、見逃せないのは、ベンヤミンギリシア悲劇の「ゲーニウス」に対して、バロック悲劇に例の「メランコリー」を見出していることだ。

 

ギリシア悲劇は「ゲーニウスの誕生」を告げる芸術形式であるという意味で、このゲーニウスは「反神話的言語精神」と理解されよう。これに対して、「ドイツ・バロック悲劇は、それが呈示してみせる場景と人物像を……翼のある〔つまり、「天使」を含意している〕メランコリーというゲーニウスに捧げている」。「メランコリー」とは、堕罪ゆえの「悲しみ」のうちにある堕ちた言語精神としてのアレゴリー的言語精神のありようを謂うものだとすれば、ここでのゲーニウスは、ギリシア悲劇論のそれとはずれているように見える。(浅井健二郎、前掲論)

 

 ベンヤミンは、ギリシア悲劇の「ゲーニウス」が反神話的言語精神であるのに対して、「メランコリー」とは「堕罪ゆえの悲しみ」である「アレゴリー的言語精神」だという。では、「堕罪」ゆえの「悲しみ」とは何か。

 

 詳しくは、ベンヤミンにおける批評=革命の位置づけがコンパクトに整理されている、同じく浅井健二郎の「ヴァルター・ベンヤミン、あるいは批評の瞬間」(「ユリイカ」二〇〇二年十二月)などに譲りたいが、あえて単純化すれば、堕罪によって神の創造の言葉から人間の言葉が離脱してしまった、その離脱の距離がアレゴリーということになろう。もはや人間の言葉は、神が創造した事物の精神的本質を伝達することをしないという「悲しみ」の中にある。そして、逆に人間が事物に恣意的に「意味」を与えるところの言語となるのだ。言語の恣意性の発生である。

 

 ここでは、事物は、それ自身ではない何かを意味する言語として表されることになる。したがって、根本的に言語はアレゴリー的なものとしてある。このような「伝達の手段が言葉であり、伝達の対象は事柄であり、伝達の受け手は人間である」という、今日のわれわれの一般的な言語観を、ベンヤミンは「市民的言語観」(「言語一般および人間の言語について」一九一六年)と呼んだ。そして、このような「市民的言語観」においては、その本来の「アレゴリー的言語精神」としての「堕罪」の「悲しみ」が、すでに見えなくなってしまっているのである。あたかも、「悲しみ=メランコリー」など存在しないように(前のエントリーで見た小林秀雄のように、「悲しみ」をもたらす不在の対象は、すでに「失った」という形ですっかり「所有」されてしまったわけだ)。言葉が(情報)伝達の手段になり果てた現在のコミュニケーション万能社会は、その帰結だろう。そこでは、「メランコリー」は「政治」どころではない。単に、もはやそんなものは存在していないのだ(あるいは、そのように見なす「政治」というべきか)。いまや、われわれは薄く広く、みな「鬱=メランコリー」なのである。われわれの言語は、ここまで「堕」ちてしまったのだ。

 

 したがって、ベンヤミンが論じたバロック悲劇の王に、表と裏の両面を見るべきだろう。それは、ギリシア悲劇の英雄から見れば、あまりにも神話=運命に対して従順である。だが、一方でそれは、「メランコリー」という「堕罪」ゆえの「悲しみ」を「まだ」保持しており、そこではアレゴリーという言語精神が発現しているのだ(批評には、このアレゴリーが不可欠なのは言うまでもない。メランコリーを「失った」としたら、われわれはまた「批評=アレゴリー」をも失ったのだ)。

 

 そして、このバロックの王の両義性が、われわれにとってとりわけ重要なのは、それが君主権の「独裁」に関わっているからである。カール・シュミットに誘引されていくベンヤミンベンヤミンは、シュミットに『ドイツ悲劇の根源』を一冊送ったうえで、「一七世紀の主権論を表わすうえでこの本があなた(シュミット)にいかに負っているか」という書簡を添えている)という側面からも、きわめて興味深い一節だ。

 

近代の君主権概念が、最終的には、王侯のもつ至上の執行権に行きつくのに対して、バロックの君主権概念は、非常事態(Ausnahmezustand〔例外的な状態、戒厳〕)をめぐる議論から発生してきており、非常事態を排除することが王侯の最も重要な機能である、とするものである(カール・シュミット『政治神学――主権理論のための四章』一九二二年、参照)。支配する者は、戦争、反乱、あるいはその他の破局的な出来事が非常事態を惹き起こした場合、この非常事態における独裁的権力の占有者たるべく、すでに前もって定められているのだ。この措定は、反宗教改革〔期〕的である。この措定に宿る世俗的―専制的なものが、ルネサンスの豊饒な生感情から解き放たれ、完全な安定化という理想、つまり、教会および国家の原状回復(Restauration〔旧体制復活〕)という理想を、あらゆる帰結において展開させようとする。そして、こうした帰結のひとつが、右に述べた絶対的王位の要求にほかならず、そのような王位に与えられる国法上の地位こそが、武力と学問、芸術と教会がともどもに栄える国家の持続性を保証する、というのである。(『ドイツ悲劇の根源』)

 

 ここでベンヤミンは、近代の君主権概念とバロックの君主権概念を截然と分けている。両者とも絶対君主制に行きつくのだが、バロックには戦争や反乱などの「非常事態=例外状況」(シュミット)への視線があるというのだ。バロックの君主権は、「例外状況」をいかに「排除」するかが「最も重要な機能」なのだ、と。その際に「措定」されるのが、「独裁的権力の占有者」なのである。その「例外状況」における「独裁」が、「教会および国家の原状回復」をはかり、「完全な安定化という理想」を可能にする。

 

 この「国家の原状回復」は「Restauration」だから「旧体制復活」であり、したがって「明治維新=王政復古」もこの文脈で捉えられよう。すると、「明治」における「天皇制」は、バロック悲劇における専制君主に準えられる。すなわち、「例外状況」を「排除」しようとする絶対主義の「独裁」として捉えることが可能だろう。国会開設や憲法発布の詔勅(一八八一年)とは、いわば「例外状況」における「独裁」による「決断」なのだ。

 

 バロックの君主は、ギリシア悲劇の「英雄」のように、もはや自らを取り巻く「神話」と闘うことができない。バロックの王を取り巻いているのは「神話」ではなく、すでにそれが世俗化した「歴史」だからである。だが問題は、その「世俗化」とは、当たり前だが「神(話)」の全き消滅を意味しないことだ。そこには必ず、「神」が残滓として宿っている。ベンヤミンにとっては、人間世界における「法」の「正義」とは、神と人間との関係を規定していた「正しさ」をくすねた残滓にすぎない。同様に、「君主」という概念は、つねにすでに、いわば神の残滓が宿っているという意味で「半封建的」なのだ。

 

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(続く)

 

アンチ・オイディプスはまだ早い

 前のエントリーでも述べたように、国会開設と憲法発布に向けた自由民権運動の「欲望」を、天皇が上からの詔勅という形で取り上げてしまったとき、自由民権運動はあらかじめの挫折を余儀なくされた。その時、天皇は、主権者として「法措定的暴力」(ベンヤミン)を行使したわけだ。それは、「例外状況」における「主権者」にのみ許される「決断」(シュミット)であろう。

 

 もちろん、それは通常「(法措定的)暴力」ではなく、「(憲法制定)権力」と見なされる。以降、文学や演劇、美術などの芸術諸ジャンルは、この天皇による「法措定的暴力」=上からのナショナリズムに応じた「法維持的暴力」=下からのナショナリズムとして、言い換えれば革命ならぬ「改良」運動(小説改良、演劇改良)に力を注いできた。ベネディクト・アンダーソンを待つまでもなく、ナショナリズムの下からの浸透には、各種メディアが必要だからである。

 

 前のエントリーでも見たように、文学は法措定的暴力=憲法制定権力を所有したことがない。それを「故郷」として「失った」としてメランコリックに「欲望」するばかりだ。おそらく、天皇の「法措定的暴力」に拮抗して思考するためには、演劇の問題を考える必要がある。天皇制も演劇も、ともに「法措定的暴力」を行使し得る、よく似た何かだからだ。

 

 そのとき、真っ先に想起されるのは、ベンヤミンが見た神話を打ち破ろうとしたギリシア悲劇、なかでもギリシア悲劇にあるという「ゲーニウス=反神話的言語精神」(『ドイツ悲劇の根源』一九二八年)である。ベンヤミンは、ギリシア悲劇と近代の悲劇=ドイツ・バロック悲劇との決定的な違いを、前者の「ゲーニウス=反神話的言語精神」に求めた。

 

ゲーニウス(Genius)が罪の靄のなかからはじめて頭をもたげてきたのは、法においてではなく、ギリシア悲劇においてだったが、それというのも、ギリシア悲劇においてこそデモーニッシュな運命が打ち破られるからである。だがそれは、罪と贖罪との異教的に見究めがたい連鎖が、罪を清められ、純粋な神と宥和した人間の純粋さに取って代わられる、ということによるのではない。そうではなく、ギリシア悲劇において異教的人間が、自分は自分の神々より善いのだ、と自覚するのである。ところが、この認識は彼に対して言語を拒み、そのためにこの認識はおぼろげなままにとどまっている。この認識は、みずから〔の内実〕を〔言語的に〕明らかにすることなく、密かに己れの力〔暴力〕を集めようとする。……〈倫理的な世界秩序〉が再建される、というのではまったくないのであって、道徳的人間が、まだ沈黙したまま、まだ未成年のまま――そういう人間として彼は英雄と呼ばれる――、苦悩にみちた世界が震えているその只中に、立ち上がろうとするのである。道徳的な無言性、道徳的な未成熟性のなかでゲーニウスが誕生するという逆説こそ、ギリシア悲劇のもつ崇高さにほかならない。

 

 ギリシアにおいて、ゲーニウスが「はじめて頭をもたげてきたのは、法においてではなく、ギリシア悲劇においてであった」。これは極めて示唆的な言葉だ。ベンヤミンは、ギリシア悲劇にポリス=共同体の創設における法の措定という政治性を認めていたわけだ。ギリシアにおけるポリスとその法の措定に、ギリシア悲劇のゲーニウスが深くかかわっているということだ。もちろん、それは悲劇の登場人物らが口にする言葉においてではなく、演劇という制度そのものに内在する「暴力」であろう。鴻英良が言うように、それは「西欧」という存在そのものにかかわる。

 

つまり、ギリシャ悲劇とは、まさにギリシャにおいて法が措定されていくプロセスにおいて、その構造をあらわにしつつ登場してきた芸術の形式にほかならないということである。言ってみれば、そうした歴史のある段階を刻印するものとしてギリシャ悲劇は存在するのであり、それゆえに、それは一回性の刻印を帯びつつ、二度と書かれることのない表象の形式としてわれわれに残されることになったのである。それゆえ、西欧世界は、ポリス的な共同体の確立、維持をもくろむとき、ギリシャ悲劇の模造を量産しつつ、ギリシャ悲劇的なものへと回帰しようとしたのである。これが西欧社会においていまだ演劇に重要性が付与されていることの意味にほかならない。

 つまり、ギリシャ悲劇的なものの存在を欠いて西欧世界は存在しえないのであって、そのことが西欧世界の今日における演劇の位置をみればあきらかであろう。(「『帝国』からの《悲劇》の誕生」「ユリイカ」二〇〇二年十二月)

 

 では、なぜギリシア悲劇によって、共同体の「法措定的暴力」が「頭をもたげてきた」のか。われわれは、例えば『オイディプス王』などのギリシア悲劇を思い浮かべ、このベンヤミンの主張を訝しく思う。だが、そのときベンヤミンは、別のものを重視しているのだ。鴻は、また次のように述べる。

 

たとえば、オイディプスのように、英雄たちは、神託が実現しないように願い、そのように行動する、つまり神々に逆らうとはいえ、われわれが知らされるのは、そこにおいて、そうした反逆的な行動が挫折するという事実なのである。けれども、ベンヤミンが重視するのは、最終的にはその敗北が明らかになっていくとはいえ、実際、神託を聞いたあとでは、オイディプスは両親に会うのを避けようとし、故郷に帰ることを断念したということであり、そのように神の意思に逆らって彼が行動をはじめたという事実の方なのである。つまり、このように神々の意志が成就することを望まないということ、このような自らのあらたな願望に基づいてオイディプスが行動を開始したということが重要なのである。

 

 ベンヤミンが評価するオイディプスは、われわれがよく知っている、神(神託)に敗北するそれではない。そうではなく、注目すべきは、「神の意思に逆らって彼が行動をはじめたという事実の方」であり、オイディプスの「神話批判」の精神なのである。

 

 もちろん、われわれは、結局事態が神託通りになっていくのを知っている。その結果、先の『ドイツ悲劇の根源』に言われるように、オイディプスは「まだ沈黙したまま、まだ未成年のまま」なのであり、自分にはまだ神話秩序を破壊する力がないことを思い知るのだ、と。われわれが、いまだ天皇制という「神話秩序」を破壊する力がないとしたら、まるでそれはこのベンヤミンの見た「沈黙したまま」「未成年のまま」のオイディプスのようではないか。いまだなお、いや今こそわれわれが見つめるべきは、「アンチ」オイディプスではなく、このオイディプスなのではないか。

 

 そこでは、「〈倫理的な世界秩序〉が再建される、というのではまったくないのであって、道徳的な人間」が存在するばかりだ。ベンヤミンにおいて、「道徳的」(moralisch)という語は「人間と神の関係」を、「倫理的」(sittlich(人倫的))は「人間間の関係」を指すことは言うまでもない。ここでオイディプスは、あたかも講座派マルクス主義者よろしく、自らが「道徳的」=「半封建的」な「未成年」だと自覚している人間であるというのは牽強付会だろうか。「六八年」以降、「労農派的」転回(すが秀実)があったとして、その後消滅してしまったのは、この未成熟なオイディプスの「講座派的」思考ではないか。だが、ベンヤミンにおいてさらに重要なのは、オイディプスギリシア悲劇の「英雄」たちが、決して自らのこの姿に自足しているわけではないことである。

 

 ニーチェギリシア悲劇に、神話の破壊の「抑止」を見出したのを批判して、ベンヤミンは逆に神話批判、反神話を見出した。同様に、一般的には、「模倣」と理解されているアリストテレス詩学』の「ミメーシス」に、ベンヤミンはむしろそれに反するものを見ている。

 

そして、かのミメーシスは、伝説のなかにはっきりと示された運命秩序を雄弁に是認するものではまったくなく、むしろこの運命秩序に、しばしばまだ未成年のままの状態で、疑問を投げかけるものなのではないのか。(「カルデロンの『げに恐ろしき怪物、嫉妬』とヘッベルの『ヘロデとマリアムネ』――歴史劇の問題についての覚書」一九二三年)

 

 先の『ドイツ悲劇の根源』と同様な言葉遣いがなされているのは明らかだ。ベンヤミンからすれば、アリストテレスもまた、ギリシア悲劇に「神話破壊」を見ていた。それは「今日の読者の目には、自然主義を含むものに見えるが、本当のところは、この定義は自然主義を唱えるものではまったくない」。先の鴻も言うように、したがってそれは、「アウエルバッハが『ミメーシス』のなかで書いたようなホメロス的な描写を継続するようなものではまったくな」く、「「ヨーロッパ文学における現実描写」の特質として語られてきた自然主義的な模倣などでは決してない」のである。要は、「ミメーシス」とは、むしろ反リアリズムを提示した概念と捉えるべきということだ。それは、神話破壊、反神話なのである。

 

(続く)

 

文学は故郷を失ったことなどない その2

 日本近代文学の「内面」という制度が、実はメランコリックな「欲望」だとして、その欲望が満たされることはあり得ない。なぜなら、その欲望の対象は、はじめから「欠如」しており、本当は「喪失=メランコリー」ではないからだ。メランコリー自体が捏造されたものなのである。

 

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要するに、メランコリーがあいまいにしているのは、次の事実である。〔欲望の〕対象は最初から欠如しているということ、対象の出現はつねに対象の欠如と同時に生じるということ、そして、この対象は空無/欠如の実定化以外の何ものでもないということである。もちろん、ここでのパラドクスは、この欠如を喪失へと翻訳するまやかしによって、われわれが対象の所有を主張できるということである。かつて一度も所有したことのないものは、けっして失われることもない、だから、メランコリーの主体は、失われた対象に無条件に固執することによって、ある意味で、その喪失という状態にある失われた対象を所有するのである。」(ジジェク「メランコリーと行為」『全体主義――観念の(誤)使用について』二〇〇二年)

 

 われわれは、憲法や国会を「所有」したことがない(「制定する権力=法措定的暴力」をもたない)。それは帝国憲法だろうと戦後憲法だろうと同じことだ。それは「改正」是か非か以前に、一度も「所有」されたことがないのだ。「改正」是か非かという議論は、そもそもそれらが一度も「所有」されたことがないことの隠蔽である。日本近代文学は、「所有」したことがないものを、それは「喪失」されたのだとする「まやかし」によって、かつては「所有」していたし、今後も「所有」が可能であるかのように主張してきた。「メランコリー」は「政治」なのである。

 

 「故郷」自体が「喪失」のメランコリーによって捏造され「出現」させられたものでしかないならば、果たして日本近代文学は、本当に「故郷」を「喪失」したことなどあるのだろうか。

 

 この日本近代文学の「メランコリー」の主体は、おそらく小林秀雄「故郷を失った文学」(一九三三年)によって完成された。すがが別稿で言うように、「小林が失ったという「故郷」と呼ぶところの観念に、天皇制が暗に含まれていることは自明」であろう。大衆社会の進展とともに、われわれは「故郷」を失ったとする「故郷を失った文学」は、その意味で「大衆天皇制を予兆させるものとなっている」。「自分たちの世代において、市民社会は爛熟し後進的な封建的遺制は払拭された。それは故郷喪失という代償を払うことでもあったが、そこにおいてこそ、新たに故郷も発見されねばならない」。

 

 これは、「後進的な封建的遺制=天皇制」によって、旧秩序の解体が阻まれているという、講座派理論をふまえたうえで、そののりこえを目論んだ言説である。だが、これこそ典型的なメランコリーの主体の戦略ではないか。ジジェクがいうように、すなわち「われわれがこれまで一度も手にしたことのない、はじめから失われていた対象を所有する唯一の方法は、いまなお完全に所有している対象を、あたかもそれがすでに失われているかのように取り扱うことである」。

 

 われわれは、「故郷」を「喪失」した代償を払って、「今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪曲する事なく理解しはじめた」と小林は言う。すなわち、すでに封建的遺制は失われ、われわれは西洋文学的な「主体」となった、と。いわば、小林は、講座派的な第一段階の革命は、西洋市民社会の爛熟によってすでに成就したと言っているのである。

 

 したがって、「こういう時に、いたずらに日本精神だとか東洋精神だとか言ってみても始まりはしない」と。さらに、「どこを眺めてもそんなものは見つかりはしないであろう、また見つかるようなものならばはじめから捜す価値もないものだろう」と駄目を押す。それがすでに完全に「喪失」されており、したがってそれは(探偵として?)捜す価値=欲望もないことを、メランコリーの主体として宣言してみせたのである。「近代の超克」会議をリードした者にふさわしい、小林による「近代の超克」の宣言といってもよい。

 

 注意すべきは、これが、「故郷を失った」と言いながら、実は故郷=天皇制=日本精神(東洋精神)を「所有」するための「戦略」だということだ。すなわち、小林は、講座派が革命によってのりこえようとしていた天皇制を、それはすでに「喪失」されたとすることで、むしろ完全に「所有」してしまったのである。小林のその後の伝統回帰、歴史回帰は、したがって転向というより、その当然の帰結である。まさに、メランコリーの主体は、「対象が失われる前から、対象に対して過剰な、余分な喪の作業をおこなう」が、言い換えれば、「対象が実際に失われる前に、対象を再び殺す(それを失われたものとして扱う)のである」(ジジェク)。

 

 このとき、小林は、天皇制が革命によって廃絶される前に、いや廃絶されないよう、すでにそれは「喪失」されたとして、あらかじめ「殺し」てしまった。「探偵=批評家」は「犯人」でもあるわけだ。さらに、それは「失われた」として、自ら進んで「喪」に服したのである。小林が、明確に「反革命」たるゆえんだ。日本近代文学の起源にあった自由民権運動「という」挫折=メランコリーは、小林の時点で、それをもたらした天皇制そのものに対するメランコリーへと肥大化した。

 

 以降、天皇制は「殺」せなくなった。すでに「死んでいる」とされたからだ。日本近代文学が、小林というその「教祖」(坂口安吾からして、このあらかじめの「殺害」による革命の不可能性に加担してきたことは、文学に関わる者は肝に銘じておくべきである。

 

 すがが言うように、小林は講座派理論を横領し、それは自身の神話化に貢献したが、それにとどまらず講座派理論を無力化してしまったといえる。「故郷喪失」というメランコリーを包摂することで、講座派理論から「故郷=天皇制」を思考する契機を骨抜きにしてしまったからだ。それは、戦後の講座派の市民社会主義への転回=構造改革派から出てきた大衆天皇制(松下圭一)の先駆けだったとさえいえる。柄谷行人が、この市民社会マルクス主義、とりわけ平田清明の「影響」から出発し、「小林秀雄をこえて」(一九七九年、中上健次との対談)いくことを目指しながらも、なかなか小林を切断しきれないのも、このあたりに起因していよう。

 

 可能だろうと不可能だろうと、「故郷喪失」(ハイデガー)というパラダイムからの脱却が必要である。「故郷を失った文学」という問題構成自体を破壊し、その「戦略」を無力化すること。そうでないかぎり、われわれの「鬱」が癒えることはないだろう。

 

中島一夫

 

文学は故郷を失ったことなどない

 すが秀実の「「鬱」とナショナリズム」(「ユリイカ」二〇〇四年五月)は、確か単行本未収録だが、天皇制と民主主義とが――すなわち日本近代文学の起源において創設された「国民」(ネーション)が――矛盾なく受け取られている今日、ますます重要な批評としてある。そこには、この十年後に『天皇制の隠語』(二〇一四年)の4節「「労農派」的転回とコモンウェルス」として理論的に明確化する、柄谷行人日本近代文学の起源』(以下『起源』、一九八〇年)への批判の核心が、すでに内包されている。

 

 それは、『起源』が、いかにして天皇制を不問に付すこととなったのか、にほかならない。『起源』は、日本近代文学の起源を論じる、今やカノンともいえる一冊でありながら(あるために?)、天皇制問題をオミットしてしまった。古典文学のみならず、日本近代文学もまた天皇制の産物であるという「起源」を、ついに主題化し得なかったのである。すなわち、『起源』は起源を回避してしまったのだ、と。

 

 すがは、それについて、さりげなく次のように指摘する。

 

別段、日本に限ったことではなく、ルカーチが小説を「先験的な故郷喪失の形式」と規定したように(あるいは、ルカーチが念頭に置くヘーゲルが近代小説を「近代のブルジョア叙事詩」と定義して以来)、近代文学がおおむね「故郷喪失」によって特徴づけられるメランコリックな時空間だということは、誰もが知っている。〔…〕かかるメランコリックな「喪失」感はカント的「崇高」の概念とも呼応している。絶対的な自然(たとえば、ナイアガラ瀑布?)を前にしてもたらされる崇高の感情は、「死すべき者」のメランコリックな無力感と相補的だからである。いうまでもなく、これは「内面という制度」(柄谷行人)とも言われる事態だが、ここで、そのことをメランコリーと呼んでみるのは、それが「欲望」とかかわるからであり、内面として表象してみる時、それが捉えがたくなると思われるからである。

 

 柄谷の『起源』が、「内面」の制度性=政治性をはじめて論じた画期的な批評であることは論を俟たない。だが、それは真に「政治」性だったのか。すがが、「内面」ではなく、「メランコリー」という「欲望」でもって「起源」を捉え直そうとするのは、そのことを明るみにするためだ。

 

 柄谷『起源』は、日本近代文学が、言文一致運動あるいは制度によって成立したというパースペクティヴを決定的に導入した。以降、それに異論を唱えようと、修正を試みようと、基本的にこのパースペクティヴの枠内にある。いまや、言文一致を無視して、日本近代文学は語り得ない。

 

明治二十年代の「内面性」がそのような政治的な挫折から来ているということは明瞭である。実際、そのような視点に立った研究や批評は無数にある。そして、文学はきまって、内面性によって制度に対抗するというイメージで語られる。しかし、私がここでそのような見方をあえて避けてきたのは、その前に、内面性がある種の装置(制度)の中で可能になるということをいいたかったからである。そのような制度が不問に付されるかぎり、「政治的な挫折から内面=文学へ」というパターンが不毛にくりかえされるだけである。明治二十年代が重要なのは、憲法や議会のような制度が確立されただけでなく、制度とは見えないような制度――内面や風景――が確立されたからである。

 

 「文学はきまって、内面性によって制度に対抗するというイメージで語られる」、「政治的な挫折から内面=文学へ」。「内向の世代」どころではない。それどころか、柄谷は、この後者の「内向=内面=文学」自体の「制度」性を、はじめて明確に批判した批評家なのである。それに対して、すがが問おうとしたのは、次のことだ。だが、「政治」があらかじめ「挫折」していたとしたら?

 

誰もがそう言うように、日本の近代文学自由民権運動の「挫折」から出発した。しかし、そのことは主に北村透谷を中心とするメランコリーの系譜について言われてきたことであり、『新体詩抄』や『小説神髄』については、そう指摘されることが少なかったのではあるまいか。両者は基本的には近代化を志向する「文明開化」の文脈で捉えられてきたのである。しかし、『新体詩抄』においてすでにメランコリックな詩作品が存在し、それが後発者たちへと継承されたことが明らかなのであれば、『新体詩抄』にしてからが、すでに自由民権運動の「挫折」という文脈において捉えることが可能である。しかし、自由民権運動なるものは、その運動の結果「挫折」したのではない。自由民権運動という挫折があったのだ。それは、あらかじめ挫折した運動だったのであり、それゆえメランコリーはそのア・プリオリな性格だったと言うべきである。

 

 すがによる起源の問い直しの核心は、柄谷が二葉亭や独歩、あるいは前島密などを重視したのに対して、『新体詩抄』と『小説神髄』を「改めて」起源として提示した点にあろう。「『新体詩抄』も『小説神髄』も、起源でありながら起源であることを否認されてきた書物であるが故に、あらためて考察するに足るものなのだ。その、あからさまな「否認」において、ひそかに作動していたのが、ナショナリズムとメランコリーの通底という事態なのである」。

 

 では、いったいなぜ、自由民権運動は「あらかじめ挫折した運動だった」のか。

 

詔勅」以降にメランコリックな主体が登場する理由は、壮士の国会開設という要求が、天皇によって約束されてしまったからにほかならない。そこに「ポスト・フェストゥム」(木村敏)の意識が浸透しはじめたのである。しかも問題は、天皇が壮士の要求したものを「下賜」するという手続きが、実は、それは(国会開設と憲法発布)が天皇自身の欲望の対象でしかなかったことを証してしまうことだ。自由民権運動において、壮士たちの欲望の対象は、あらかじめ不在だったのだ。そもそも、彼らが天皇に言っていたことは、それはわれわれの欲望である以上に、あなたの欲望(の対象)ではないか(だから国会を開設せよ)、ということではなかったか。

 

 ここにおいて、すがが、日本近代文学の起源を、メランコリックな「欲望」として捉えようとした意図がにわかに鮮明になる。まさに「欲望とは他者の欲望である」(ヘーゲル)。自由民権運動の「欲望」は、もともと天皇=他者の欲望だったということだ。すると、自由民権運動とは、天皇の欲望を実現するための、ナショナリズムの運動ということになる。

 

 ここで、メランコリックな主体の代表ともいえる、夏目漱石『こころ』(=内面!)の「K」を、すがが「主体=天皇=King」と読んだことを想起してもよい(『日本近代文学の誕生』一九九五年)。「K」の「欲望」を、「先生=メランコリックな書生」は「後」から模倣し欲望していき、それをまた「学生」の「私」が反復していく。このメランコリックな主体たち(『こころ』で「私」と呼ばれる者たち)による「欲望の三角形」の反復=連続によって、ヘーゲル的な市民社会が形成されていく。『こころ』は大逆事件の衝撃を受けて書かれており、近代文学が、国家をアンタッチャブルにしておくための、緩衝地帯たる市民社会を醸成する「装置」であることを典型的に示している。もちろん、それ自体、一方で漱石が、「従軍行」や「満韓ところどころ」を書いたナショナリズム=差別と「一対」のメランコリーである。メランコリーは、ナショナリズムと別のものではなく、「メランコリー自体がナショナリズムの政治的表現」なのだ。

 

 先の引用で、柄谷は「明治二十年代が重要なのは、憲法や議会のような制度が確立されただけでなく、制度とは見えないような制度――内面や風景――が確立されたからである」と言って、「内面」の制度性を批判した。だが、「内面」は、憲法や国会の「制度」性と別のものではない。すがが主題化したのは、むしろそのことなのだ。

 

 そもそも、カール・シュミット的な意味での、例外状況における「主権者」たり得ない国民は、憲法や国会を作る(権力の)「主体」ではあり得ない。もともと、憲法や国会は、「下賜」されたものとしてしか存在し得ないわけだ。したがって、それらは「国民国家を構成する空虚な欠如」でしかない。国民とは、「内面」化したのではなく、はじめから「内面」でしかない存在なのだ。

 

そのような欠如としての対象を、再び国民主権的な立場から我有化しようとすれば、それは、かつては我がものであったはずのものが――たとえば、それが理想とは異なっているとして――「喪失」した、と表象するほかはない。それゆえ、近代文学が形成してきたメランコリックな主体は、即自的には、デモクラティックな国民的(=市民的)主体だとは言える。

 

 カルチュラル・スタディーズは、国民国家が歴史的、社会的に構成されたものだとする「社会構築主義」を展開し、この「空虚な欠如」を曖昧に埋めてしまった。それが社会的に構成されたものだというロジックは、何ら「空虚な欠如」に働きかけるものではないからだ。近代文学や言文一致は構築された「制度」であると主張した柄谷『起源』も、下手をするとその文脈に回収されかねない。それらに欠けているのは、「誰が」それを欲望しているのかという、「欲望」の「主体」への視線である。

 

(続く)

 

「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その5

 井上良雄が、志賀直哉と近代プロレタリアートを結合しようとしたことは、有島武郎『宣言一つ』以来の、インテリゲンツィアのプロレタリアートへの(不可能な)階級移行の問題に関わっていた。だからこそ、あたかも志賀直哉が、共産主義者とリベラルなプティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの共同戦線=人民戦線への架け橋であるかのように見なされたのだろう。この井上の、文学論的ではなく人生論的な決意の表明としての「みずからの裸身を架橋したことにひとしい」志賀とプロレタリアートとの結合を野蛮にも主張した批評が、平野謙の胸を打ったのである。また、小林多喜二が、これから国家権力と直接対峙していかんとするその前夜に、奈良の志賀を訪れ、にもかかわらず全くそれをおくびにも出さずに、暢気な話ばかりして帰ったという「神話」にしても、井上の裏返しとしてだが、後進の胸を熱くさせただろう。

 

 先に触れた、監督協会再建前夜に、熱海の志賀を訪れ、また『月は上りぬ』(監督は田中絹代)や『麦秋』で古都・奈良へと向かった小津の胸中に、果たして志賀をスプリングボードとして、インテリゲンツィアからプロレタリアートへの階級移行に次々と投身していった、これら先達たちの影はあったか、なかったか。

 

 「志賀先生にお目にかかると、いつも、それからしばらく、何とも云えない爽やかな後味がのこって、僕の心のどこかを、涼しい風が吹きぬけます」(小津)。人を政治的行動に向かわせるのが結局人だとしたら、こうした「爽やかな後味」は案外馬鹿にできないのではないか。少なくとも、小津には、志賀のもたらす「涼しい風」が、人民戦線的連帯の実践に向かう追い風になったのである。

 

 一九一九年に広津和郎志賀直哉論を書き、その後芥川龍之介が志賀を絶対視し、それは小林秀雄、井上良雄と完成されていった。この「小説の神様」像は、どことなく本多秋五が蔵原惟人を「神のような人」と称したのを想起させる。だが、それも、中野重治「暗夜行路雑談」(一九四二年)や中村光夫志賀直哉論』(一九五四年)による、志賀の封建的な家父長的性格への批判を経て、伊藤整志賀直哉の方法』(一九五六年)に至ると、志賀の神格性は完全に崩壊した。平野はその過程を、「それらの志賀直哉論の歴史を仔細に検討すれば、それはそのまま近代日本文学をささえてきた文学的インテリゲンツィアの歴史を側面から鮮やかに照明する好古の縦断図をかたちづくるはずである」と捉え、本多の蔵原よろしく、「冗談をいえば、それは徳田球一評価の歴史とほぼ精確に対応している」まで述べている。

 

 したがって、『さまざまな青春』(一九七四年)の時点では、もはや平野も「今日となってみれば、井上良雄のあやまりもまた明らかである」と、はっきりと「あやまり」を認めることになる。だが、井上良雄の示した「プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの道」を追い続けた平野謙の批評に何か意味があったとしたら、それは、もしこの「あやまり」がなかったら、プロレタリア文学運動など何でもなかったということを示し続けたことだろう。

 

今日からみて、「ナルプ」を中心とするプロレタリア文学運動にどんな重大なあやまりがあろうとも、井上良雄という雋秀な青年インテリゲンツィアをひとたびはまねきよせたといううごかしがたい事実は、やはりプロレタリア文学の卓越を物語るものだと思う。今日たとえば三十二年テーゼの文学的遂行というような面からいくらプロレタリア文学運動を分析しても、その論理的な網の目からそういうプラスはこぼれおちてしまうだろう。もう一度念を押しておけば、「ナルプ」解体前後に「政治主義的偏向」として糾弾されたものこそ、小林多喜二を横死にまでふるいたたせた人間情熱の一源泉であり、しかし、その浪漫的な人間情熱が所詮はプロレタリア文学運動そのものを敗滅させた一原因だったのである。それは楯の両面にほかならない。そういう楯の両面であることの分析からはじめないかぎり、プロレタリア文学運動についてはなにごとも語ったことにならぬだろう。井上良雄は無名の一文芸評論家として終始したことによって、なまじ文壇的風潮などにわずらわされることもなく、「下から」のインテリゲンツィアの立場にたって、純粋にそういう時代の文学的雰囲気を代表したのである。(『さまざまな青春』)

 

 もし、プロレタリア文学が、「自然生長的」=プロレタリア「による」文学に終始していたら、日本の革命運動に、プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアが吸引されることはついになかった。したがって、それは、階級意識に目覚めることのないアナキストの運動で終わったであろう。プロレタリア文学が、「自然生長的」なプロレタリア「による」文学から、「目的意識的」なプロレタリア「のための」文学へと進んでいったからこそ、たとえフィクショナルだったとしても、インテリゲンツィアにもプロレタリアートへと階級移行できるのだという可能性が開けたのである。だが、この目的意識性が、一方で、先の「浪漫的情熱」に満ちた「浪漫的極左主義」(猪俣津南夫)の温床になってもいくわけだ。これは確かに誤謬だったが、不可避的かつ不可欠な誤謬だったろう。平野は、「橋川文三保田与重郎とめぐりあったように、私は井上良雄とめぐりあった」と言った。その自らの自由浮動性に苦しむインテリゲンツィアが、それを共有している先行者に、どこか救いのようなもの(もちろん誤謬だ)を見出さずにいられなかった例として適当なたとえだろう。

 

 井上良雄や小林秀雄は、志賀を、近代人のように思考(思想)と行動(実生活)が一体となり、両者が乖離していない「古典的」な「自然人」と見なした。それによって、むしろ文学的インテリゲンツィアこそがプロレタリアートと「結合」し得る、それどころか、先行的、先鋭的に階級移行し得ると主張したのである。

 

 平野謙による井上良雄「芥川龍之介志賀直哉」の要約を見よう。

 

志賀直哉にあっては行動は思索の唯一の形式であり、思索はそのまま行動の内容であって、両者のあいだにはどんな分裂もないのである。「自然」であることが志賀直哉の唯一不動のノルムなのだ。〔…〕われわれの周囲にあるものがもはや自殺、宗教、狂気以外のなにものでもないとすれば、そのような近代を実践的に否定し得る人間のみが、今日の最期的な文化の危機を救い得るだろう。その人間だけがみずからを志賀直哉の芸術の正統な後継者と名のることができる。「スピノザの真の相続人は近代プロレタリアートである」とデボーリンはいったが、この「神即自然」の哲学者とプロレタリアートの結びつきが唐突でないとすれば、また志賀直哉と近代プロレタリアートとの結びつきも決して唐突でないはずだ。志賀直哉の芸術は小林秀雄のいわゆるユルトラ・エゴイズムの典型だが、最高度の個人主義社会主義とどのような抵触も示さない。社会主義のなかで個人は廃棄されるのではない。まさにアウフヘーベンされるのだ。社会主義のなかでのみ個人はどのような「人間的自己疎外」も知らぬ最高の個人として生きられるのである。(『さまざまな青春』)

 

 平野は、一九三二年当時、井上良雄のこの論を読むまで、「自己疎外」という言葉を知らなかったという。だから「本多秋五にたずねたが、本多もよく知らず、本多が松村一人かだれか「プロ科」の哲学者にきいてくれて、それがヘーゲルに発するゼルブストエントオイセルンクあるいはゼルブストエントフレムドゥンクの訳語だということをはじめて知った。そのゼルブストエントオイセルンクならぬ「社会化された私」と「真の個人主義文学」とを私は勝手に結びつけて、ひそかに『私小説論』に感銘していたのだが、実は私が当時の小林秀雄からまなんだ最大のものは、芸術あるいは思想と実生活とは連続していない、ということだった。〔…〕思想と実生活との非連続ということが、そういう言葉をつかえば、私の微弱な「転向」の核心をなしたのである」。

 

 平野が、小林「私小説論」の「社会化された私」に人民戦線の可能性を読んだことは、あまりに有名である。その誤読?が、志賀直哉プロレタリアートを結びつけた井上良雄を媒介にしなければあり得ないものだったことは、見てきたとおりだ。そのとき、「真の個人主義文学」志賀直哉と、「社会化された私=プロレタリアート」とが結びついたのである。いや、批評的に「結びつけた」のだ。その「結びつけ」ようとする動機は、引用にあるように、小林が論争の中で主張した「思想」と「実生活」との「非連続」からきていた。

 

 「思想」が自然生長的に「実生活」に結びつくことなどない。それは、目的意識的に外部注入されることによって、はじめて「結びつく」。平野の人民戦線論が、自己疎外を知らぬ「真の個人主義」たる志賀直哉を媒介しなければあり得なかったことがよくわかるだろう。繰り返せば、これは誤謬だったが、この志賀に対する誤謬、幻想がなければ、そもそもプロレタリア文学など存在せず、人民戦線論もあり得なかった。もちろん、同時にこの誤謬こそが、「私の微弱な「転向」の核心をなした」こともまた、平野にはよくわかっていたのだ。

 

 こうしてみてくれば、『暗夜行路』の謙作が、「今、お前のいったように、寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とがピッタリ一つになってくれさえすれば、何も彼も問題はないんだ」と言い、最後に大山で両者を「ピッタリ一つに」「結びつけた」ことは、分裂と悲連続を余儀なくされている「思想」(思考)と「実生活」とを、作品の力で「結びつけた」ということになるだろう。そのような例として、後進に輝かしく映ったことも想像に難くない。「結びつける」ことによって、蓮實重彦の『暗夜行路』論の言葉でいえば、謙作が幽閉されている、「俺の考」と「俺の感情」という両者の類似と選択の「偶数的世界」は「崩壊」し、「廃棄」されたのである。

 

だから、「総ては純粋に俺一人の問題」なのだと妻に語るとき、そこで謙作が口にしているのは、「類似」と「比較」へと向い「選択」へと進む主題体系を支えている偶数原理そのものの崩壊の必然性なのだということになる。(「廃棄される偶数」、『「私小説」を読む』)

 

 最後に小津に戻ろう。

 小津が、従軍中に初めて読んだ『暗夜行路』後篇に「感動」し、その影響を戦後において、作品の上でも、人間関係の上でも、政治的実践の上でも発揮してきたということを見てきた。

 

 『風の中の牝鶏』で、夫が妻を列車のデッキならぬ「二階」から突き落として以来、後期の小津(的作品)の「二階」と「一階」とが、両者を結びつける「階段」が消去されることで「非連続」に乖離し、できればそのまま「偶数性」を「廃棄」してしまいたいという欲動ともいえる作品原理に貫かれてきたことについても述べてきたつもりだ。

 

女たちの聖域として説話論的機能をはたしている二階の部屋は、最終的にはその特権的な住人を排除して空虚な場たるべく後期の小津的「作品」の中に位置づけられているのだ。そして一階の住人たちは、それが善意からであれいささかの悪意をこめたものであれ、二階が洞ろな空間となる瞬間の到来を夢想しつつ暮す存在だといえる。〔…〕後期の小津的「作品」とは、宙に浮んだ空間を空っぽにすべく消費される身振りと思考の総和にほかならない。(蓮實重彦『監督 小津安二郎』)

 

 「その1」で見たように、蓮實の意図に反して、その小津論と『暗夜行路』論とはまぎれもなく響き合っている。両者は重ねて読まれるべきなのだ。すると、蛮勇な志賀のようには、「二階」と「一階」を「総ては俺一人の問題」だとして「結びつける」ことのできなかった小津は、かわりに何度も何度も「二階」を宙に浮かせては、最後に「空虚」な「空間」にしてきたことが見えてくる。結合できないならば、どちらか一方を「空っぽにすべく消費」する形で、両者の乖離を「廃棄」してしまうこと。もし小津の人民戦線論というものがあったとすれば、そのような論理に基づくものであったはずだ。だが、「消費」といい、「廃棄」といい、これらは「結合」の不可能性にほかならない。だからこそ、小津の「二階」の宙づりは、その不可能性を前に、何度も何度も反復されるほかなかったのである。

 

中島一夫