「推し」と転向 その6

 それが、「推し」が「表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が」「あたしの体にみなぎっていると思う」、「あたしにはいつだって推しの影が重なっていて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたのだと思った」という事態であり、その事態は「あたしはあたしを壊そうと思った」という自己破壊として現出するのだ。「推し」の「暴力」が、一ファンに対するものにとどまらない「何かを破壊しよう」としたものであり、その「力」に共振(「影が重なって」)した(「解釈=忖度」ではない)「あたし」は、自己破壊へと突き進もうとする。これは、述べてきたように、「推し」が「債務者=奴」と「長期的関係を取り結ぶつもりなどさらさらな」いという「不合理」な「何かを破壊しようとする」力の噴出であり、「ガチ勢」としての「あたし」は、「主=推し」を「解釈=忖度」するあまり、自らとの関係を解消しようとするこの「力」とも、最後に「解釈=忖度」ならぬ「影が重な」るように共振してしまったといえる。「推し=主」と「あたし=奴」との「弁証法」はすでに発動し得ないものの、いや、だからこそ両者は共振してしまったのだ。

 

 「思い切り、今までの自分自身への怒りを、かなしみを、叩きつけるように振り下ろす」という「自己破壊」の結果、「綿棒が散らば」り、その「綿棒」は「お骨をひろうみたい」というように、自分の「死」後を想起させる描き方をされる。この直前にも「あたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできない」と言われているのだから、この「綿棒=骨=死後」というイメージの連鎖は、テクストが要請しているものだ。自己破壊の後、部屋に「差し込む光は部屋全体を明るく晒し出」し、「中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った」という「あたし」が、「背骨=中心」と言ってきた「主=推し」を「中心」とする「債権債務関係=社会(ゲマインヴェーゼン)」における自らの死=葬式を、自分のみをたった一人の参列者として敢行したのである。

 

 だが、繰り返せば、「あたし」には、「労働力商品」化が「ままならない」のだ。「推し=主」の「暴力=破壊」は、「あたし」に不合理な「債権債務関係」の解消と、合理的な「労働力商品」化とを促す。急いで付け加えるが、もちろん「推し=主」自身が「働け」と言うわけではない。だが、ラストで、あのマンションで「あたし」が「一人の人間の現在=労働力商品」化に直面(想起?)してしまった以上、結局「あたし」にはそのように帰結したのである。だが、「労働力商品」化が不可能な「あたし」は、いったいこの後どうすればよいのか。例えば、コジェーヴ―バタイユなら、「労働」を拒否せよと言うだろう。

 

コジェーヴのかつての学生であるバタイユは、主人と奴隷のそもそもの対比という観点から思考している。コジェーヴは、もし承認を得るための戦いに敗れ、勝者のために働くことよりも死ぬことを望むのならば、主人であり続けるだろうと論じた。栄誉ある死は勝利と同じように人間を主人にする。バタイユにとって、承認のための戦いにおける勝利は、旧体制(アンシャン・レジーム)の崩壊と社会の民主化の後では不可能となった。しかし栄誉ある自己破壊という選択肢は残っている。労働を拒否することは、弱さ、病気、強さと規律の欠如の印とみなされうる。この場合労働者は、労働者の仕事の能力を回復させ、彼らを福祉制度のケアのもとに置こうとする社会をコントロールするシステムの中に留まっている。しかし人は労働の工程によっては吸収され得ない、生命力とエネルギーの過剰を持っているがゆえに、労働を拒否することができる。このエネルギー過剰は、決まりきった労働とケアのシステムに対する反抗へと人間を向かわせる。(ボリス・グロイス『ケアの哲学』)

 

 「バタイユにとって、承認のための戦いにおける勝利は、旧体制(アンシャン・レジーム)の崩壊と社会の民主化の後では不可能となった」。ヘーゲル―コジェーヴ的な「死を賭した自己意識」による「革命」の不可能性である。「しかし栄誉ある自己破壊という選択肢は残っている」。このとき、「労働=ケア」に対する「反抗」として、「労働」の「拒否」が視界に浮上してくる。このとき、バタイユの「至高性」に矛盾するジレンマが生じる。

 

バタイユの至高性の概念もまた矛盾している。一方ではコジェーヴに従って新しい至高性、つまり労働の至高性を確立することを共産主義に期待している。〔・・・〕ここではスターリンは再びこの新しい種類の至高性にとっての規範となっている。なぜならば、彼は共産主義の理念に奉仕する名目で、快楽、余暇、個人的な欲望を満足させることを自分自身に許さないからである。共産主義の至高性は、機械になること、人間の性質の動物としての部分を拒絶することを決意した人間の至高性である。

 しかしバタイユは共産主義の至高性を「否定的な至高性」と呼ぶ。彼は明らかに真逆のもの、つまり至高性を獲得する肯定的な選択肢、つまり労働を拒絶することを好む。人間が労働を拒絶するとき、彼は機械であることをやめ、動物、獣になる。至高性は動物性に等しい。「至高な人間は動物と同じような様態で生き、そして死ぬ。が、むろんのこと、それでもやはり人間なのである」。それは古い封建制の至高性であるが、完全に非キリスト教化されている。実際のブルジョア以前のキリスト教の世界では王でさえ神の奴隷であった。しかしバタイユは、頭のない人間、匿名の「名前のない」生命の超能力を表わす、(一九三六年から三九年にバタイユが編集した有名な雑誌のタイトルに使用された)アセファルとして封建君主をイメージしている。

 

 「共産主義の至高性は、機械になること」「動物としての部分を拒絶することを決意した人間の至高性である」。もちろん、コジェーヴの「生徒」としての「留保なき」ヘーゲリアンであるバタイユは、この「共産主義」的な「至高性」を完全に否定しているとは言いがたい。だが、一方でバタイユの経済学は、同時にモース『贈与論』の影響がベースにある。その方向の「至高性」は、共産主義とは「真逆」の、むしろ「労働」の「機械」たることを「拒絶」し、「動物、獣になる」ことだ。それは、ブルジョア的な「快楽、余暇、個人的な欲望」を「拒絶」し、「労働=機械」に「至高」的になり切って、「主」に捧げる「労働」を乗り越えようとするものの、それによって結局は「再生産」されてしまう「労働」による「社会」全体を「拒絶」することだ。「労働」をベースに「社会」(ゲマインヴェーゼン)が「再生産」されてしまうなら、たとえその「労働」が全面的に「機械」によるものになろうと、どこかに「神=キリスト=主」は残存し、「労働」を担う者は、人間であるかどうかを問わず「奴」を免れない。一方、「動物、獣になる」者は、「労働」を拒否することで、「主―奴」関係を拒否する者である。

 

 資本主義は、「債権債務関係」(主―奴)に基づく「不合理」な「労働」を、「労働力商品」の「交換」で置き換えることで、「合理」性を装う。「労働(力商品)」自体に、「債権債務関係」の「不合理」(無理)が内在しているのだ。確かに、現代の金融化された資本主義は、「債権債務関係が皆無とは言えないまでも、きわめて希薄化した世界であり、市場(交換)の論理が支配する「間」に近似した世界である」(沖)。だが、どんなに「労働」が、それこそ「機械=AI」化されたとて、「労働」自体が揚棄されないかぎりは、必ず「主」は形を変えて残存するだろう(AIを支配する「主」)。

 

 バタイユの「頭のない人間=アセファル」は、モースをベースにしている以上、「古い封建制の至高性」や「封建領主」の「イメージ」を免れない。だが、「頭のない=主のいない」「動物、獣になる」至高性に向けて、決して思考を停止させまいという意図は感受できる。

 

 「推し=頭」を失った「あたし」が、「推し」の暴力と連動する「自己破壊」の擬態のあと、「二足歩行は向いてなかったみたいだし」と「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う」という至る作品のラストに、このバタイユ的な「至高性」を読み取るのは牽強付会だろうか(したがって、『推し、燃ゆ』という作品は、「労働」の拒絶という文脈で、「だめ連」やアウトノミア運動に接続されるポテンシャル(あくまでポテンシャルだとしても)を持っているとさえいえる?)。少なくとも、ここで『推し、燃ゆ』の「燃ゆ」とは、単にネット上での「炎上」騒ぎにはとどまらないといえよう。そこに「推し=主」を、そして「主―奴」という「自己意識」の構造自体を供犠の炎とともに「燃」やして葬り去ろうとする、「革命=転向」小説の意志を読み取るべきだろう。そのとき、「推しが燃えている」とは、「推し」を再生産する構造自体が「燃えている」という謂となろう。

 

 ここに、この作品を「転向」小説として読んできた時に露わになる「推し=主」と「あたし=奴」との関係を把握するうえで要請された、もう一段上位の審級が視界に浮上する。そして、それによって、「死を賭する自己意識」による「革命」からの、「革命」概念の転換をはかろうとする、「その先」の「長い長い道のり」(『推し、燃ゆ』ラスト)の端緒が書きつけられているとしたら。

 

 だとしたら、むしろ本当に『推し、燃ゆ』が、三島の「英霊の聲」を下敷きにしていると、あえて真に受けてみてはどうか。すなわち、天皇が自ら「人になる」と言い、今作の「推し」のように洗濯物を干したりして(むろん、自ら干しているかどうかが問題ではない)、「人間」としての日常「生活」を営んでいることを知っているにもかかわらず、それでもなお、「主」として「推し」(あげようとし)ている「国民=すべての人間」に向けられた「暴力」と、「あのときの睨みつけるような眼」を、ラストに感受してみるのである。このとき、「二足歩行」が「向いてな」いことは、むしろバタイユの「栄誉ある自己破壊」ではないだろうか。

 

(中島一夫)

 

「推し」と転向 その5

 この「推し」の「暴力」は、先に述べたように、「あたし」には「解釈の不可能性」としてあった。「なぜ推しは人を殴ったのだろう、という問いを避け続けていた。避けながら、ずっとそのことが引っ掛かっていた。それでも、そんなことが、あのマンションの一室の外から見えるわけがないのだと思う。解釈のしようがない。」

 

 それは、ここまで何とか「合理」(資本主義的交換)で糊塗されてきたものの、本質的には「不合理」としてあった「主と奴」の「債権債務関係」が、いよいよこれ以上は「関係」を持続=再生産され得ないことの「告白=暴露」である。「あたし=奴」は、「推し=主」に捧げる「労働」として、「主」の意図を「解釈=忖度」し続けてきた。だが、「ファンの女性」への「暴力」として顕在化したそれが、「主」がこれ以上「奴」に「労働」を求め得ない、すなわち「債権債務関係」を持続し得ないことの「告白」である以上、それは「奴」としての「あたし」には、本質的に「解釈=忖度」の「外」としてあろうとするものだ。

 

 したがって、『推し、燃ゆ』冒頭の「暴力」は、夏目漱石『道草』に見られた、周期的な「細君」の「ヒステリー=恐慌現象」とはまったく異質なものである。現在の『推し、燃ゆ』の資本主義においては、『道草』の頃の資本主義にはあった、「恐慌」を景気循環の一コマとして「吸収」することが、もはやできなくなっているのだ。もう一度、沖公佑を引いておこう。

 

かつての古典的な景気循環であれば、恐慌によって生じた過剰な遊休貨幣資本は、景気の底入れとともに、いずれは産業資本に対する信用に吸収され、雇用の拡大をもたらした。つまり、古典的景気循環の好況期には債権債務関係のとりあえずの再建が見られたのであるが、不況の慢性化した今日では、貨幣資本は、債権債務関係を再建する方向に向かわず、商人資本的な交換(投機)に投じられる。逆説的なのは、そこでの投機的取引の対象が、主として、債権債務関係が商品化したもの、すなわち、金融商品であるということである。(「制度と恐慌」)

 

 『道草』に見られる「かつての古典的な景気循環」では、「債権債務関係のとりあえずの再建が見られた」。これが、「健三」夫婦においては、「手をとりあって談笑する」小康状態の時期として描かれた。だが、『推し、燃ゆ』は、「不況の慢性化した今日」の資本主義において、「債権債務関係が商品化した」「金融商品」として「推し」は提示され、「推し」活は先にみたように、「投機的取引」の様相を帯びている。そして、今、「推し=主」と「あたし=奴」の「債権債務関係」の「再建」の「不可能性=外」が、「暴力」として暴露され、突きつけられたわけだ。

 

 その「外」を、作品は(三島「英霊の聲」を想起させながら)「推しは人になった」出来事として描こうとする。

 

ごく普通のマンションだった。名前は確認できないけれど、おそらくネットに書かれていたものと同じ建物だろう。ここで何をしようと思っていたわけではなかったあたしは、ただしばらく突っ立って、そこを眺めていた。会いたいわけではなかった。

 突然、右上の部屋のカーテンが寄せられ、ぎゅぎゅ、っと音を立てながらベランダの窓が開いた。ショートボブの女の人が、洗濯物を抱えてよろめきながら出てきて、手すりにそれを押し付けるようにし、息をつく。

 目が合いそうになり、逸らした。たまたま通りかかったふりをして歩き、徐々に早足になって、最後は走った。どの部屋かはわからないし、あの女の人が誰であるかもよかった。仮にあのマンションに推しが住んでいなくなって関係がなかった。

あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。

もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

 

 うっかり誤読しそうになるが、マンションで「目が合いそう」になった「ショートボブの」「彼女」は、噂されていた「推し」の「彼女」(結婚相手)とは限らない。そもそも、「推し」が本当にこのマンションに住んでいるのかも分からないのだ。「あの女の人が誰であるかもよかった。仮にあのマンションに推しが住んでいなくなって関係がなかった」。

 

 では、なぜそのように、事態が不明瞭なまま、「あたし」は「盲目」的に「もう追えない」と判断してしまったのか。端的にそれは、「あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった」からだ。それは、「あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも」、すなわち「主」に対する「不合理」な貢ぎ物(作中では「おそなえもの」と重ね合わせられている。「おそなえものとか、意味ないのにね」〔・・・〕「そなえること、買うことに意味があって、食べるときにはもういらないものみたいな感覚になった」)ではない「合理的な労働力商品の交換」物が、何より「あたし」を「明確に傷つけた」のである。それが「一人の人間の現在を感じさせ」、その感触が「引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実」へとスライドして、「あたし」のリアリティを形成していくことになる。

 

 この「あたし」には根本的には欠落している「一人の人間の現在」の感触が、いまだ「あたし」が果たせていない、自らの「就職=労働力商品化」に関わることは、今までの議論から明瞭だろう(「あたし用につくってもらった銀行のカードには、三回お金が振り込まれ、痺れをきらした母が、もう払えない、自活してください、と言った。「いつ就職するの?」「いつまでも払えないんだから」「今度そっち行くから」」)。「なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう」という「あたし」は、ついには自己破壊へと突き進むことになる。見逃せないのは、その(自己)破壊の意志が、「推し」の「暴力」と「繋がっている気もする」ことだ。

 

なぜ推しが人を殴ったのか、大切なものを自分の手で壊そうとしたのか、真相はわからない。未来永劫、わからない。でももっとずっと深いところで、そのこととあたしが繋がっている気もする。彼がその眼に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う。あたしにはいつだって推しの影が重なっていて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたのだと思った。〔・・・〕あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶滅茶になってしまったと思いたくないから、自分から滅茶滅茶にしてしまいたかった。

 

 述べてきたように、「あたし」にとって「推し」の「暴力」は、「未来永劫、わからない」という「解釈=忖度」の不可能性としてあった。これまた述べてきたように、その意味において、ここでは『推し、燃ゆ』という作品を、この「奴」が「主」の意図を「解釈=忖度」できなくなるという「転向」を描いた「転向」小説として読んできた。「主」の「解釈=忖度」不可能性に触れてしまうことで、「奴=あたし」には己の「自己意識」を「意識」するという「奴」の悪循環が生じることになる。このとき、はじめて「あたし」に、「主」と「奴」の関係を捉え直す「もう一段上位の審級が要請される」(すが秀実『探偵のクリティック』)のだった。この捉え直しが、今訪れている。

 

(続く)

 

「推し」と転向 その4

健三が外国から帰って来た時ですら、細君の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこう言った。――「まあ自分の宅を有つという事が人間にはどうしても必要ですね。然しそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精々貯蓄を心がけたらいいでしょう。二三千円の金を有っていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円位出来ればそれで結構です。それを私に預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」

 貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。

「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」

 彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利欲を離れる事の出来ない彼は、驚愕の念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の怪力を眺めた。しかし千円拵えて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法を訊く気にもならずについ今日まで過ぎたのである。

 「そんなに貧乏する筈がないだろうじゃないか。何ぼ何だって」

 「でも仕方がありませんわ、廻り合せだから」(『道草』)

 

 「一年のうちに千円が二千円になり得る」「貨殖の道」。「健三」には、どうしてこのように、貨幣が増殖して資本になるのか、その理屈が「だいいち意味さえ解らない」。だが、傍から見れば、健三は学問のために洋行をして、現在はどうやら大学に職を得ている以上、「成程どうも学問をなさる時は、それだけ資金が要るようで、一寸損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りのいい訳になるんだから、無学のものはとても敵いませんな」と評されるほど、「利廻り=資本」が服を着て歩いているようなものだ。

 

 まさに健三夫妻は、同じ資本の「論理」の「円い輪の上をぐるぐる廻って歩い」ているのである。だが、マルクス『資本論』の公式「G-W―G‘」が示すように、最初に投じられた「G」(貨幣)から、この「輪=サイクル」の最後には「G’」という利潤(G+ΔG)が発生し資本へと変態していく。このプロセスにおいては、いわゆる「命がけの飛躍」が必要なのだ。その「飛躍」は、一見「合理的」な「論理」に見えて、自動的に起こるわけではない「不合理」(無理)なのである。

 

 話を戻せば、その「不合理」が突然暴露されるのが「恐慌」現象である。それが健三夫婦においては、「自然」によって「緩和剤としてのヒステリーを細君に与え」られることになる。他者同士であった夫婦は、やがて(利)「子」を生み「家族」という互酬的な「債権債務関係」に入るが、夫婦の「好況」期においては、「関係の永続としての本来の債権債務関係に表面的には近づ」くものの、やがてそれは行き詰まり、突然お互いが「他者」でしかないことが暴露される。『道草』においては、それが細君の「ヒステリー」として現れるのである。最後まで健三には、その「意味も論理も能く解らなかった」。

 

 だが、ひとたびその「論理」が発動してしまうと、『道草』の末尾が示すように、「中々片付きやしない」ことだけは「解」るのである。

 

「まだ中々片付きやしないよ」

「どうして」

「片付いたのは上部だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」

細君の顔には不審と反抗の色が見えた。

「じゃどうすれば本当に片付くんです」

「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」

 健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。

「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰る事は何だかちっとも分りゃしないわね」

 細君はこう云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。(『道草』)

 

 「片付きやしない」、資本主義の景気循環。健三夫婦は、「円い輪の上」から逃れられない。それは「自然」として感受され、細君の「ヒステリー」という定期的に訪れる「緩和剤」を伴い内包しながら、しかし「ぐるぐる廻」こと(=道草)を一向にやめない。「不合理」は、「恐慌」現象として、一瞬露呈されるものの、この「論理」ならぬ「論理=無理」が停止することはない。

 

 ここで『推し、燃ゆ』に話を戻そう。『推し、燃ゆ』では、冒頭から「推し」の「暴力」が発動される。だが、この突発的な「暴力」は、『道草』に見られるような周期的に訪れる現象ではない。それは「例外」状況なのだ(「今回の件は例外だった」)。

 

 先に述べたように、「推し」という営為は、資本主義が新自由主義化し、共同体=社会(ゲマインヴェーゼン)の再生産を放棄しつつあるなかでの、一種の反動=反作用的な現象ではないか。それは、解消されつつある債権債務関係(互酬制)を擬制的に取り戻し、「間=穴」だらけになってしまった(市民)社会を埋め、補完としようとする営みではないか。すなわち、「推し」活とは、以下に言われる、広義の「金融化」(フィナンシャリゼーション)の文脈にあるといってよい。『道草』の頃とは、資本主義のありようが変わってしまっており、もはや古典的な景気循環では捉えられなくなっているのだ。

 

つまり、古典的景気循環の好況期には債権債務関係のとりあえずの再建が見られたのであるが、不況の慢性化した今日では、貨幣資本は、債権債務関係を再建する方向に向かわず、商人資本的な交換(投機)に投じられる。逆説的なのは、そこでの投機的取引の対象が、主として、債権債務関係が商品化したもの、すなわち、金融商品であるということである。(沖公佑前掲論)

 

 もちろん、「推し」が「金融商品」そのものだなどと言いたいのでない。だが、「推し」活とは、上記の文脈における「投機」活動であり(他のアイドルグループとの「競争」)、その意味で、「推し」(という?をめぐる?)「商品」とは、「債権債務関係が商品化した」「金融商品」のようなものだ。「推し」との「主―奴」関係が、「生産」ではなく「消費」に「関わるものである」点も相似的だろう。このように捉えれば、「推し」という存在が、「債権者としてではなく、あくまで商人として振る舞おうと」し、甘い言葉で「奴」(債権者)に手を変え品を変え「消費」させようとするのも当然である。「彼らは債務者と長期的な関係を取り結ぶつもりなどさらさらな」いのだ(いまやそうもいかなくなっており、いつまでもアイドルを下りられず、アイドルも高齢化を余儀なくされているが)。

 

 したがって、作品冒頭の「推し」の「暴力」は、「主=債権者」が、これ以上「奴=債務者」たちと「長期的」な「債権債務関係」を「取り結ぶ」ことはできない、すなわち「社会」を「再生産」できないという新自由主義による「告白」(沖)として、断末魔の叫びのようなものとして捉えることができるだろう。

 

「あのときの睨みつけるような眼は、リポーターに向けたんじゃない。あの眼は彼と彼女以外のすべての人間に向けられていた」。

 

 「彼と彼女以外のすべての人間」とは、端的に「社会」(ゲマインヴェーゼン)であり、この期に及んで自らを「債権債務関係」にいつまでも縛り付けようとする、「すべての人間」だろう。

 

(続く)

 

「推し」と転向 その3

 だが、重要なのは、父が「向かって」いるとされる「解決」が、その実まったく「理路整然」とはしていないことだ。父は、ことさらに「明快に、冷静に、様々なことを難なくこなせる人特有のほほえみをさえ浮かべて、しゃべ」り、「あたし」の「推し活=不合理」な「主」に貢ぐ「奴」の「労働」を、就職=「労働力」の商品化という「合理」に差し向けようとするものの、「この不合理(信用)の合理(交換)による置換は、それ自体が無理(不合理)」なのである。

 

 父が「期限を決めてやろう」という「期限」も、結局は「進学も就職もしないならお金は出せない」という、家族という互酬的な「債権債務関係」を、「交換の変形」へとしれっと「置換」し、「先払い(賃金)ないし後払い(代金)」として「あたし」を養育してきたのだという、露骨なまでの恩着せ以外のものではない。その「解決」が、実は「合理」的なロジックをもたない「不合理」の「糊塗」にすぎない、したがって結局は、権力=暴力の行使を「宥め」すかしているにすぎないことが、「あたし」にも分かっているからこそ、父が「宥めながら遮るのが癇に障」るのである(だが、現代の「父」に、こうした微笑をたたえた「権力」以外のスタンスがあり得るだろうか)。

 

 「あたし」の「働け、働けって。できないんだよ」は、単なる「発達特性=普通じゃない」によるものではあるまい。ここで「あたし」は、宇野弘蔵風に言えば、「労働力商品化の無理」に直面しているといってよい。「不合理=無理」をあたかも「合理」として「解消可能なもの」のように「変形」してしまう「力」に、「あたし」は触れてしまったのだ。父が、「資本=主」ではなく、その「力」を行使するエージェントにすぎないことは、父もまた、単身赴任先の部屋から「女性声優」の「かなみん」に、夜な夜な「おっさん構文」でメッセージをツイートしている描写からわかる。父もまた、「主」を「推し」ている「奴」の一人にすぎないのだ。父は「家族」を率先して「奴」としての「労働」の方へ導き、資本主義下の「家族」として体裁を整えていく整流器である。だが、「あたし」が、「不合理」の「労働」(推し)を、「合理」の「労働」へと「変形=就職」できないことが、「雨漏り」のようにゆっくりと「我が家を壊していく」のである。「我が家」という共同体は、新自由主義下の「社会」(ゲマインヴェーゼン)のごとく、「間」化していくのだ。

 

 先に述べたように、「推し」活文化の広がりと浸透は、資本主義が新自由主義化していった、その反動=反作用としての「半封建的なもの」の「残滓」と見られる。『推し、燃ゆ』の「推し」が、「天皇=神」が「人」になる、三島由紀夫の「英霊の聲」を想起させる(実際、そうさせるように描かれている)ことも、その文脈で捉えられよう。「天皇=神」が「人」になることは、「半封建的なもの」が一掃されることを意味するからだ。もちろん、天皇の「人間」宣言によっては、「半封建的なもの」は一掃されなかった。問題は、「天皇」個人ではなく、資本制と結託している天皇「制」だからである。その資本制の部分において、「債権債務関係」という「不合理」を「合理」に置き換えることは、それ自体が「不合理=無理」だからである。「残滓」の領域は形態を変化させながらも、必ずどこかに残存する(だからこそ、「死を賭した自己意識」による革命を、そう簡単に厄介払いすることもできないのだ)。

 

 資本主義下にある以上、一般的に「推し」活は、「不合理」を「合理」へと置き換えていく資本主義的な「学び=労働」と並行して行われることで、それ自体が「不合理=無理」である矛盾から発生するストレスを、部分的に解消するためになされる(もちろん、そうした「手段」の側面は隠蔽され、それ自体が「目的」として純粋化される)。だが、先に見たように、「あたし」は、その資本主義的な「学び=労働」ができない存在なのだ。

 

「あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心というか背骨かな。

 勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。」

 

 「みんなが難なくこなせる何気ない生活」=「不合理」を「合理」で「糊塗」し、両者のバランスをとって、「普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていく」生活。「あたし」は、それに「逆行」するように「肉付け」られず、「推しを推す」という「背骨=中心」だけに削ぎ落とされていく。「あたし」は「不合理=債権債務関係」を「合理=資本主義的交換」に置き換えることが「ままならない」存在なのだ。

 

 だが、繰り返せば、「「不合理」の「合理」による置換は、それ自体が無理(不合理)である」。この「置換」は、ロジカルなものではなく、半ば強引に「糊塗」されるにすぎない。したがって、資本主義においては、「だが、不合理を合理に置き換えることの不合理(無理)は恐慌によって暴露されざるを得ない」だろう。宇野弘蔵がこだわった、資本主義における「恐慌」の不可避性(という可能性)である(宇野弘蔵『恐慌論』参照)。だからこそ、本来的に資本主義下の人間は、景気循環のごとく、定期的に精神に「恐慌」を来すことになる。例えば、夏目漱石の『道草』(一九一五年)のように。

 

「幸にして自然は緩和剤としての歇斯的里(ヒステリー)を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。〔・・・〕細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。然し大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲がたなびいていた。彼は心配より可哀想になった。弱い憐れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も嬉しそうな顔をした。

 だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己を苦しめるのかという不安が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。

 不幸にして細君の父と健三の間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。(夏目漱石『道草』、旧字体を部分的に改めた)

 

 この「細君」の「緩和剤としてのヒステリー」は、都合良く「二人の関係が緊張した間際に起」る「自然」と見なされている。

 

「健三の論理(ロジック)は何時の間にか、細君が彼に向って投げる論理(ロジック)と同じものになってしまった。

 彼等は斯くして円い輪の上をぐるぐる廻って歩いた。そうしていくら疲れても気が付かなかった。

 健三はその輪の上にはたりと立ち留る事があった。彼の留る時は彼の激昂が静まる時に外ならなかった。細君はその輪の上で不図動かなくなる事があった。然し細君の動かなくなる時は彼女の沈滞が融け出す時に限っていた。その時健三は漸く怒号を已めた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携えて談笑しながら、矢張円い輪の上を離れる訳に行かなかった。」

 

 「健三」夫婦は、「二人の関係」という「円い輪の上=景気循環」という「同じ」「論理(ロジック)」を「ぐるぐる廻って」いる。同時に『道草』が、それまで「自分の未来に関わるような所作を避けたい」という思いから、「他から金を借りた経験のない男」であった「健三」が、「帽子を被らない男=島田」が「突然彼の行手を遮」ったばかりに、「貨殖の道」(=「資本」主義)へと踏み出していかざるを得なくなる過程=道草を描いた作品であることは言うまでもない。

 

(続く)

 

 

「推し」と転向 その2

 主人公の「あたし=山下あかり」は、アイドルグループ「まざま座」の「上野真幸」を「推し」ている。「主=真幸」に対する「奴=あたし」の「労働」は、まさに「主」の意図を「まるごと」「解釈=忖度」し続け、ブログに記録、公開、共有することである。

 

見終えてからまた戻し、ルーズリーフにやりとりを書き起こす。推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう。ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聞き取り書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに綴じられて部屋に堆積している。CDやDVDや写真集は保存用と鑑賞用と貸出用に常に三つ買う。放送された番組はダビングして何度も観返す。溜まった言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにあった。解釈したものを記録してブログとして公開するうち、閲覧が増え、お気に入りやコメントが増え、〈あかりさんのブログのファンです〉と更新を待つ人すら現れた。〔・・・〕あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。(宇佐見りん『推し、燃ゆ』)

 

 こうして、「あたし」は、その「労働=主の意図を忖度」によって、「主」の意図により適っているとして他の「奴」にも「承認」され、「真幸くんの「ガチ勢」として有名になっ」ていく。だが、ある時、「例外」的な事態が起こる。作品冒頭に描かれる「推し」による「暴力」である。「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。〔・・・〕今回の件は例外だった」。こうした文脈で見てくれば、『推し、燃ゆ』とは、ヒカリクラブが論じるように、この冒頭から明かされる、この「例外」状況=「主」の「暴力」という、「奴」による「忖度=解釈」の不可能性をめぐる作品なのである。

 

そのような「あたし」はこれまで、推しの言葉や一瞬の表情、ちょっとした仕草を「解釈」することで、その真意を読み取ってきた。しかし、暴力については、最後まで解釈を拒むままにとどまる。つまり、『推し、燃ゆ』というテクストにおいて、推しの暴力そのものが解釈を突き放すテクストとしてあるのだ。したがって、この解釈の不可能性を解き明かすことが、『推し、燃ゆ』を読み解くための糸口になるだろう。(ヒカリクラブ「ケア小説Beginning――宇佐見りん、『かか』『推し、燃ゆ』『くるまの娘』と令和・資本主義」2025年5月『G-W-G 09号』)

 

 先の文脈で見れば、この「主」の「暴力」という「解釈の不可能性」とは、それまで見えていた「主」の意図が「奴=あたし」に見えなくなる事態にほかならない。これは「主」の機能失調による「奴」の「転向」の開始といってよいだろう。先の引用にあるように、「『推し、燃ゆ』というテクストにおいて、推しの暴力そのものが解釈を突き放すテクストとしてある」のだとしたら、まさに『推し、燃ゆ』とは、現代の「転向」小説なのだ。「あたし」は、「主」たる「党」(「まざま座」?)――あるいは『推し、燃ゆ』があからさまに三島由紀夫の「英霊の聲」を下敷きにしているのなら、「主」たる「天皇」といってもよい。「保守革命」以降、両者は相似的である――を喪失し、自らが「主」に至ることの挫折を、作品冒頭から告げられるのである。

 

「僕」が「主」の意図を明瞭に忖度できる場合は、自己意識を意識するといった悪循環は生じない。自己意識が「人間の外部と内部とを引き裂いているかのごとき働きをなしつつ、恰も人間の活動をしているそれが全く偶然的に、突発的に起ってくるかのごとき観」を呈するのは、「主」の意図が見えなくなってきた時にほかならないのである。日本におけるマルクス主義の導入は、それまで「主」であったものの方向性の失調として意識されなければならなかっただろうし、あるいは逆に「転向」という現象も、マルクス主義者にとって、「主」たる「党」の喪失、あるいは「主」にいたることの挫折として体験されるものにほかなるまい。あるいは「故郷を失った文学」(小林秀雄)といった、今ではいささか感傷的に聞こえる了解も、この自己意識という文脈のなかで見て取ることができるだろう。その時、その「主」と「僕」の関係を把握しようとする、もう一段上位の審級が要請される。(すが秀実『探偵のクリティック』一九八八年)

 

 すると、『推し、燃ゆ』という作品は、「転向」に直面した「あたし」が、まさに「その「主」と「僕」の関係を把握しようとする、もう一段上位の審級が要請される」過程が描かれているものとして読まれ得るだろう。その文脈で読むと、「あたし」が就職できず、自らを「労働力商品」化できないことは見逃せない。「あたし」は、いわゆる「発達特性」なのだろう、高校を中退し、就活もままならない。ある時、そのことを親に問い詰められる。

 

「何かが今までと違っていた。父だけが、どこかのんびりしている。

「進学も就職もしないならお金は出せない。期限決めてやろう」

 父は理路整然と、解決に向かってしゃべる。明快に、冷静に、様々なことを難なくこなせる人特有のほほえみさえ浮かべて、しゃべる。父や、他の大人たちが言うことは、すべてわかり切っていることで、あたしがすでに何度も自分に問いかけたことだった。

 「働かない人は生きていけないんだよ。野生動物と同じで、餌をとらなきゃ死ぬんだから」

 「なら、死ぬ」

 「ううん、ううん、今そんな話はしていない」

宥めながら遮るのが癇に障った。何もわかっていない。推しが苦しんでいるのはこのつらさなのかもしれないと思った。誰にもわかってもらえない。

「じゃあなに」涙声になった。

「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」

「またそのせいにするんだ」

「せいじゃなくて、せいとかじゃなんだけど」

〔・・・〕居間は、雨漏りの音に優しく平手打ちされているように思えた。秋の雨がゆっくりと我が家を壊していく。」

 

 先に見たように、「推し」活は、新自由主義的な資本主義に残存する「債権債務関係」(「推」す側に負債感情が発生するのもそのためだ)に基づく「労働」という「不合理の根」である。だが、資本主義は、この「債権債務関係」における「不合理」な(奴の)「労働」を、先の沖公祐の引用で見たように、「合理的な労働力商品の交換に置き換えねばならなかった」。もちろん、「だが、この不合理(信用)の合理(交換)による置換は、それ自体が無理(不合理)である」。だからこそ、「不合理の根」は「残滓」とならざるを得ないのだが、一方、資本主義の方は、そうであるならばとばかりに、「この不合理を糊塗するために、資本は債権債務関係の期限を設定し、解消可能なものにする」だろう。すなわち、これが、「先払い(賃金)」ないし後払い(代金)による」「労働力商品」の「売買」による「一先ず」の「不合理」の「糊塗」である。

 

 先の引用で「あたし」は、父に「進学も就職もしないならお金は出せない。期限を決めてやろう」と言われる。まさに、「あたし」の「推し」活の「不合理」に、「期限を設定し、解消可能なもの」にしようとするわけだ。父は、家族という「不合理」な「債権債務関係=互酬的な贈与とお返し」の「主」の位置にいるものの、言うまでもなく、近代資本主義の「父」は、「奴」に「労働」を貢がれるどころか、自ら不断に「労働」に勤しみ、むしろ子らを「奴」としての「労働」へと誘導する存在である。父自体が、資本という荒ぶる「主」の「奴」にすぎない。だから、「働かないと人は生きていけないんだよ。野生動物と同じで、餌をとらなきゃ死ぬんだから」と、「あたし」を「労働」へと駆り立てるだろう。

 

 だが、「あたし」は、「働け」ないのだ。「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」。「不合理」な「労働」を、「合理」の「労働力」に「置き換え」ることができない「普通じゃない」存在なのである。

 

 もちろん、そんな理屈に父ははなから耳を貸す気がない。「ううん、ううん、今そんな話はしてない」「またそのせいにするんだ」。「父は理路整然と、解決に向かってしゃべる」が、「あたし」にすれば、父がそのように「宥めながら遮るのが癇に障」るのだ。

 

(続く)

 

「推し」と転向

 「推し」という営みが、ヘーゲル的な「自己意識」の文脈にあることは、論を俟たない。「承認」のための「生死を賭する戦い」に敗北した「奴」の位置に転落(転向)した「奴」が、勝利した「主」の意図を代行し、その「欲望」を満たすための「労働」を行う。「推し」活は「転向」なのである。ただ、現在は、「転向」という文脈が不可視になっているだけだ。「自己意識」とは、「奴」による「主」の内面化であり、「もう一人の自分」という「自己二重化」である。こうして「主」を内面化し、自らを「二重化」させることによって、「奴」はようやく「主体化」される。「推し」を推すことで「主体化」がなされるように。

 

 おしなべて、「推し」活が、「主」の意図を忖度、代行し、「主」の「欲望」を満たすための「労働=活動」であることは見やすい(グッズを買い、動画を回し、「推し」を「推し=押し」あげるために「労働」する)。だが、それは、「奴」がやがて「主」を乗り越えようとする弁証法が、もはや作動しない「自己意識」である。「奴」の「労働」は、もはや「主」と「奴」の関係の廃絶を、すなわち「革命」を目指さない、永遠の「自己意識」である。「奴」は「主」を永遠の「主」として崇高化し(「尊い」!)、「主」は「奴」に寄り添う。そうすることで、お互いに「死を賭する自己意識」から撤退し、したがってお互いに心身ともに生きさせる。現在、それは「ケア」と呼ばれている。重要なのは、「推し」が「ケア」の一形態だとして、それが「革命」の終わり、不可能性の歴史性を刻印していることだ。すが秀実が論じてきた、いわゆる「68年」、「七・七=華青闘告発」以降の問題である。

 

一九七〇年六月のいわゆる反安保闘争は、死を賭けた闘争として日本革命(あるいは、世界革命)を把握することがデッドロックに乗り上げたことを意味していた。そのことを刻印したのが、七月七日の華青闘告発であり、その直前に刊行されていた津村のデビュー作『われらの内なる差別』である。その意義を本稿の文脈に即して言えば、革命が死を賭する自己意識による革命ではないこと(それは事実上、「革命」の終わりを意味していたかも知れない)を、具体的に提示したところにあった。そこにおいて、「在日」の問題がまず問われ、被差別部落問題、フェミニズムや障碍者運動も勢いを得ていった(クィア問題は日本ではいまだ問われなかった)。そのマイノリティーへの焦点化は、健康や食への着目と並行した「生政治」批判であった。だが、一九七〇年六月を越してもなお、ほとんどの左派は死を賭する自己意識にしがみついていた。七月七日の華青闘告発が、むしろ死を賭した闘争への傾斜を強めたという面さえある。世界革命戦争を怒号する赤軍派然り。「内ゲバ」に没頭する諸党派然り。東アジア反日武装戦線然り。毛沢東主義を掲げる党派においても、事情は変わらなかった。(「「政治と文学」理論とケアの論理・覚え書」二〇二四年九月「文学+」〇四号)

 

 この「内ゲバ」の暴力=死を賭した闘争と、それに「しがみついていた」「左派」に嫌気がさし、やがて「死を賭する自己意識による革命」は疎んじられ遠ざけられていった。この「死を賭した闘争」の「暴力」は、闘争に敗北し「奴」の側に回った者が、闘争に勝利し「主」となった者の意図を忖度、代行する「労働」を行い、その「贈与」によって「主」の「欲望」を満足させられているうちは露呈しない。この「主―奴」の債権債務関係は、「主」と「奴」の間に「弁証法」が作動しなければ、永続的に解消されることはない。

 

一方、本来の債権債務関係とは、条件の有利不利に関わらない、関係の永続である。その意味で、債権債務関係とは本質的に解消されざるものである。関係を持続させるためには、負債は完済されてはならない。キリストに対する人間の負債は決して償いえない無期限の負債である。

 このような債権債務関係は、資本にとっては明らかに不合理である。それゆえ、債権債務関係に基づく労働――農民は領主に対して、奴隷は主人に対して、キリスト教徒は神に対して負債を負うからこそ労働する――は、合理的な労働力商品の交換に置き換えられねばならなかった。だが、この不合理(信用)の合理(交換)による置換は、それ自体が無理(不合理)である。市場のまさに只中に債権債務関係という不合理の根が残らざるをえない所以であるが、この不合理を糊塗するために、資本は債権債務関係に期限を設定し、解消可能なものにする。こうして、債権債務関係は交換の変形として、すなわち、先払い(賃金)ないし後払い(代金)による商品の売買として一先ずは合理的に捉えなおされる。(沖公佑「制度と恐慌」二〇一三年六月別冊『情況』)

 

 「主」と「奴」の債権債務関係は、資本主義にはなじまないのである。「しかし、市場が創り出す関係は交換時点に限定された瞬間的なものである。市場は本来的にスポット的な性格をもっており、それゆえ、持続的で反復的な社会的再生産には馴染まないのである。

 

 資本主義は、社会的再生産の編制原理であった債権債務関係を交換に置き換えることによって、成立したものであるが、このことは社会的再生産に不安定性をもたらさずにいなかった〔・・・〕」(沖公佑「制度と恐慌」)。

 

 「推し」という「主」の「欲望」を満足させる「労働」が、いかにグッズやチケットを購入する資本主義的交換に見えたとしても、それらは本質的には債権債務関係(信用?信仰?)を永続的に反復させようとする「社会的再生産」にほかならず、資本にとっては、「不合理」で「不純」なものだ。マルクス主義の「講座派」風にいえば、それは「半封建的なもの」の「残滓」そのものである。

 

 「推し」という営みが、資本主義が新自由主義化して以降に盛んになっていったのは、新自由主義が、資本がその純粋性を取り戻そうと社会内部から撤退し、「間」へと回帰しようとする傾向に対する一種の反動=反作用として、であろう。「新自由主義は、資本が社会的再生産を担えなくなったことの資本自身による告白にほかなら」ず(沖)、「推し」という行為の拡大(そして、次から次へと簇生するアイドルグループ)は、何とか資本を社会の内部にとどめようとする(だから関連グッズの売買という資本主義的交換の「擬態」にならざるを得ない。それは「資本主義」的な「債権債務関係」、永続を「擬態」(不意に「解散」や「卒業」が訪れ、「奴」は「解放」されてしまうという意味でも「半」封建的でなければならない)する「半封建的なものの残滓」である。

 

 このような文脈において、宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読んでみよう。

 

(続く)

 

「作者」は「死」んだのか?――生成AIの民主化と文学 その5

 だが、フーコーのいう「フィクシオン」の思考=志向は、『当事者は嘘をつく』の著者のように、ケータイ小説の実践や「自分語り」を、ある種の「型」の変奏=パスティーシュと見なすこととも異なったものだろう。

 

 フーコーの「フィクシオン」の思考=志向は、「私は(真理を)考える」の担保なしに「フィクシオン」は可能かという「試練」とともにある。そこにおいては「私は(フィクシオンを)話す」における「話す主体がそこにおいては消え失せる、あの「外」にわれわれを連れてゆく」。

 

 フーコーは、「フィクシオン」を「物語を規制する語り様態」「物語が「物語られ」ているさまざまな語りの様態のこと」であると言い、「ファーブル」=「語られているもの(さまざまな出来事、登場人物、登場人物が物語のなかではたしている役割、彼らの身の上に起きる事件、など)のこと」と明確に区別する(「物語の背後にあるもの」1966年)。「ファーブル」は、現実世界でも可能であるが、「フィクシオン」はそうではない。後者は、「物語」(虚構)を「物語」(虚構)たらしめる「様態」なので、「物語」(虚構)の「内部」でのみ機能するものだ。

 

現実世界で人が何かを話しているという場面を想定してみよう。その場合、「ファーブル的な」つまり架空の事柄を話すことはもちろん可能である。しかし、話し手、話し手の行う言説、話し手の語る内容の三項が取り結ぶ三角関係は、その話の現場の状況によって〔話の〕外から規定されている。従って、そこにはフィクシオンは存在しない。ところが、文学作品というのは現実世界の言説のまがい物、似てはいるが非なるものであって、そこでは、今述べた三角関係はすべて語りの内部においてのみ存在しているのである。語られている事柄(ファーブル)自体が、誰が、どのような距離を置いて、どのような視点から、どのような語り方を用いて語っているのかということを示さなければならない。作品というものを定義しているのは、従って、語られている事柄(ファーブルの構成要素)やそれらが配列されている順序であるよりも、どのようなフィクシオンが採用されているかということになる。そして、そのフィクシオンは、語りそのものによっていわば間接的に示されているのである。一つの物語作品の語りの内容(ファーブル)はそれが属する文化が有する神話的可能性の範囲内に、その語られ方(エクリチュール)はそれが書かれている言語の可能性の範囲内に、その語りの様態(フィクシオン)は語りの行為そのものの〔原理的・抽象的〕可能性の範囲内に限られている。

 

 だが、今、「私は考える」という「真理」を思考することが機能不全に陥り、現実世界を確実性でもって支える基盤が崩れている。そこではもはや、現実世界と「物語」(虚構)との距離が明確ではなくなりつつある。したがって、「物語」(虚構)の「内部」で機能することで、「物語」(虚構)を「物語」(虚構)たらしめる「フィクシオン」という「さまざまな語りの様態」もまた、そのように「話す」「主体=私」も「消え失せ」つつある。このような地点において「われわれ」は「あの「外」」へ、「外の思考」へと「連れて」いかれることになるのだが、このように見てくれば、フーコーのいう「外(の思考)」が、柄谷行人のように「外(部)はある」という「探究」どころか、ほぼ「外」の不可能性と同義であること(フーコーは、それを「「外」の外」という言い方で言おうとしているように思われる)が分かるだろう。そこでは「フィクシオン」が「フィクシオン」としてもはや機能しない、いわば「フィクシオン」のゼロ地点なのだ。

 

 したがって、ここでは、ケータイ小説もパスティーシュも機能しない。『当事者は嘘をつく』の著者は、フーコーのいう「話す」「私=主体」が「消え失せ」る地点に居合わせ、「外の思考」という「体験」を「託」された(「サドとヘルダーリンはわれわれの思考の中に、来るべき世紀のために、だがいわば暗号で記されたものとして、外の思考という体験を託したと言うのは、はたして言いすぎだろうか?」「外の思考」)と思われるものの、そこから「「外」の外」ではなく、逆に、「物語」が、「虚構」が、まだ「型」として機能しているケータイ小説や「自分語り」の「パスティーシュ」の言説空間への方へと参入し、その言説空間で「作者(名)」を与えられた(したがって「読者」もついた)のである。もちろん、先に述べたように、それはそれで著者にとっては必然的な過程だっただろう。

 

 著者が、ケータイ小説において「作者名」と「読者」を獲得し、自らの言葉に確かさを取り戻すことで、「心の支え」になったことは十分想像できる。だが、やはりそれは、「外の思考」のあまりの困難さが、「外の体験を内面性の次元に連れもど」してしまった一つのケースに思える。

 

この外の思考に、それに忠実な言語を与えることの極度の困難さ。事実、純粋に反省的なあらゆる言説は、「外」の体験を内面性の次元に連れもどすおそれがあり、反省はどうしてもこの思考を意識の方へ帰還させて、生きて体験したことの叙述のうちに展開する傾きがあるのだし、そこにおいて「外」は肉体の、空間の、意志することの諸限界の、他者の消しがたい現前の体験として素描されることになるだろう。

 

 著者によるケータイ小説が、また「自分語り」のパスティーシュが、先に見たように、いくらそれが「物語」として「再構成」されたものであるとしても、根本的にそれは「生きて体験したことの叙述のうちに展開」されていることは疑いない。だが、「外の思考」を実践するには、「そこから、反省的言語を転換することの必要性」が生じるのだ。

 

そこから、反省的言語を転換することの必要性が由来する。それは内的な確定の方へではなく――それがもはや立ちのかされないような、一種の中心的確信の方へではなく――、むしろそれが絶えず自己に疑義を唱えねばならぬような、一つの極点の方へ向けられねばならぬのだ。〔・・・〕語がそこでは際限なくくり拡げられる純粋な「外」であるような沈黙のうちに、ほどかれてゆくことを受け入れながら。それだからこそ、ブランショの言語は否定の弁証法的使用を行なっていないのである。弁証法的に否定すること、それは否定の対象を精神の不安な内面性の中に入らしめることである。ブランショがしているようにわれとわが言説を否定すること、それはこの言説を絶えずそれ自体の外に出させること、瞬間ごとにこの言説から、それが言ったばかりのことのみならずそのことを言表する力をも剥奪することであり、この言説を、一つの開始のために自由でいられるように、そのあるところに、つまり自己のはるか後方に放置することなのだ〔・・・〕。

 

 「弁証法的に否定すること」で、言説は「否定の対象を精神の不安な内面性の中に入らしめる」。「当事者」が「嘘をつく」ことを、「弁証法的に否定」してしまえば、その「否定の対象」たる言説の無責任を、ケータイ小説や「語り」のパスティーシュという「フィクシオン」の「型」によって、「反省的言語」による「内面性」の次元へと「連れもどす」ことになろう。それは「支え」であり救いでもあったと思うが、やはりフーコーのいう「「外」の外」ではなく、実体としての「外」を回帰させることにしかならないのだ。それはどんなに小さな声でなされたとしても、「外(部)はある」と「内面(性)」として声高に主張しているのと同じことなのである。「当事者」の「証言」の「秘密」(デリダ)の「外」に、「無責任」な「フィクシオン」が型=実体としてあるのではなく、「これと相称をなす転換がフィクシオンの言語」自体に「求められているのである」。もはや「「フィクシオン」的なるものは決して物のうちにも人のうちにもあることはなく、物と人とのあいだにあるものの不可能な本当らしさのうちにあるのだ――つまり、出会い、最も遠いものの至近性、われわれが現にいるところでの絶対に露呈し得ない隠蔽などのうちにである。フィクシオンは、したがって、不可視なるものを見えるようにすることにではなしに、可視なるものの不可視性がどれほどまでに不可視なものであるかを見えるようにすることに存するのだ。」

 

 このようなフィクシオンの言語自体の「転換」とは、いかなるものなのか。それこそ、それは「イマージュもなし」なのでイメージすることはできない。「〔・・・〕みずからの諸形態を空虚のうちにほどいていって無に帰すフィクシオンとは、相交錯して一つの言説を形作り、この言説は、結論もなければイマージュもなしに、真理もなければ劇場もなしに、証明も、仮面も、明言もなしに出現し、いかなる中心にもとらわれず、故郷というものから解き放たれており、自己固有の空間を「外」として――自分がそれに向かい、それの外において語る「外」として形成する言説なのだ。」

 

 だが、それでも、そうした言説とはいかなるものなのか、フーコーが見ようとしたものに、可能なかぎり目を凝らしておこう。ブランショを例に言われるように、それはもはやジャンルの区別を無効化する、ジャンルレスな言説だろう(「「ロマン」、「レシ」、「批評」のあいだの区別がブランショにおいて稀薄なものになってゆくのをやめない」)。

 

 そして、何より重要なのは、その言説は、「無定型で頑固な無名性のようなもの」で、「それが主体からその単純な自己同一性を剥奪し、主体を空にし〔・・・〕媒介ぬきで直接「私」(ジュ)と言うことの権利を主体から剥奪して」しまうものということだ。したがって、もはやそこでは、「当事者」が「この私」と「言うことの権利」すら「主体から剥奪」されているに違いないのである。まるで、ブランショ「『私についてこなかった男』には名前がない(そして彼はこの本質的無名性のうちにとどめられたいと欲している)」ように、「当事者」には名前が、すなわち「この私=固有名」がなく、したがって「当事者」は「死」=消失しているだろう。

 

 「この場所はあらゆる言葉あらゆるエクリチュールの「外」なの」だ。そこは、文学の現在の――「当事者」(のみ)が「固有名=この私」として「正義」を発動し得る「権利」を独占し、だからこそ、同時に「作家=作者名」として「言説結社」の内部へと参入し得る「権利」を保有するという、すなわち「作者の死」どころではない、「固有名=この私」と、それとは区別されていた「作家=作者名」とが、結託して強力に機能している――そのような文学の現在の「外」に違いない。そこでは、「作者」はもちろん、「当事者」の「エクリチュール」そのものもまた「死」んでいるに違いない。

 

 繰り返せば、生成AIの民主化によっては、「作者の死」は到来しないのだろう。「エクリチュール」や「テクスト」、「引用の織物」といった概念は、変容を免れないだろうが。おそらく、「当事者=この私」の語りの隆盛とは、見てきたように、「われわれの習慣」による「作者の死」に対する抵抗なのだ。「われわれ」は、バルトが批評的に予見した「作者の死」を回避するために、「当事者=この私」による「正義」の語りをもたらしたのである。まるで「作者名」が、言説の「外」にあったはずの「固有名=この私」を言説の内部へと回収することで搾取し、それを糧として延命をはかっているようだ。おそらく、それ全体が、フーコーのいう「作者というシステム」に基づく「文学」の運動の一環なのである。

 

 だが、そもそもロラン・バルト以来、われわれが何か分かったように扱ってきた「エクリチュール」や「テクスト」という概念自体、もっと「何か得体の知れないもの」ではなかったか。そして、その得体の知れなさは、小説というものの歴史性、すなわち小説を「本来の叙事詩から区別する」ところの「人間生活の描写のなかで、公約数になりえぬものを極限までおしすすめること」(ベンヤミン「小説の危機」)によって生み出されるものだったはずなのだ。

 

フローベールを念頭に置きつつ、ジイドの『贋金つくりの日記』――いわゆる「純粋小説」の理論――を目して、「ジイドの小説の理想は(中略)純粋な、書く小説なのだ」(「小説の危機」)と言う時、ベンヤミンが触れているのは、後にロラン・バルトが「エクリチュール」と呼ぶことになるところの、小説における何か得体の知れないものの誕生であろう。言うまでもなく、バルトにとってもそうであったように、エクリチュールもまた、「意味深長な一つの謎」であるが、それは「描写のなかで、公約数になりえぬものを極限までおしすすめること」によって見出されるものである。この「公約数になりえぬもの」とは、初期のユダヤ神秘主義が色濃い論文「言語一般および人間の言語」以来のベンヤミンの主要な主題たる、「固有名詞」の脱神秘化によって見出されたと言えるだろう。「公約数になりえぬもの」を、ユダヤ的固有名詞のレヴェル――すなわち、フロイト=ラカン的含意をも込めうるところの「父の名」――をこえて見出す時、小説言語としてのエクリチュールに触れざるをえないのである。しかし、その「純粋な、書く小説」とは何か。そこには、「雑」としての小説が、何かしら「純粋」なものとして見出されるという逆説がある。しかし、そのことをベンヤミンは積極的に提示しえてはいない。(すが秀実『小説的強度』)

 

 バルトの「エクリチュール」や「テクスト」、「引用の織物」などと相互に密接に関わりあっている「作者の死」という概念自体が、小説の「エクリチュール」という「得体のしれないものの誕生」という歴史性に触れている。そして、小説の「エクリチュール」とは、固有名の「脱神秘化」、言い換えれば通俗化=「雑」化の運動を伴ったものであったはずだ。ならば、「作者の死」とは、小説が小説たる運動を「おしすすめる」なかで、固有名が「脱神秘化」されていくプロセスの一帰結であるはずである。

 

 フーコーが「作者名」と区別した、単なる「固有名」そのものが、こうした固有名の「脱神秘化」の産物である。だが、見てきたように、「われわれの習慣」は、この「固有名」の「脱神秘化=通俗化」という「雑」としての「小説的強度」に耐えられないのである。その結果、固有名(この私)が作者名と結託するかのように神秘化=卓越化しているのが文学の現在ということだろう。

 

 フーコーが、言説の(領界の)分析に向かったのは、端的に「作者は死んだ」「人間は死んだ」と言ったところで、それらはそう簡単に死んではくれず、それどころか、かえって「死」のもたらすロマン主義的な反動ともいえる力によって、「作者」も「人間」も神秘化=卓越化してしまうからにほかならない。本質的に「無名」なブランショの『私についてこなかった男』の方へ、あるいは、ベケットの「だれが話そうとかまわないではないか」(『短篇と反古草紙』)の「囁きの匿名性」の方へと真に赴くためには、その「言説の領界」に働いている神秘化=卓越化させてしまう力の分析が不可欠なのだ。

 

 いわばフーコーは、「作者の死」を言挙げするのはまだ早い、そのためには「作者というシステム」の分析が必要だと言ったのである。その「作者というシステム」の変容の兆しも、まだ見えてこない。おそらく「作者というシステム」もまた、資本主義がそうであるように、様式を変えながらも、そう易々とは死んではくれないのだろう。「ですから涙を流すのはやめましょう」。

 

人間は死んだと断言するのではなく、人間は死んだ(あるいは消滅しつつある、あるいは超人に取って代わられるであろう)という主旋律――これは私の発明ではなく、十九世紀の終わりから繰り返し語られてきたことですが――それを出発点として、人間という概念がどのような法則に従って形成され、どのように機能したのかを検討する、これが問題なのです。作者という概念についても私は同じことをしました。ですから涙を流すのはやめましょう。(フーコー「作者とは何か」)

 

 したがって必要なのは、生成AIの民主化によって、「作者は死んだ」「人間は死んだ」「創作は死んだ」と「涙を流」して一喜一憂することではない。生成AIによって、「人間」が「作者」が「死」に、その「仕事=労働=創造」が奪われるというかつてのSF的な想像力は、もはや現実化しつつあるかもしれない。それでも、そこで「涙を流」してしまえば、「生成AI=悪」というSF的想像力の「物語」の「型」をなぞるだけだろう。フーコーがL・ゴールドマンに「涙を流すのはやめましょう」とたしなめたのは、その種の「隠謀史観」的な「物語」への帰結を回避するためではなかったか。

 

 フーコーがその地点で踏みとどまったように、「死んだ」と「断言する」一歩手前で、「死」を「主旋律」としながら、「言説の領界」において起こっている激しいせめぎ合いを観察し検討すること――。文学の批評に求められるのもまた、「死んだ」と「断言」し、「涙を流」しながら歌うことではなく、死を自明とし主旋律としながら、「言説の領界」でいったい何を奏でるかだろう。例えば、かつて蓮実重彦が言っていた「批評=仮「死」の祭典」とは、そういうことだったはずだが、現在「われわれ」は、その「外=死」を「託」された地点から、ずいぶんと後ずさりしてしまったように思える。

 

作者を構成する言説としての文学批評。(『言説の領界』)

 

 自戒もこめて言えば、「作者」は「死んだ」、「文学」は「死んだ」、「批評」は「死んだ」とロマン主義的に「涙を流」し、それらの「作者名」を神秘化=卓越化してきたのは、ほかならぬ「言説としての文学批評」ではなかったか。それらは「死んだ」と言えば言うほど延命する。「死んだ」という「言説」こそが、最も強力な延命装置なのだ。

 

(中島一夫)