それが、「推し」が「表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が」「あたしの体にみなぎっていると思う」、「あたしにはいつだって推しの影が重なっていて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたのだと思った」という事態であり、その事態は「あたしはあたしを壊そうと思った」という自己破壊として現出するのだ。「推し」の「暴力」が、一ファンに対するものにとどまらない「何かを破壊しよう」としたものであり、その「力」に共振(「影が重なって」)した(「解釈=忖度」ではない)「あたし」は、自己破壊へと突き進もうとする。これは、述べてきたように、「推し」が「債務者=奴」と「長期的関係を取り結ぶつもりなどさらさらな」いという「不合理」な「何かを破壊しようとする」力の噴出であり、「ガチ勢」としての「あたし」は、「主=推し」を「解釈=忖度」するあまり、自らとの関係を解消しようとするこの「力」とも、最後に「解釈=忖度」ならぬ「影が重な」るように共振してしまったといえる。「推し=主」と「あたし=奴」との「弁証法」はすでに発動し得ないものの、いや、だからこそ両者は共振してしまったのだ。
「思い切り、今までの自分自身への怒りを、かなしみを、叩きつけるように振り下ろす」という「自己破壊」の結果、「綿棒が散らば」り、その「綿棒」は「お骨をひろうみたい」というように、自分の「死」後を想起させる描き方をされる。この直前にも「あたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできない」と言われているのだから、この「綿棒=骨=死後」というイメージの連鎖は、テクストが要請しているものだ。自己破壊の後、部屋に「差し込む光は部屋全体を明るく晒し出」し、「中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った」という「あたし」が、「背骨=中心」と言ってきた「主=推し」を「中心」とする「債権債務関係=社会(ゲマインヴェーゼン)」における自らの死=葬式を、自分のみをたった一人の参列者として敢行したのである。
だが、繰り返せば、「あたし」には、「労働力商品」化が「ままならない」のだ。「推し=主」の「暴力=破壊」は、「あたし」に不合理な「債権債務関係」の解消と、合理的な「労働力商品」化とを促す。急いで付け加えるが、もちろん「推し=主」自身が「働け」と言うわけではない。だが、ラストで、あのマンションで「あたし」が「一人の人間の現在=労働力商品」化に直面(想起?)してしまった以上、結局「あたし」にはそのように帰結したのである。だが、「労働力商品」化が不可能な「あたし」は、いったいこの後どうすればよいのか。例えば、コジェーヴ―バタイユなら、「労働」を拒否せよと言うだろう。
コジェーヴのかつての学生であるバタイユは、主人と奴隷のそもそもの対比という観点から思考している。コジェーヴは、もし承認を得るための戦いに敗れ、勝者のために働くことよりも死ぬことを望むのならば、主人であり続けるだろうと論じた。栄誉ある死は勝利と同じように人間を主人にする。バタイユにとって、承認のための戦いにおける勝利は、旧体制(アンシャン・レジーム)の崩壊と社会の民主化の後では不可能となった。しかし栄誉ある自己破壊という選択肢は残っている。労働を拒否することは、弱さ、病気、強さと規律の欠如の印とみなされうる。この場合労働者は、労働者の仕事の能力を回復させ、彼らを福祉制度のケアのもとに置こうとする社会をコントロールするシステムの中に留まっている。しかし人は労働の工程によっては吸収され得ない、生命力とエネルギーの過剰を持っているがゆえに、労働を拒否することができる。このエネルギー過剰は、決まりきった労働とケアのシステムに対する反抗へと人間を向かわせる。(ボリス・グロイス『ケアの哲学』)
「バタイユにとって、承認のための戦いにおける勝利は、旧体制(アンシャン・レジーム)の崩壊と社会の民主化の後では不可能となった」。ヘーゲル―コジェーヴ的な「死を賭した自己意識」による「革命」の不可能性である。「しかし栄誉ある自己破壊という選択肢は残っている」。このとき、「労働=ケア」に対する「反抗」として、「労働」の「拒否」が視界に浮上してくる。このとき、バタイユの「至高性」に矛盾するジレンマが生じる。
バタイユの至高性の概念もまた矛盾している。一方ではコジェーヴに従って新しい至高性、つまり労働の至高性を確立することを共産主義に期待している。〔・・・〕ここではスターリンは再びこの新しい種類の至高性にとっての規範となっている。なぜならば、彼は共産主義の理念に奉仕する名目で、快楽、余暇、個人的な欲望を満足させることを自分自身に許さないからである。共産主義の至高性は、機械になること、人間の性質の動物としての部分を拒絶することを決意した人間の至高性である。
しかしバタイユは共産主義の至高性を「否定的な至高性」と呼ぶ。彼は明らかに真逆のもの、つまり至高性を獲得する肯定的な選択肢、つまり労働を拒絶することを好む。人間が労働を拒絶するとき、彼は機械であることをやめ、動物、獣になる。至高性は動物性に等しい。「至高な人間は動物と同じような様態で生き、そして死ぬ。が、むろんのこと、それでもやはり人間なのである」。それは古い封建制の至高性であるが、完全に非キリスト教化されている。実際のブルジョア以前のキリスト教の世界では王でさえ神の奴隷であった。しかしバタイユは、頭のない人間、匿名の「名前のない」生命の超能力を表わす、(一九三六年から三九年にバタイユが編集した有名な雑誌のタイトルに使用された)アセファルとして封建君主をイメージしている。
「共産主義の至高性は、機械になること」「動物としての部分を拒絶することを決意した人間の至高性である」。もちろん、コジェーヴの「生徒」としての「留保なき」ヘーゲリアンであるバタイユは、この「共産主義」的な「至高性」を完全に否定しているとは言いがたい。だが、一方でバタイユの経済学は、同時にモース『贈与論』の影響がベースにある。その方向の「至高性」は、共産主義とは「真逆」の、むしろ「労働」の「機械」たることを「拒絶」し、「動物、獣になる」ことだ。それは、ブルジョア的な「快楽、余暇、個人的な欲望」を「拒絶」し、「労働=機械」に「至高」的になり切って、「主」に捧げる「労働」を乗り越えようとするものの、それによって結局は「再生産」されてしまう「労働」による「社会」全体を「拒絶」することだ。「労働」をベースに「社会」(ゲマインヴェーゼン)が「再生産」されてしまうなら、たとえその「労働」が全面的に「機械」によるものになろうと、どこかに「神=キリスト=主」は残存し、「労働」を担う者は、人間であるかどうかを問わず「奴」を免れない。一方、「動物、獣になる」者は、「労働」を拒否することで、「主―奴」関係を拒否する者である。
資本主義は、「債権債務関係」(主―奴)に基づく「不合理」な「労働」を、「労働力商品」の「交換」で置き換えることで、「合理」性を装う。「労働(力商品)」自体に、「債権債務関係」の「不合理」(無理)が内在しているのだ。確かに、現代の金融化された資本主義は、「債権債務関係が皆無とは言えないまでも、きわめて希薄化した世界であり、市場(交換)の論理が支配する「間」に近似した世界である」(沖)。だが、どんなに「労働」が、それこそ「機械=AI」化されたとて、「労働」自体が揚棄されないかぎりは、必ず「主」は形を変えて残存するだろう(AIを支配する「主」)。
バタイユの「頭のない人間=アセファル」は、モースをベースにしている以上、「古い封建制の至高性」や「封建領主」の「イメージ」を免れない。だが、「頭のない=主のいない」「動物、獣になる」至高性に向けて、決して思考を停止させまいという意図は感受できる。
「推し=頭」を失った「あたし」が、「推し」の暴力と連動する「自己破壊」の擬態のあと、「二足歩行は向いてなかったみたいだし」と「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う」という至る作品のラストに、このバタイユ的な「至高性」を読み取るのは牽強付会だろうか(したがって、『推し、燃ゆ』という作品は、「労働」の拒絶という文脈で、「だめ連」やアウトノミア運動に接続されるポテンシャル(あくまでポテンシャルだとしても)を持っているとさえいえる?)。少なくとも、ここで『推し、燃ゆ』の「燃ゆ」とは、単にネット上での「炎上」騒ぎにはとどまらないといえよう。そこに「推し=主」を、そして「主―奴」という「自己意識」の構造自体を供犠の炎とともに「燃」やして葬り去ろうとする、「革命=転向」小説の意志を読み取るべきだろう。そのとき、「推しが燃えている」とは、「推し」を再生産する構造自体が「燃えている」という謂となろう。
ここに、この作品を「転向」小説として読んできた時に露わになる「推し=主」と「あたし=奴」との関係を把握するうえで要請された、もう一段上位の審級が視界に浮上する。そして、それによって、「死を賭する自己意識」による「革命」からの、「革命」概念の転換をはかろうとする、「その先」の「長い長い道のり」(『推し、燃ゆ』ラスト)の端緒が書きつけられているとしたら。
だとしたら、むしろ本当に『推し、燃ゆ』が、三島の「英霊の聲」を下敷きにしていると、あえて真に受けてみてはどうか。すなわち、天皇が自ら「人になる」と言い、今作の「推し」のように洗濯物を干したりして(むろん、自ら干しているかどうかが問題ではない)、「人間」としての日常「生活」を営んでいることを知っているにもかかわらず、それでもなお、「主」として「推し」(あげようとし)ている「国民=すべての人間」に向けられた「暴力」と、「あのときの睨みつけるような眼」を、ラストに感受してみるのである。このとき、「二足歩行」が「向いてな」いことは、むしろバタイユの「栄誉ある自己破壊」ではないだろうか。
(中島一夫)