握り飯をむりやり食わせる――アンチ・オイディプスはまだ早い その5

 一方、「楯の会」を「ごっこ=戦後」の枠組で捉えた江藤淳は、三島の意図を全く理解しなかったといえる。

 

したがって今日いわゆる「自主防衛」とは、正確には「自主防衛ごっこ」あるいはmake-believeの世界における「自主防衛」だといわざるを得ない。そうだとすれば、このような位置におかれている自衛隊を国民に近づけるという理由で、「楯の会」なるものを組織して軍事教練を受けている人々は、いわば「ごっこ」のなかでさらに「ごっこ」に憂身をやつしているようなものである。ここでは現実の世界から二重の転位がおこなわれているために、現実感は二重に稀薄になり、禁忌は二重に緩和されて、当然「ごっこ」の面白さは絶妙の域に近づく。しかしこの自由さ、身軽さのなかで経験されるものは、いわば真の経験から二目盛だけずらされた経験である。その点でこれは現代小説を読む経験によく似ているかも知れない。現代日本の社会が「ごっこ」の世界のモザイクで成立している以上、そのなかでの経験の小説的表現は、大部分仮構の上に仮構を重ねたようなものとならざるを得ないからである。ここでも真の経験を求めておこなわれる行為が、いつの間にかもうひとつの「ごっこ」に変質されるという背理を認めないわけにはいかない。(江藤淳「「ごっこ」の世界が終ったとき」一九七〇年)

 

 江藤が言うように、現代日本の社会は「ごっこ」の世界であり、現代小説は「仮構の上に仮構を重ねたようなものとならざるを得ない」。だが、そのことを、三島はいやというほど知っており、まさに「ごっこ」の世界を粉砕し「真の経験」に到達するために、「楯の会」という演劇実践の訓練に踏み出したのだ。江藤はそれを捉え損なっている。江藤にとっては、たとえそれは演劇であったとしても、「芝居=ごっこ」でしかなかった。江藤は、基本的に「楯の会」を「おもちゃの兵隊」としか見なかった。三島が、エウリピデスの『メーデア』をベースにした「獅子」(一九五八年)以来、ずっとギリシア悲劇に魅かれ続け、「楯の会」の実践がその一帰結であることに、江藤は全く無理解であった。

 

 三島が見ていたのは、ギリシア悲劇の内容ではなく「大義」であった。

 

ぼくはラシーヌからだんだんコルネイユが好きになり、エウリピデスからだんだんソポクレスやアイスキュロスが好きになりという段階でしょうね。惚れたのはれたのという筋のほかにもうひとつ何かがほしい。そうするとどうしてもコルネイユ、ソポクレスが好きになる。そこにはもう一つの何か、一種の「大義」があるから。(中村光夫との対談『人間と文学』一九六八年)

 

 それは、天皇に対する「忠義」が、本来ヒューマニズムを超えるものだということ、「一人の人間が自分のまことを発揮するためにはまわりの人間を滅しちゃう」という次元を露呈させるための実践だった。三島は、「楯の会」は「百人が群なんじゃないんだ、一人一人なんだということをしきりにいうんです」(堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」一九七〇年)と言い続けた。三島の「劇場」とは、「一人一人」を「自分のまことを発揮する」人間に変革する場であり、だからこそ、そのための「稽古=訓練」が重視された。

 

 三島が『近代能楽集』や『鹿鳴館』の上演など、演劇や戯曲に関わっていくのは、一九五六年、スターリン批判の年である。期せずして、政治的、歴史的な意味において、アンダーグラウンド演劇の先駆的存在(イデオローグ?)となったといえる。その後、福田恒存との分裂騒動があり、十七名で文学座を脱退(一九六三年)し「トスカ」を上演するが、その頃から「シアトリカル(劇場的)」な演劇という理念を前面に出し始める。もちろん、これはスターリン批判を受けた新劇のスタニラフスキー・システムの(社会主義)リアリズムに対抗する方法論であったことは言うまでもないが、後の三島がことのほか「アンチ・テアトル」に批判的だったことを考え合わせると、まずもって「劇場」的=シアトリカルであることが三島の演劇にとっては重要だったということだろう。それが先の「シアトリカルな天皇」にもつながっていく。

 

 三島との対談における中村光夫の発言から引いておこう。

 

大正時代の作品というのは、文士がいろいろ戯曲を書いたでしょう。菊池寛とか山本有三は別だけれども、あと正宗白鳥とか豊島与志雄とか、ああいうのをいまでも喜んでやっている劇団もあるが、あれはやっぱりアンチ・テアトルです。劇場を無視することが文学的だと思った。それは一理あるけれど、それだけでやっていたからああいうことになった。ああいう人たちに比べれば、イオネスコとかベケットとかいうのはよほど色気があるよ。日本の場合には舞台にならないのをアンチ・テアトルだと思った。バカ正直です。(『対談・人間と文学』一九六八年)

 

 まさに、「劇場=法措定的暴力」を「無視した」、大逆事件以降=「大正時代」に対する批判としての「シアトリカル」であり「アンチ・テアトル」批判だったということだ。三島は「アンチ・テアトル」が日本に入ってきて、それが日本の伝統を払拭するための「政治」になっているという。

 

三島 どうも日本におけるヨーロッパの輸入はそういう点で広い意味の政治的なような気がしてしようがない。チェーホフを何度もやっているうちに何を発見するか。チェーホフから発見するのは「……」です。セリフのあいだの間(ま)です。そうすると、やっぱりアンチ・テアトルを政治的に輸入しながら日本人は伝統的なテアトルの技術を消化していて、しかも自分は無意識なんですね。あれは新劇の場合にじつに愚かな形で出ているが、文学の場合でもまったく同じだ。自然主義の入れ方もそうだし、実存主義もそうかもしれない。何でもそうだ。

中村 それはそうだ。だけど、それじゃどうしたらいいかということになるわね。

三島 古典へかえれ。

中村 そのとおりだよ。(前掲対談)

 

 三島の「古典へかえれ」が、小林秀雄のいう「ほんとうの伝統」などとは百八十度正反対の意味であることは、もはや言うまでもないだろう。いわば三島は、「劇場へかえれ」、神話批判の古典=ギリシア悲劇にかえれと言ったのだ。劇場を無視し、「テアトル」もきちんと通過していないのに、表面的に「アンチ・テアトル」と言っても始まるまい。オイディプスも通過していないのに、アンチ・オイディプスとばかり言っていても仕方がないように。

 

 「その3」で見たように、三島の「天皇」は、ヘーゲルの「君主」同様、あらゆる「言論の自由」に対して「みやびじゃ」と言ってすべてを許容する天皇だった。三島は、二・二六事件ヒューマニズムを超える「まこと=忠義」(それはテロリズムにすらなり得る)を理解できず、「みやびじゃ」と言って、それを受容できなかった天皇に失望していた。「まこと」の「忠義」は相手の気持ちなど忖度しない。だから、それはヒューマニズムを易々と超える「暴力」になる。

 

 それはベンヤミンが言った、あのギリシア悲劇における「異教的人間」が「自分は自分の神々より善いのだ」と、あるいは三島流に言い換えれば「自分は天皇よりまことなのだ」と自覚する瞬間でもあろう。二・二六事件青年将校たちは、「自分たちは天皇より善い=まことなのだ」と考えたといえる。この瞬間、「この認識は、みずから(の内実)を(言語的に)明らかにすることなく、密かに己れの力(暴力、ゲヴァルト)を集めようとする」(「運命と性格」一九一九年)のである。それは、「言語的に明らかに」できることではないからだ。王の「法措定的暴力」に匹敵する、ヒューマニズムを超える「まこと」の「暴力」である。そして、その「暴力」をも「みやびじゃ」と肯定し受容する姿に、王の「悲劇」があるのだ。

 

三島 でも、忠義は相手の気持ちをわかる必要はないよ。臣下として、相手の気持ちを予測したというのは、既に不忠だよ。握り飯の熱いのを握って、天皇陛下にむりやり差上げるのが、忠義だと思うんだ。

福田 召上がらなかったらどうする。

三島 お解りでしょう(笑)、でも、僕は、君主というものの悲劇はそれだと思う。覚悟しない君主というのは君主じゃないと思う。前にも、皇太子の結婚式のときに、石を投げたやつがいる。あのときの皇太子の顔というのをテレビで見たわけだ。つまり王侯が人間的表現を見せるのは、恐怖の瞬間だけで、王侯というものの持っている悲劇を見たね。だけど、しかたのないことでしょう。(福田恒存三島由紀夫「文武両道と死の哲学」一九六七年)

 

 握り飯を「むりやり」食わせる「暴力」、それを君主が「しかたのないこと=みやび」と言って受け入れていく「悲劇」。三島の創設したかった「テアトル」は、このような「暴力」と「悲劇」を上演する「劇場」だった。

 

福田 吐き出しちゃ、天皇になれないよ(笑)。だけど、ある意味で、ある思想のリーダーになったり、政治運動のリーダーになったりしたら、握り飯を食わなきゃだめですよ。

 

 いざ、その時に至って、三島を超えて最も過激にことの遂行に及ぼうとしたのは、「楯の会」の森田必勝だったとも言われる。(もしそうだったとして)この瞬間、三島は、森田に「むりやり」握り飯を食わされたといえる。そして、人間の覚悟は、「最後の五秒か十秒の間に勝負が決まる」と言って、それを「仕方なく」吐き出さずに飲み込み、「悲劇」を演じきったのだろう。

 

 繰り返せば、フロランス・デュポンが述べたように、ギリシア悲劇の内容やテクストに政治性があるわけではない。ギリシア悲劇の政治性は、それが共同体=ポリスを創設すること自体にあるのだ。三島が自らの「悲劇」で示そうとしたのも、内容ではなかった。それは内容として見たら、目も当てられない「喜劇」であったろう。だが、このとき三島は、小説による「想像の共同体」(アンダーソン)とは別なる政治を、別なる「共同体=ポリス」を、演劇実践によって創設しようとしたのではなかったか。

 

 それは、小説による「内面=想像」の共同体の枠内に収まるヒューマニズムを「暴力」的に超え得る、「まこと=大義」の共同体だった(小説による「想像の共同体」と、演劇による「共同体=ポリス」とがいかに異質であるか、文学専攻の学生同士の共同性と演劇専攻のそれとの違いとして、体感的に瞭然としている)。三島が羨望した、あの末松太平『私の昭和史』に書かれてあるような、挫折した二・二六事件青年将校の同志的結合のように。小説による「想像の共同体」がナショナリズムを形成したとしたら、演劇による「共同体」は常にそこからはみ出す。前者が国家の軍隊を要請するとしたら、後者は国家に抗する「戦争機械」を形成する。ナショナリズムが「想像」させた、そのために死に得る「国家」はもはや機能不全だが(ウクライナがそうではないらしいことに驚いたが)、後者の「同志的結合」は、常にそのために死に得る「共同体」である。

 

 三島は、このような同志的結合=「戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒の飯を喰い、死の機会は等分に見舞うところの、上長と兵士の間の倫理」を、たちまち仮構化してしまう芸術にも、現実権力にも飽き飽きしていた。現実の仮構化=リアリズム自体がすでに「腐敗=ごっこ」なのだ。

 

真に死に直面している戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構えと、死を前にした人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の権力のもっとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このような、死に直面した戦闘集団に他ならない。それさえ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに自分も亦、こっそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。

 私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。(「団蔵・芸道・再軍備」一九六六年)

 

 そして天皇の「統帥大権」の本質をここに見たのである。「統帥大権の根本精神は、もっと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に直属せしめるところにあったと思われる」。誤解を恐れずに言えば、三島にとって真に重要だったのは「天皇」ですらない。別なる「共同体=同志的結合」を「法措定的暴力」的に立ち上げ得る、この「統帥大権」なのだ。それを「文化概念としての」と呼んだのである。

 

 三島の死とは、いわば演劇実践によって文学の「外」に出ることだった。「死なないですむ」芸道=文学=仮構の「外」にしか、「現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との真の対決闘争もな」いのである。「外」がクリシェで気になるというなら、上でも下でも何でもよい。重要なのは、その1から述べてきたように、文学が「現実の権力=天皇制」と「真の対決闘争」することは、歴史的にも論理的にもないということだ。文学が、法措定的暴力の主体となる可能性はないのである。それは演劇実践をもってしか、脅かすことができない。繰り返せば、憲法改正が日程にのぼったとして、憲法改正が問題なのではない。「憲法改正」は、すでに憲法制定権力=法措定的暴力の主体を、不問に付すための議論なのだ。

 

 まずもって、そのことを露呈させるのが、三島の「劇場」のねらいだった。そこは、「現実の権力=天皇制」と「仮構の権力=演劇実践」とが、法措定的暴力の主体をめぐって「真の対決闘争」を行う、ヒューマニズムを超えたシアターであった。

 

中島一夫

 

劇場を再起動する暴力――アンチ・オイディプスはまだ早い その4

 繰り返せば、ベンヤミンは、バロック悲劇の「根源」を思考するために、同時にギリシア悲劇を見る必要があった。それは、近代=バロックの演劇が「法維持的暴力」の「反復」たらざるを得ないとしても、それがどこかで(例外状況において)ギリシア悲劇の反神話的な「法措定的暴力」と踵を接しているかぎり、そこには常に両者の矛盾が露呈するということだ。ギリシア悲劇バロック悲劇、法措定的暴力/法維持的暴力、(反)神話/歴史の間の断絶が露わになるのが演劇実践の場なのである。演劇が実践されるには、それがどんなに小さくても場=共同体(ポリス)とその法を、その都度新たに「暴力」的に立ち上げなければならないからだ。「だとすれば、演劇は法維持的暴力の権限としての役割にたえず抗おうとしているということであり、その意味で、原理的にギリシア悲劇的なのであり、そして、近代悲劇は、それとまったく正反対の行動をつづけながらも、歴史を再現するというその本質から逃れようとする不可能な試みとして実践されているのではないだろうか。」(鴻英良「バロックの演劇の近代性」二〇〇四年『舞台芸術』06)

 

 「その1」で見たように、西欧は、ギリシア悲劇的なものの存在を欠いては存在しない。「西欧世界は、ポリス的な共同体の確立、維持をもくろむとき、ギリシャ悲劇の構造を量産しつつ、ギリシャ悲劇的なものへと回帰しようとしたのである。」(鴻英良「『帝国』からの《悲劇》の誕生」二〇〇二年十二月『ユリイカ』)。

 

 これまた繰り返せば、ベンヤミンが言うように、ギリシアにおいて最初に反神話的言語精神=ゲーニウスが現れたのは、法ではなくギリシア悲劇においてであった。すなわち、ギリシアの反神話的なポリスが立ち上がるには、ギリシア悲劇の「法措定的暴力」を必要としたということだ。

 

 そもそも、古代ギリシア・ローマにおいて、演劇は決して自律した制度ではなく、したがって考察の対象にもなり得なかった。演劇の上演は、さまざまな儀礼と不可分であり、上演がなされる都市のアイデンティティの形成と切り離せないものだった。ギリシアにおいて、演劇はどのポリスにもあったわけではなく、紀元前四世紀以前においてはごく稀なことだった。演劇があるかないかということは、ギリシアのポリスの全き独立性=「自由(自主権)」を示しており、他のポリスと一線を画す手段であった(演劇を公式に禁止するポリスもあった)。例えばアテナイは、宿敵スパルタやテーバイといった寡頭政に対して、民主政の諸ポリスと同盟を結び、スペクタクルとしての悲劇はそのための装置だった。

 

ポリスの内に組み込まれた政治的制度しての演劇は、アテナイにおいては、市民としての感情を醸成する場であるという意味で、民主政のための教育的・社会的機構の一つであった。(フロランス・デュポン「ギリシア・ローマ演劇は愛国的(ナショナリスティック)であったか」横山義志訳、二〇〇四年『舞台芸術』07)

 

 例えば、ソクラテスプラトンは民主政に反対したが、したがって彼らは、演劇にも批判的だった。

 

演劇についても、その起源である神話的叙事詩についても、彼らが批判しているのが、その反教育的性格である。神々や英雄が暴力をふるい近親相姦を犯すなどというような非道徳的な物語は、子供に悪い模範を与えることになりかねない、というのである。さらに哀悼歌や落涙の悦びが中心となるようなスペクタクル自体も士気を阻喪させるという。この平等の立場で一体となる市民共同体を形成する場としての劇場による教育に対して、ソクラテスプラトンは饗宴や体育場での伝統的でエリート的な教育を対置する。ここでは(「騎士」と呼ばれる人々による)寡頭政の価値観が、少年愛と抒情詩によって伝達されるのである。そもそもテアトロクラティアとういうのも、プラトンアテナイにおける演劇と民主政との共謀に汚名を着せるために発明した用語であった。(デュポン、前掲論)

 

 西欧の民主政の導入と市民共同体の形成には、この寡頭支配者たちのエリート教育に対する演劇実践という場=メディアが不可欠だったのである。現在、これが、西洋=民主主義と中・ロの寡頭支配者による専制主義のヘゲモニー争いに変奏されつつ「反復」されていることはいうまでもない。

 

 いずれにしても、西欧世界の「根源」にはこの出来事が刻印されており、したがって西欧世界の維持には、ギリシア悲劇への「回帰」とその「反復」が要請されるのである。バロック悲劇の「法維持的暴力」は、その具体的実践である。

 

 だが、ベンヤミンが、十七世紀のバロック悲劇を重視したのは、あくまでそれが、常にその「根源」である「ギリシア悲劇=法措定的暴力」を思い出させ、それとの距離を「アレゴリー」として想起させるからだ。

 

 「根源=始原」にたちかえることなどできない。たちかえることが出来ると言ってしまえば、たちまちそれは「メシアニズム」になり、「政治の美学化」になるだろう。だからこそ、ベンヤミンは、「アレゴリー=批評」としてそれを感受しようとする精神を不可欠としたのである。バロック悲劇とその「根源」たるギリシア悲劇を複眼的に捉えようとしたベンヤミンに、むしろメシアニズムへの批判を見るべきだろう。

 

 翻って、日本の共同体における演劇はどうか。

 

なぜなら、日本においては、共同体を支えるものの文化的な基礎としてギリシャ悲劇的なものがその中心に据えられたことはないのであり、やっと明治以降になってから、そのような方向へ向けての運動が、ささやかながら、幾度か起きたときは、大逆事件に典型的に現れているように、ことごとく粉砕されてきたからである。

そうした事態をわれわれが経験しなければならないことが必然であるかのような主張を展開した文章こそ三島由紀夫の『文化防衛論』なのであるが、そこにおいて、三島は、国家を支える文化装置として天皇制を召喚してきている。神話批判という発想がつねに排除されてきた日本において、少なくとも明治以降も、「文化装置としての天皇制」が機能してきたことは疑いえないし、そのような場所に、ギリシャ悲劇的な意味での演劇、つまり、神話批判としての演劇が入り込む余地がないことは明らかである。そのことが日本の演劇における批評の排除ともかかわっていることは明らかであろう。(鴻英良「『帝国』からの《悲劇》の誕生」)

 

 明治以降の近代国家の成立過程において、日本では演劇のかわりに天皇制が「文化装置」として導入された。それゆえに、国家=ポリスの立ち上げとして、ギリシア悲劇のような演劇とそれによるナショナル・シアターを必要としなかったのである。言いかえれば、「法措定的暴力」を、天皇制が演劇から奪ったのだ。

 

 この時、法措定的暴力が一瞬露わになった。例外状況である。「その2」で見たように、バロック悲劇の王=天皇は、この例外状況を排除し「原状回復」させた。以降、この「法措定的暴力」の主体=「例外状況」における主権はアンタッチャブルになり、それに触れようとすれば「大逆罪」になった。もちろん、その禁止は「暴力」などではなく、神託に基づく正統性だったとする「神話」によって正当化されていった。鴻の言うように、「そのような場所に、ギリシャ悲劇的な意味での演劇、つまり、神話批判としての演劇が入り込む余地がないことは明らかである」。演劇実践は、非「暴力」で安全な文化になった。

 

 戦後において、天皇=君主は「象徴」化され「大逆罪」は廃止された。現実界の「神」は、まさに「象徴」界に参入したのである。もちろん、象徴界は両義的であり、そこにはつねにすでに現実界がのぞき込む「穴」が開いている。述べてきたように、そこから「例外状況」における「神」の「決断」が、「暴力=享楽」として介入してくるのである。

 

 非常時における天皇の栄誉大権(の実質)を復活させよ、と主張した「文化防衛論」(一九六八年)の三島は、もはや天皇が、「明治」期の近代国家の立ち上げの際のように、例外状況における「法措定的暴力」の主権者たり得ていないことにいらだっていたといえる。「三島の言う「文化概念としての天皇」とは、明治期において一旦浮上した神話的=「法措定的暴力」の場としてのナショナル・シアターそのものを指していたと見なしうるであろう」(絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』)。「文化概念としての天皇」が、戦前、戦後の神話的な天皇制に対するギリシア悲劇的な「神話批判」としてあったことを見る必要があろう(佐藤秀明は三島の天皇を「シアトリカルな天皇」と論じているが(『三島由紀夫 悲劇への欲動』岩波新書、二〇二〇年)、それもこの文脈で捉えるべきだろう)。そして、三島事件(一九七〇年)とは、本来天皇が、何よりも「法措定的暴力」の主権者であることを知らしめ、それを歴史的に刻印しようと一回的に行われた、演劇実践にほかならなかった。

 

 それは見せるための演劇ではない。本来の「ナショナル」シアター=ポリスを、暴力的に「再」起動させるための演劇実践であった。三島は、その一回的な演劇実践のために、「楯の会」の「劇団員」たちを(自らも含めて)ひたすら「訓練=稽古」してきたのである。

 

 「楯の会」は、一九六九年十一月三日、東京・三宅坂国立劇場の屋上で、結成一周年の観閲パレードを行った。このパレードが、皇居を目の前にした「国立」劇場の屋上で行われねばならなかったことが、三島にとっては、来るべき「出来事」が一回的で「ナショナル」な演劇実践だったことを証していよう(当初の三島の計画は「皇居突入」だったとも言われている。実際、国立劇場の奈落を「楯の会」の秘密のアジトとして用意していた)。「楯の会」の訓練を「稽古」と称していたことも、それのもつ意味を示している。その軍事訓練は、死を賭した最終的=一回的な行動=演劇実践のための世阿弥のいう「稽古」(世阿弥「稽古は強かれ」)だったのだ。

 

 「天井桟敷」を主宰した寺山修司は、さすがに「楯の会」のパレードが演劇実践であることを見抜いていた。

 

寺山 ところで、ぼくは「楯の会」のパレードを国立劇場の上でやられたのを見て、三島さんの芝居の作り方が変わってきたなという印象を受けたんだけど。

三島 ずいぶん話が飛ぶね。あれは簡単なことだ。皇居が前にあるからですよ。

寺山 皇居の前はいっぱい土地があるし、地上でもいいわけですからね。わざわざ地に足をつけないようになさっていた。

三島 でも、皇居前広場でやるわけにいかないよ。

寺山 それに武器を持っていない兵隊っていうのは魅力ないと思いますね。

三島 ほんとだね、ぼくもそう思うよ。

寺山 兵隊には言葉が武器だなんて言っちゃダメで、ナタかマサカリに匹敵するようなピカッと光るものが必要なんで……。

三島 警察によく言っといてください。(笑)

寺山 三島さん自身は積極的には不満に思っていらっしゃらないんですか、フォルムとして。

三島 うん、非常に微妙な質問で、政治的言語を使うほかはないね。

寺山 むしろ文学的用語で、絶対必要だとおっしゃったわけでしょ?(笑)〝べき〟である、と。

三島 そうはいかないよ。(「抵抗論」一九七〇年。寺山修司対談選『思想への望郷』所収)

 

 挑発的でスリリングなやり取りである。とりわけ、寺山の挑発に三島が「でも、皇居前広場でやるわけにいかないよ」と応じているのが印象的だ。いわゆる「血のメーデー事件」(一九五二年)以降、皇居前広場におけるデモや集会は封じられていたが、そのなかで深沢七郎は例の「風流夢譚」(一九六〇年)というフィクションにおいて、その皇居前広場で「王殺し」を行った。むろん、三島の発言はそれをふまえている。

 

 寺山は、「楯の会」のパレードに、三島の「芝居の作り方が変わってきた」と、つまりそれが「演劇」にほかならないことを見てとっていた。「わざわざ」皇居前広場の「地に足をつけないようになさっていた」という言葉や、「武器を持っていない兵隊っていうのは魅力ない」という言葉とともに、同様な文脈で解するべきだろう。すなわち、三島の「芝居の作り方が変わ」り、それが「演劇」実践としてなされている以上、それらは法措定的な「暴力」である「べき」であり、あるいは法措定的「暴力」と抵触する実践としてある「べき」だということである。「芝居は飽きた」という三島に対して、『椿説弓張月』の「腹切る場面は、とてもそんな感じはしなかった」と応じた寺山は、「楯の会」のパレードを、わざわざその『椿説弓張月』をやった国立劇場の上で行った三島に、何か切迫したものを感じていたのではないか。対談では「そうはいかないよ」とにべもなく否定した三島は、だがこの後まさに「べき=ゾルレン」の「暴力」へと進み出ることになる。

 

(続く)

 

ベンヤミンのシュミット批判――アンチ・オイディプスはまだ早い その3

 シュミットが、近代の「政治」とはまさに「政治神学」であり、世俗化された「神学」だと言ったのもそうした意味においてである。「例外状況」とは、神学おける「奇蹟」に相当するわけだ。したがって、ここでは不可避的に神(話)との再結託が起こるのである。バロック悲劇に両義性が宿るゆえんだ。重要な論点なので、長くなるが引用しよう。

 

同様の仕方、もっと広範でさえある仕方で、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』は、道徳性に関わるポスト・ギリシア悲劇的な用語に基づくはずのバロック悲劇が地下において悲劇と神話の結託を再生産している、と論じている。歴史を場面の中心に押しやり、神の権威ではなくリアルポリティックスに焦点を置くことによって、バロック悲劇は政治的支配の諸形態と取り組む。けれども、最終的に示されるのは、それらを断固として受け入れることをためらうバロックの姿である。

 確かに、バロック悲劇が描く政治的支配者たちは、超越的な価値を奪われた世界のただなかで、政治的主権の前例のないモデル、純粋な政治の諸概念に同意する。それらの概念は、支配のメカニズムから宗教的、道徳的、美的な関心を取り除き、したがって、政治という自律的な領域の分化をはっきりと是認する。バロック悲劇が表現しているのは、人間の相互行為からなる非形而上学的な場としての政治的なるものの出現である。そこでは、指導者と臣下たちが、社会的な目標、制度、法的な規範をめぐって交渉し、競合する野心をぶつけ合う。

 しかしながら、皮肉なことに、バロック悲劇が道徳的なものと政治的なものの分離を含むそのような国家の新しい諸概念を育むのは、道徳的反省を自然史の局面に、それゆえ神話の局面に移し替えることを代償としてのみである。自らの超越論的な故郷喪失、メランコリックな絶望に直面して、バロックの主権者たちは権力の世俗的な論理につまずき、今度は自分たちの危うい権威を、道徳性の再自然化されたモデル、すなわち美的・宗教的な領域において基礎づけようとする。ベンヤミンの捉えるバロック悲劇の作者たちは、あらゆる政治的なものを外化し、絶対君主制の基礎を確かにするためには何であれ舞台に登場させた。その一方で彼らは、政治的権威の衰退を阻止するために、法と秩序を身体に書き込み、道徳的な自律性と個人的な行為能力を消し去るのである。(ルッツ・P・ケプニック「スペクタクル、バロック悲劇、決断のポリティクス――ベンヤミンによるバロックとワイマールの重ね読み」細見和之訳、二〇〇四年『舞台芸術』06)

 

 ギリシア悲劇の英雄が、超越的に機能している神話の批判を敢行した(だが破壊しきれずに死んでいった)のに対して、バロックの君主は、すでに「超越的な価値を奪われた世界」で、したがって「神の権威」に頼れずに自律的な「政治」の領域=「リアルポリティックス」によって、政治=統治を行わねばならない。だが、そこは何の「形而上学的保証」もない世界であり、したがって「超越論的な故郷喪失、メランコリックな欲望」に覆われるほかはない。

 

 そして、「今度は自分たちの危うい権威を」「美的・宗教的な領域において基礎づけようとする」のである。宗教を密輸入した芸術諸ジャンルが、自らの統治を「美的・宗教的な領域において基礎づけようとする」バロックの君主に必要なゆえんだ。

 

 以前述べたように、日本近代文学はその典型だろう。日本近代文学の「故郷喪失」や「メランコリック」は、もともとこのバロックの君主=天皇の「表象」であり模造である。日本近代文学は、それを「内面」の「描写」と呼び、また「リアリズム」と称し、まさに君主=天皇の権威を背景にその正統性を誇ってきたわけだ。日本近代文学は、その存在自体が天皇制の「表現=代理」なのである。「故郷を失った文学」という「故郷喪失」の「メランコリー」が、人民の欲望(絶望)ではなく、あくまでそれを簒奪した天皇バロックの君主の欲望(絶望)である、欲望は(大文字の)他者の欲望なのだということを、何度でも銘記しなければならない。

 

 この自らの「政治的権威の衰退を阻止するために」、「例外状況」における「決定=独裁」をもってするのは、反動的な神の権威への後退にすぎないように見える。ここでベンヤミンが、シュミットに誘引されながらも、一方で批判を忘れていないことが重要となろう。そこに、第一次大戦後に基づくシュミットの政治理論を、あえて十七世紀のバロックに投影しようとしたベンヤミンの意図もあるはずなのだ。

 

 なるほど、確かにベンヤミンはシュミットに拠りながら、バロック悲劇の王の権力が、絶対君主制とその無際限な独裁であると論じている。だが、先のケプニックも注目するように、ベンヤミンは他方で、シュミット的な決断主義の「貧弱さ」と、政治の純粋な自律性が、「元来それが解き放った諸力によって、食いつぶされることによって崩壊する」さまを論じてもいるのだ。すなわち、バロック悲劇は、その「政治的権威を再興するために良かれ悪しかれ美的ないしカリスマ的権力に訴える」ほかない、と。

 

 要は、シュミットの政治理論が、反美学、反ロマン主義(『政治的ロマン主義』!)を掲げながら、その実、そのテクストは「美学的下部構造」とでもいうものに支配されている、と。カール・レーヴィットが、シュミットの政治理論を「機会原因論的決定主義」と呼んだのと同様に(頻繁に引かれるレーヴィットの一節—―ハイデガーの受講者が言った冗談「おれは決心したぞ、なにをかはわからんが」という「決断主義」——というやつだ)。

 

 ケプニックは、そのシュミットの美学を、「シュミットの政治カテゴリーが一九二〇年代の芸術的アヴァンギャルドの新たな美的感覚に由来していることは、否定しようもない」ことに求め、むしろベンヤミンはシュミットのこの部分に、批判の光を当てているのだという。

 

そうだとすれば、自ら掲げた目標を達成しているどころか、シュミットの政治的決断主義は、それがそもそも政治の領域から排除しようとした種類の美的経験に依拠している、ということになる。彼の決断主義は、政治的行為の、特殊近代的な、世俗化された自律的論理を引き合いに出しながら、結局のところ、芸術を支配の要求に従属させ、政治的行為を近代の美的経験の諸原理と混合しさえするのである。ベンヤミンは彼の生涯のどの地点においても自らの反ブルジョア的破壊主義とシュミットの決断主義のあいだに明確な分割線を引いてはいないが、立ち入って検証するなら、彼の『ドイツ悲劇の根源』が明らかにしているのは、シュミットにおける美的感性と政治思想のこの隠れた連関、近代権力に関するシュミットの、美学化へと向かう動揺なのである。(ルッツ・P・ケプニック、前掲論)

 

 十七世紀のバロックの絶対的な君主たちは、「宗教戦争とその苦痛からなる百年」、「物質的廃墟」や「道徳的廃墟」に直面せざるを得なかった。したがって、その絶対的君主制は、「カオスの深淵に吞み込まれ」ないように、「権力の世俗化されたエコノミー」を産み出すことになる。もはや彼は、「神の代理人」ではなく「権力の技術者」たらざるを得ず、したがって「ユートピア的ヴィジョンではなく機能主義的な命令がバロックの政治プログラムを支配」することになる。

 

 だが、この「権力の世俗化されたエコノミー」が、きわめて脆弱で危ういものであることは想像しやすいだろう。何せ君主は、いわば「世俗化たれ、だが同時に超越的たれ」というダブルバインドに見舞われ、自己分裂を起こしているからだ。この自己矛盾を理論的に解決しようとしたのが、「決断」の理由が不在のなかで、ただ「然り」とのみ「決断」するヘーゲル『法の哲学』の君主である。絓秀実は、ただ「みやびじゃのう」とのみ言う三島由紀夫の「文化概念としての天皇」を、このヘーゲルの君主のバリエーションと捉えている(「付論 戦後―天皇制―民主主義をめぐる闘争」、『増補 革命的な、あまりに革命的な』)。

 

 三島は、おしなべて「世俗的」たることでもたらされる、全き「言論の自由」のアナーキーを、しかしいざそれを導入するためには「超越的」たらざるを得ないので、その時全ての表現を「みやび」と言って全方位に許容する「(文化)概念としての天皇」という、ヘーゲルの君主にも似た、世俗的かつ超越的な存在が必要になることが分かっていた。私見では、動機は三島と真逆だが、江藤淳の言う「共和制プラス1」の「プラス1」としての天皇などもこれに近い。江藤は、おそらくプロイセン君主制を称揚したヘーゲルにならって、戦後日本を「君主国」と見なした。

 

 それはそうと、バロックの王のメランコリーとは、いやおうなくこうした「決断主義」の自己矛盾に陥っている。彼らは、「決断」できないのに「決断」を迫られているのだ。「非常事態を宣言する決断を果たすべき諸侯たちは、どんな機会であれ、自分たちがほとんど決意能力を有していないことを示してしまう」(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)。そして、この自己矛盾という隙間に、「隠れた美学主義」や政治のための芸術(政治の芸術化)が入り込むわけである。

 

 もちろん、三島の「天皇」も、この「政治の芸術化=美学化」であり、したがってファシズムに違いない。問題は、ファシズムを悪と見なし避けようとする者が、それが近代においては同時に不可避的であることが分かっているかどうかだ。ベンヤミンは、この「政治の芸術化=ファシズム」に対して「芸術の政治化」を対置した。だが、これは単なる両者(政治/芸術)の反転ではない。何よりも「政治」と「芸術」がお互いに自律できない磁場を、自らも共有していることを示しているのだ。この磁場に対する緊張も絶望もない者が、いくら「政治」と「芸術(文学)」などと言っても、それは言葉遊びにしかならない。

 

 したがって、先のケプニックが言うように、ベンヤミンはシュミットに拠りながらも、ぎりぎりのところでシュミットに対する決定的な批判を行ったのだと考えるべきである。ベンヤミンは、バロック悲劇の君主に、シュミットの「失敗」を見たのだ。

 

ベンヤミンとともにわれわれが近代の起源に目撃するのは、美学の領域と政治的行為の領域を区別する試みが欺瞞的にしかなされていないということであり、これこそは、一九二〇年代のシュミットによる近代政治学の理論的基礎づけのうちに反響している失敗である。バロック悲劇は政治の自律化を描きだしているのだが、政治的な機能主義と戦略的理性の特異な弁証法がたどる小道を舞台化することによって、それが結局明らかにしているのは、近代が意図することなくふたたび神話に回帰し、表現を欠いたものにおける芸術の基礎づけを破壊するということ、近代が、つねに同一なるものの恐るべき再現として登場する、歴史のアレゴリー的理解に依拠している、ということである。(ルッツ・P・ケプニック、前掲論)

 

 ベンヤミンバロック悲劇論は、「近代が意図することなくふたたび神話に回帰し」、「近代が、つねに同一なるものの恐るべき再現として登場する」ことを明らかにした。すなわち、ここでは、「法措定的暴力」によって共同体の法が形成されたあと、今度はその法を「維持」するための暴力が行使され続けることで「つねに同一なるものの恐るべき再現」がもたらされているわけだ。

 

 だが、ベンヤミンが「暴力批判論」で主張したのは、これら二つの「暴力」の区別というよりは、近代においては「法」は「暴力」なのだということ以外ではない。だからこそ、この「法=暴力」の外に出るために、一切の「法=暴力」の廃絶を要請する「神的暴力」を、「法措定的暴力/法維持的暴力」(合わせて「神話的暴力」と呼ばれる)に対置させたのである。

 

 この「神的暴力」が、ベンヤミンの「メシア的転換」(浅井健二郎)=メシアニズムではないか、それはまたしてもシュミットの言う「反神学の神学」、「反独裁の独裁」という「決断主義=政治の美学化」に接近しているのではないかという疑問は措く。今は、ベンヤミンが「法=暴力」を思考するうえで、なぜ演劇の問題に向かったのかに注目しておきたいからだ。

 

(続く)

 

アンチ・オイディプスはまだ早い その2

 では、一方バロック悲劇はどうか。おそらく、ベンヤミンのいう、ギリシア悲劇バロック悲劇の違いが最も端的に現れるのが、「王」の捉え方においてであろう。

 

バロック悲劇の王は「被造物の頂点たる者」としての専制君主であり、「君主は歴史を代表する」。そしてこの「歴史」とは「神が創った歴史」、つまり被造物の生の歴史である。これに対して、ギリシア悲劇の王は、歴史以前の神話時代において神話的運命と対決する「英雄」である。(したがってどちらの「王」も、近代市民社会的な意味での主体的自我としての人間と、同列に論ずることはできない。)(浅井健二郎「W・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』の基本的立場と。その近代芸術論への転回」、二〇〇四年『舞台芸術』06)

 

 述べてきたように、ギリシア悲劇の王は、反神話の「ゲーニウス」を告げる「英雄」である。したがって、ベンヤミンは、「英雄」の死とは、死であるとともに、その時神話的な運命が打ち破られることを意味している、すなわち神々の秩序の終焉を告知する「ゲーニウスの誕生」としてある、という。これに対して、バロック悲劇の王は、「被造物の生のうちに発現する運命を打ち破ることができない」(浅井)。

 

 ギリシア悲劇の「英雄」が運命を打ち破ろうとする人物だとすれば、バロック悲劇の王は運命を発生させ、展開し、それを描き出す――。バロック悲劇においては、運命は克服されずに、したがって歴史は「反復」されざるを得ない。その意味で、「反復」とはすぐれてバロック的な主題である。ベンヤミンのいう「運命と性格」(一九一九年)でいえば、バロック悲劇には「運命」が、ギリシア悲劇には、それを克服しようとする「性格」があるといえる。両者はまったく異質なものなのだ。

 

 そして、見逃せないのは、ベンヤミンギリシア悲劇の「ゲーニウス」に対して、バロック悲劇に例の「メランコリー」を見出していることだ。

 

ギリシア悲劇は「ゲーニウスの誕生」を告げる芸術形式であるという意味で、このゲーニウスは「反神話的言語精神」と理解されよう。これに対して、「ドイツ・バロック悲劇は、それが呈示してみせる場景と人物像を……翼のある〔つまり、「天使」を含意している〕メランコリーというゲーニウスに捧げている」。「メランコリー」とは、堕罪ゆえの「悲しみ」のうちにある堕ちた言語精神としてのアレゴリー的言語精神のありようを謂うものだとすれば、ここでのゲーニウスは、ギリシア悲劇論のそれとはずれているように見える。(浅井健二郎、前掲論)

 

 ベンヤミンは、ギリシア悲劇の「ゲーニウス」が反神話的言語精神であるのに対して、「メランコリー」とは「堕罪ゆえの悲しみ」である「アレゴリー的言語精神」だという。では、「堕罪」ゆえの「悲しみ」とは何か。

 

 詳しくは、ベンヤミンにおける批評=革命の位置づけがコンパクトに整理されている、同じく浅井健二郎の「ヴァルター・ベンヤミン、あるいは批評の瞬間」(「ユリイカ」二〇〇二年十二月)などに譲りたいが、あえて単純化すれば、堕罪によって神の創造の言葉から人間の言葉が離脱してしまった、その離脱の距離がアレゴリーということになろう。もはや人間の言葉は、神が創造した事物の精神的本質を伝達することをしないという「悲しみ」の中にある。そして、逆に人間が事物に恣意的に「意味」を与えるところの言語となるのだ。言語の恣意性の発生である。

 

 ここでは、事物は、それ自身ではない何かを意味する言語として表されることになる。したがって、根本的に言語はアレゴリー的なものとしてある。このような「伝達の手段が言葉であり、伝達の対象は事柄であり、伝達の受け手は人間である」という、今日のわれわれの一般的な言語観を、ベンヤミンは「市民的言語観」(「言語一般および人間の言語について」一九一六年)と呼んだ。そして、このような「市民的言語観」においては、その本来の「アレゴリー的言語精神」としての「堕罪」の「悲しみ」が、すでに見えなくなってしまっているのである。あたかも、「悲しみ=メランコリー」など存在しないように(前のエントリーで見た小林秀雄のように、「悲しみ」をもたらす不在の対象は、すでに「失った」という形ですっかり「所有」されてしまったわけだ)。言葉が(情報)伝達の手段になり果てた現在のコミュニケーション万能社会は、その帰結だろう。そこでは、「メランコリー」は「政治」どころではない。単に、もはやそんなものは存在していないのだ(あるいは、そのように見なす「政治」というべきか)。いまや、われわれは薄く広く、みな「鬱=メランコリー」なのである。われわれの言語は、ここまで「堕」ちてしまったのだ。

 

 したがって、ベンヤミンが論じたバロック悲劇の王に、表と裏の両面を見るべきだろう。それは、ギリシア悲劇の英雄から見れば、あまりにも神話=運命に対して従順である。だが、一方でそれは、「メランコリー」という「堕罪」ゆえの「悲しみ」を「まだ」保持しており、そこではアレゴリーという言語精神が発現しているのだ(批評には、このアレゴリーが不可欠なのは言うまでもない。メランコリーを「失った」としたら、われわれはまた「批評=アレゴリー」をも失ったのだ)。

 

 そして、このバロックの王の両義性が、われわれにとってとりわけ重要なのは、それが君主権の「独裁」に関わっているからである。カール・シュミットに誘引されていくベンヤミンベンヤミンは、シュミットに『ドイツ悲劇の根源』を一冊送ったうえで、「一七世紀の主権論を表わすうえでこの本があなた(シュミット)にいかに負っているか」という書簡を添えている)という側面からも、きわめて興味深い一節だ。

 

近代の君主権概念が、最終的には、王侯のもつ至上の執行権に行きつくのに対して、バロックの君主権概念は、非常事態(Ausnahmezustand〔例外的な状態、戒厳〕)をめぐる議論から発生してきており、非常事態を排除することが王侯の最も重要な機能である、とするものである(カール・シュミット『政治神学――主権理論のための四章』一九二二年、参照)。支配する者は、戦争、反乱、あるいはその他の破局的な出来事が非常事態を惹き起こした場合、この非常事態における独裁的権力の占有者たるべく、すでに前もって定められているのだ。この措定は、反宗教改革〔期〕的である。この措定に宿る世俗的―専制的なものが、ルネサンスの豊饒な生感情から解き放たれ、完全な安定化という理想、つまり、教会および国家の原状回復(Restauration〔旧体制復活〕)という理想を、あらゆる帰結において展開させようとする。そして、こうした帰結のひとつが、右に述べた絶対的王位の要求にほかならず、そのような王位に与えられる国法上の地位こそが、武力と学問、芸術と教会がともどもに栄える国家の持続性を保証する、というのである。(『ドイツ悲劇の根源』)

 

 ここでベンヤミンは、近代の君主権概念とバロックの君主権概念を截然と分けている。両者とも絶対君主制に行きつくのだが、バロックには戦争や反乱などの「非常事態=例外状況」(シュミット)への視線があるというのだ。バロックの君主権は、「例外状況」をいかに「排除」するかが「最も重要な機能」なのだ、と。その際に「措定」されるのが、「独裁的権力の占有者」なのである。その「例外状況」における「独裁」が、「教会および国家の原状回復」をはかり、「完全な安定化という理想」を可能にする。

 

 この「国家の原状回復」は「Restauration」だから「旧体制復活」であり、したがって「明治維新=王政復古」もこの文脈で捉えられよう。すると、「明治」における「天皇制」は、バロック悲劇における専制君主に準えられる。すなわち、「例外状況」を「排除」しようとする絶対主義の「独裁」として捉えることが可能だろう。国会開設や憲法発布の詔勅(一八八一年)とは、いわば「例外状況」における「独裁」による「決断」なのだ。

 

 バロックの君主は、ギリシア悲劇の「英雄」のように、もはや自らを取り巻く「神話」と闘うことができない。バロックの王を取り巻いているのは「神話」ではなく、すでにそれが世俗化した「歴史」だからである。だが問題は、その「世俗化」とは、当たり前だが「神(話)」の全き消滅を意味しないことだ。そこには必ず、「神」が残滓として宿っている。ベンヤミンにとっては、人間世界における「法」の「正義」とは、神と人間との関係を規定していた「正しさ」をくすねた残滓にすぎない。同様に、「君主」という概念は、つねにすでに、いわば神の残滓が宿っているという意味で「半封建的」なのだ。

 

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(続く)

 

アンチ・オイディプスはまだ早い

 前のエントリーでも述べたように、国会開設と憲法発布に向けた自由民権運動の「欲望」を、天皇が上からの詔勅という形で取り上げてしまったとき、自由民権運動はあらかじめの挫折を余儀なくされた。その時、天皇は、主権者として「法措定的暴力」(ベンヤミン)を行使したわけだ。それは、「例外状況」における「主権者」にのみ許される「決断」(シュミット)であろう。

 

 もちろん、それは通常「(法措定的)暴力」ではなく、「(憲法制定)権力」と見なされる。以降、文学や演劇、美術などの芸術諸ジャンルは、この天皇による「法措定的暴力」=上からのナショナリズムに応じた「法維持的暴力」=下からのナショナリズムとして、言い換えれば革命ならぬ「改良」運動(小説改良、演劇改良)に力を注いできた。ベネディクト・アンダーソンを待つまでもなく、ナショナリズムの下からの浸透には、各種メディアが必要だからである。

 

 前のエントリーでも見たように、文学は法措定的暴力=憲法制定権力を所有したことがない。それを「故郷」として「失った」としてメランコリックに「欲望」するばかりだ。おそらく、天皇の「法措定的暴力」に拮抗して思考するためには、演劇の問題を考える必要がある。天皇制も演劇も、ともに「法措定的暴力」を行使し得る、よく似た何かだからだ。

 

 そのとき、真っ先に想起されるのは、ベンヤミンが見た神話を打ち破ろうとしたギリシア悲劇、なかでもギリシア悲劇にあるという「ゲーニウス=反神話的言語精神」(『ドイツ悲劇の根源』一九二八年)である。ベンヤミンは、ギリシア悲劇と近代の悲劇=ドイツ・バロック悲劇との決定的な違いを、前者の「ゲーニウス=反神話的言語精神」に求めた。

 

ゲーニウス(Genius)が罪の靄のなかからはじめて頭をもたげてきたのは、法においてではなく、ギリシア悲劇においてだったが、それというのも、ギリシア悲劇においてこそデモーニッシュな運命が打ち破られるからである。だがそれは、罪と贖罪との異教的に見究めがたい連鎖が、罪を清められ、純粋な神と宥和した人間の純粋さに取って代わられる、ということによるのではない。そうではなく、ギリシア悲劇において異教的人間が、自分は自分の神々より善いのだ、と自覚するのである。ところが、この認識は彼に対して言語を拒み、そのためにこの認識はおぼろげなままにとどまっている。この認識は、みずから〔の内実〕を〔言語的に〕明らかにすることなく、密かに己れの力〔暴力〕を集めようとする。……〈倫理的な世界秩序〉が再建される、というのではまったくないのであって、道徳的人間が、まだ沈黙したまま、まだ未成年のまま――そういう人間として彼は英雄と呼ばれる――、苦悩にみちた世界が震えているその只中に、立ち上がろうとするのである。道徳的な無言性、道徳的な未成熟性のなかでゲーニウスが誕生するという逆説こそ、ギリシア悲劇のもつ崇高さにほかならない。

 

 ギリシアにおいて、ゲーニウスが「はじめて頭をもたげてきたのは、法においてではなく、ギリシア悲劇においてであった」。これは極めて示唆的な言葉だ。ベンヤミンは、ギリシア悲劇にポリス=共同体の創設における法の措定という政治性を認めていたわけだ。ギリシアにおけるポリスとその法の措定に、ギリシア悲劇のゲーニウスが深くかかわっているということだ。もちろん、それは悲劇の登場人物らが口にする言葉においてではなく、演劇という制度そのものに内在する「暴力」であろう。鴻英良が言うように、それは「西欧」という存在そのものにかかわる。

 

つまり、ギリシャ悲劇とは、まさにギリシャにおいて法が措定されていくプロセスにおいて、その構造をあらわにしつつ登場してきた芸術の形式にほかならないということである。言ってみれば、そうした歴史のある段階を刻印するものとしてギリシャ悲劇は存在するのであり、それゆえに、それは一回性の刻印を帯びつつ、二度と書かれることのない表象の形式としてわれわれに残されることになったのである。それゆえ、西欧世界は、ポリス的な共同体の確立、維持をもくろむとき、ギリシャ悲劇の模造を量産しつつ、ギリシャ悲劇的なものへと回帰しようとしたのである。これが西欧社会においていまだ演劇に重要性が付与されていることの意味にほかならない。

 つまり、ギリシャ悲劇的なものの存在を欠いて西欧世界は存在しえないのであって、そのことが西欧世界の今日における演劇の位置をみればあきらかであろう。(「『帝国』からの《悲劇》の誕生」「ユリイカ」二〇〇二年十二月)

 

 では、なぜギリシア悲劇によって、共同体の「法措定的暴力」が「頭をもたげてきた」のか。われわれは、例えば『オイディプス王』などのギリシア悲劇を思い浮かべ、このベンヤミンの主張を訝しく思う。だが、そのときベンヤミンは、別のものを重視しているのだ。鴻は、また次のように述べる。

 

たとえば、オイディプスのように、英雄たちは、神託が実現しないように願い、そのように行動する、つまり神々に逆らうとはいえ、われわれが知らされるのは、そこにおいて、そうした反逆的な行動が挫折するという事実なのである。けれども、ベンヤミンが重視するのは、最終的にはその敗北が明らかになっていくとはいえ、実際、神託を聞いたあとでは、オイディプスは両親に会うのを避けようとし、故郷に帰ることを断念したということであり、そのように神の意思に逆らって彼が行動をはじめたという事実の方なのである。つまり、このように神々の意志が成就することを望まないということ、このような自らのあらたな願望に基づいてオイディプスが行動を開始したということが重要なのである。

 

 ベンヤミンが評価するオイディプスは、われわれがよく知っている、神(神託)に敗北するそれではない。そうではなく、注目すべきは、「神の意思に逆らって彼が行動をはじめたという事実の方」であり、オイディプスの「神話批判」の精神なのである。

 

 もちろん、われわれは、結局事態が神託通りになっていくのを知っている。その結果、先の『ドイツ悲劇の根源』に言われるように、オイディプスは「まだ沈黙したまま、まだ未成年のまま」なのであり、自分にはまだ神話秩序を破壊する力がないことを思い知るのだ、と。われわれが、いまだ天皇制という「神話秩序」を破壊する力がないとしたら、まるでそれはこのベンヤミンの見た「沈黙したまま」「未成年のまま」のオイディプスのようではないか。いまだなお、いや今こそわれわれが見つめるべきは、「アンチ」オイディプスではなく、このオイディプスなのではないか。

 

 そこでは、「〈倫理的な世界秩序〉が再建される、というのではまったくないのであって、道徳的な人間」が存在するばかりだ。ベンヤミンにおいて、「道徳的」(moralisch)という語は「人間と神の関係」を、「倫理的」(sittlich(人倫的))は「人間間の関係」を指すことは言うまでもない。ここでオイディプスは、あたかも講座派マルクス主義者よろしく、自らが「道徳的」=「半封建的」な「未成年」だと自覚している人間であるというのは牽強付会だろうか。「六八年」以降、「労農派的」転回(すが秀実)があったとして、その後消滅してしまったのは、この未成熟なオイディプスの「講座派的」思考ではないか。だが、ベンヤミンにおいてさらに重要なのは、オイディプスギリシア悲劇の「英雄」たちが、決して自らのこの姿に自足しているわけではないことである。

 

 ニーチェギリシア悲劇に、神話の破壊の「抑止」を見出したのを批判して、ベンヤミンは逆に神話批判、反神話を見出した。同様に、一般的には、「模倣」と理解されているアリストテレス詩学』の「ミメーシス」に、ベンヤミンはむしろそれに反するものを見ている。

 

そして、かのミメーシスは、伝説のなかにはっきりと示された運命秩序を雄弁に是認するものではまったくなく、むしろこの運命秩序に、しばしばまだ未成年のままの状態で、疑問を投げかけるものなのではないのか。(「カルデロンの『げに恐ろしき怪物、嫉妬』とヘッベルの『ヘロデとマリアムネ』――歴史劇の問題についての覚書」一九二三年)

 

 先の『ドイツ悲劇の根源』と同様な言葉遣いがなされているのは明らかだ。ベンヤミンからすれば、アリストテレスもまた、ギリシア悲劇に「神話破壊」を見ていた。それは「今日の読者の目には、自然主義を含むものに見えるが、本当のところは、この定義は自然主義を唱えるものではまったくない」。先の鴻も言うように、したがってそれは、「アウエルバッハが『ミメーシス』のなかで書いたようなホメロス的な描写を継続するようなものではまったくな」く、「「ヨーロッパ文学における現実描写」の特質として語られてきた自然主義的な模倣などでは決してない」のである。要は、「ミメーシス」とは、むしろ反リアリズムを提示した概念と捉えるべきということだ。それは、神話破壊、反神話なのである。

 

(続く)

 

文学は故郷を失ったことなどない その2

 日本近代文学の「内面」という制度が、実はメランコリックな「欲望」だとして、その欲望が満たされることはあり得ない。なぜなら、その欲望の対象は、はじめから「欠如」しており、本当は「喪失=メランコリー」ではないからだ。メランコリー自体が捏造されたものなのである。

 

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要するに、メランコリーがあいまいにしているのは、次の事実である。〔欲望の〕対象は最初から欠如しているということ、対象の出現はつねに対象の欠如と同時に生じるということ、そして、この対象は空無/欠如の実定化以外の何ものでもないということである。もちろん、ここでのパラドクスは、この欠如を喪失へと翻訳するまやかしによって、われわれが対象の所有を主張できるということである。かつて一度も所有したことのないものは、けっして失われることもない、だから、メランコリーの主体は、失われた対象に無条件に固執することによって、ある意味で、その喪失という状態にある失われた対象を所有するのである。」(ジジェク「メランコリーと行為」『全体主義――観念の(誤)使用について』二〇〇二年)

 

 われわれは、憲法や国会を「所有」したことがない(「制定する権力=法措定的暴力」をもたない)。それは帝国憲法だろうと戦後憲法だろうと同じことだ。それは「改正」是か非か以前に、一度も「所有」されたことがないのだ。「改正」是か非かという議論は、そもそもそれらが一度も「所有」されたことがないことの隠蔽である。日本近代文学は、「所有」したことがないものを、それは「喪失」されたのだとする「まやかし」によって、かつては「所有」していたし、今後も「所有」が可能であるかのように主張してきた。「メランコリー」は「政治」なのである。

 

 「故郷」自体が「喪失」のメランコリーによって捏造され「出現」させられたものでしかないならば、果たして日本近代文学は、本当に「故郷」を「喪失」したことなどあるのだろうか。

 

 この日本近代文学の「メランコリー」の主体は、おそらく小林秀雄「故郷を失った文学」(一九三三年)によって完成された。すがが別稿で言うように、「小林が失ったという「故郷」と呼ぶところの観念に、天皇制が暗に含まれていることは自明」であろう。大衆社会の進展とともに、われわれは「故郷」を失ったとする「故郷を失った文学」は、その意味で「大衆天皇制を予兆させるものとなっている」。「自分たちの世代において、市民社会は爛熟し後進的な封建的遺制は払拭された。それは故郷喪失という代償を払うことでもあったが、そこにおいてこそ、新たに故郷も発見されねばならない」。

 

 これは、「後進的な封建的遺制=天皇制」によって、旧秩序の解体が阻まれているという、講座派理論をふまえたうえで、そののりこえを目論んだ言説である。だが、これこそ典型的なメランコリーの主体の戦略ではないか。ジジェクがいうように、すなわち「われわれがこれまで一度も手にしたことのない、はじめから失われていた対象を所有する唯一の方法は、いまなお完全に所有している対象を、あたかもそれがすでに失われているかのように取り扱うことである」。

 

 われわれは、「故郷」を「喪失」した代償を払って、「今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪曲する事なく理解しはじめた」と小林は言う。すなわち、すでに封建的遺制は失われ、われわれは西洋文学的な「主体」となった、と。いわば、小林は、講座派的な第一段階の革命は、西洋市民社会の爛熟によってすでに成就したと言っているのである。

 

 したがって、「こういう時に、いたずらに日本精神だとか東洋精神だとか言ってみても始まりはしない」と。さらに、「どこを眺めてもそんなものは見つかりはしないであろう、また見つかるようなものならばはじめから捜す価値もないものだろう」と駄目を押す。それがすでに完全に「喪失」されており、したがってそれは(探偵として?)捜す価値=欲望もないことを、メランコリーの主体として宣言してみせたのである。「近代の超克」会議をリードした者にふさわしい、小林による「近代の超克」の宣言といってもよい。

 

 注意すべきは、これが、「故郷を失った」と言いながら、実は故郷=天皇制=日本精神(東洋精神)を「所有」するための「戦略」だということだ。すなわち、小林は、講座派が革命によってのりこえようとしていた天皇制を、それはすでに「喪失」されたとすることで、むしろ完全に「所有」してしまったのである。小林のその後の伝統回帰、歴史回帰は、したがって転向というより、その当然の帰結である。まさに、メランコリーの主体は、「対象が失われる前から、対象に対して過剰な、余分な喪の作業をおこなう」が、言い換えれば、「対象が実際に失われる前に、対象を再び殺す(それを失われたものとして扱う)のである」(ジジェク)。

 

 このとき、小林は、天皇制が革命によって廃絶される前に、いや廃絶されないよう、すでにそれは「喪失」されたとして、あらかじめ「殺し」てしまった。「探偵=批評家」は「犯人」でもあるわけだ。さらに、それは「失われた」として、自ら進んで「喪」に服したのである。小林が、明確に「反革命」たるゆえんだ。日本近代文学の起源にあった自由民権運動「という」挫折=メランコリーは、小林の時点で、それをもたらした天皇制そのものに対するメランコリーへと肥大化した。

 

 以降、天皇制は「殺」せなくなった。すでに「死んでいる」とされたからだ。日本近代文学が、小林というその「教祖」(坂口安吾からして、このあらかじめの「殺害」による革命の不可能性に加担してきたことは、文学に関わる者は肝に銘じておくべきである。

 

 すがが言うように、小林は講座派理論を横領し、それは自身の神話化に貢献したが、それにとどまらず講座派理論を無力化してしまったといえる。「故郷喪失」というメランコリーを包摂することで、講座派理論から「故郷=天皇制」を思考する契機を骨抜きにしてしまったからだ。それは、戦後の講座派の市民社会主義への転回=構造改革派から出てきた大衆天皇制(松下圭一)の先駆けだったとさえいえる。柄谷行人が、この市民社会マルクス主義、とりわけ平田清明の「影響」から出発し、「小林秀雄をこえて」(一九七九年、中上健次との対談)いくことを目指しながらも、なかなか小林を切断しきれないのも、このあたりに起因していよう。

 

 可能だろうと不可能だろうと、「故郷喪失」(ハイデガー)というパラダイムからの脱却が必要である。「故郷を失った文学」という問題構成自体を破壊し、その「戦略」を無力化すること。そうでないかぎり、われわれの「鬱」が癒えることはないだろう。

 

中島一夫

 

文学は故郷を失ったことなどない

 すが秀実の「「鬱」とナショナリズム」(「ユリイカ」二〇〇四年五月)は、確か単行本未収録だが、天皇制と民主主義とが――すなわち日本近代文学の起源において創設された「国民」(ネーション)が――矛盾なく受け取られている今日、ますます重要な批評としてある。そこには、この十年後に『天皇制の隠語』(二〇一四年)の4節「「労農派」的転回とコモンウェルス」として理論的に明確化する、柄谷行人日本近代文学の起源』(以下『起源』、一九八〇年)への批判の核心が、すでに内包されている。

 

 それは、『起源』が、いかにして天皇制を不問に付すこととなったのか、にほかならない。『起源』は、日本近代文学の起源を論じる、今やカノンともいえる一冊でありながら(あるために?)、天皇制問題をオミットしてしまった。古典文学のみならず、日本近代文学もまた天皇制の産物であるという「起源」を、ついに主題化し得なかったのである。すなわち、『起源』は起源を回避してしまったのだ、と。

 

 すがは、それについて、さりげなく次のように指摘する。

 

別段、日本に限ったことではなく、ルカーチが小説を「先験的な故郷喪失の形式」と規定したように(あるいは、ルカーチが念頭に置くヘーゲルが近代小説を「近代のブルジョア叙事詩」と定義して以来)、近代文学がおおむね「故郷喪失」によって特徴づけられるメランコリックな時空間だということは、誰もが知っている。〔…〕かかるメランコリックな「喪失」感はカント的「崇高」の概念とも呼応している。絶対的な自然(たとえば、ナイアガラ瀑布?)を前にしてもたらされる崇高の感情は、「死すべき者」のメランコリックな無力感と相補的だからである。いうまでもなく、これは「内面という制度」(柄谷行人)とも言われる事態だが、ここで、そのことをメランコリーと呼んでみるのは、それが「欲望」とかかわるからであり、内面として表象してみる時、それが捉えがたくなると思われるからである。

 

 柄谷の『起源』が、「内面」の制度性=政治性をはじめて論じた画期的な批評であることは論を俟たない。だが、それは真に「政治」性だったのか。すがが、「内面」ではなく、「メランコリー」という「欲望」でもって「起源」を捉え直そうとするのは、そのことを明るみにするためだ。

 

 柄谷『起源』は、日本近代文学が、言文一致運動あるいは制度によって成立したというパースペクティヴを決定的に導入した。以降、それに異論を唱えようと、修正を試みようと、基本的にこのパースペクティヴの枠内にある。いまや、言文一致を無視して、日本近代文学は語り得ない。

 

明治二十年代の「内面性」がそのような政治的な挫折から来ているということは明瞭である。実際、そのような視点に立った研究や批評は無数にある。そして、文学はきまって、内面性によって制度に対抗するというイメージで語られる。しかし、私がここでそのような見方をあえて避けてきたのは、その前に、内面性がある種の装置(制度)の中で可能になるということをいいたかったからである。そのような制度が不問に付されるかぎり、「政治的な挫折から内面=文学へ」というパターンが不毛にくりかえされるだけである。明治二十年代が重要なのは、憲法や議会のような制度が確立されただけでなく、制度とは見えないような制度――内面や風景――が確立されたからである。

 

 「文学はきまって、内面性によって制度に対抗するというイメージで語られる」、「政治的な挫折から内面=文学へ」。「内向の世代」どころではない。それどころか、柄谷は、この後者の「内向=内面=文学」自体の「制度」性を、はじめて明確に批判した批評家なのである。それに対して、すがが問おうとしたのは、次のことだ。だが、「政治」があらかじめ「挫折」していたとしたら?

 

誰もがそう言うように、日本の近代文学自由民権運動の「挫折」から出発した。しかし、そのことは主に北村透谷を中心とするメランコリーの系譜について言われてきたことであり、『新体詩抄』や『小説神髄』については、そう指摘されることが少なかったのではあるまいか。両者は基本的には近代化を志向する「文明開化」の文脈で捉えられてきたのである。しかし、『新体詩抄』においてすでにメランコリックな詩作品が存在し、それが後発者たちへと継承されたことが明らかなのであれば、『新体詩抄』にしてからが、すでに自由民権運動の「挫折」という文脈において捉えることが可能である。しかし、自由民権運動なるものは、その運動の結果「挫折」したのではない。自由民権運動という挫折があったのだ。それは、あらかじめ挫折した運動だったのであり、それゆえメランコリーはそのア・プリオリな性格だったと言うべきである。

 

 すがによる起源の問い直しの核心は、柄谷が二葉亭や独歩、あるいは前島密などを重視したのに対して、『新体詩抄』と『小説神髄』を「改めて」起源として提示した点にあろう。「『新体詩抄』も『小説神髄』も、起源でありながら起源であることを否認されてきた書物であるが故に、あらためて考察するに足るものなのだ。その、あからさまな「否認」において、ひそかに作動していたのが、ナショナリズムとメランコリーの通底という事態なのである」。

 

 では、いったいなぜ、自由民権運動は「あらかじめ挫折した運動だった」のか。

 

詔勅」以降にメランコリックな主体が登場する理由は、壮士の国会開設という要求が、天皇によって約束されてしまったからにほかならない。そこに「ポスト・フェストゥム」(木村敏)の意識が浸透しはじめたのである。しかも問題は、天皇が壮士の要求したものを「下賜」するという手続きが、実は、それは(国会開設と憲法発布)が天皇自身の欲望の対象でしかなかったことを証してしまうことだ。自由民権運動において、壮士たちの欲望の対象は、あらかじめ不在だったのだ。そもそも、彼らが天皇に言っていたことは、それはわれわれの欲望である以上に、あなたの欲望(の対象)ではないか(だから国会を開設せよ)、ということではなかったか。

 

 ここにおいて、すがが、日本近代文学の起源を、メランコリックな「欲望」として捉えようとした意図がにわかに鮮明になる。まさに「欲望とは他者の欲望である」(ヘーゲル)。自由民権運動の「欲望」は、もともと天皇=他者の欲望だったということだ。すると、自由民権運動とは、天皇の欲望を実現するための、ナショナリズムの運動ということになる。

 

 ここで、メランコリックな主体の代表ともいえる、夏目漱石『こころ』(=内面!)の「K」を、すがが「主体=天皇=King」と読んだことを想起してもよい(『日本近代文学の誕生』一九九五年)。「K」の「欲望」を、「先生=メランコリックな書生」は「後」から模倣し欲望していき、それをまた「学生」の「私」が反復していく。このメランコリックな主体たち(『こころ』で「私」と呼ばれる者たち)による「欲望の三角形」の反復=連続によって、ヘーゲル的な市民社会が形成されていく。『こころ』は大逆事件の衝撃を受けて書かれており、近代文学が、国家をアンタッチャブルにしておくための、緩衝地帯たる市民社会を醸成する「装置」であることを典型的に示している。もちろん、それ自体、一方で漱石が、「従軍行」や「満韓ところどころ」を書いたナショナリズム=差別と「一対」のメランコリーである。メランコリーは、ナショナリズムと別のものではなく、「メランコリー自体がナショナリズムの政治的表現」なのだ。

 

 先の引用で、柄谷は「明治二十年代が重要なのは、憲法や議会のような制度が確立されただけでなく、制度とは見えないような制度――内面や風景――が確立されたからである」と言って、「内面」の制度性を批判した。だが、「内面」は、憲法や国会の「制度」性と別のものではない。すがが主題化したのは、むしろそのことなのだ。

 

 そもそも、カール・シュミット的な意味での、例外状況における「主権者」たり得ない国民は、憲法や国会を作る(権力の)「主体」ではあり得ない。もともと、憲法や国会は、「下賜」されたものとしてしか存在し得ないわけだ。したがって、それらは「国民国家を構成する空虚な欠如」でしかない。国民とは、「内面」化したのではなく、はじめから「内面」でしかない存在なのだ。

 

そのような欠如としての対象を、再び国民主権的な立場から我有化しようとすれば、それは、かつては我がものであったはずのものが――たとえば、それが理想とは異なっているとして――「喪失」した、と表象するほかはない。それゆえ、近代文学が形成してきたメランコリックな主体は、即自的には、デモクラティックな国民的(=市民的)主体だとは言える。

 

 カルチュラル・スタディーズは、国民国家が歴史的、社会的に構成されたものだとする「社会構築主義」を展開し、この「空虚な欠如」を曖昧に埋めてしまった。それが社会的に構成されたものだというロジックは、何ら「空虚な欠如」に働きかけるものではないからだ。近代文学や言文一致は構築された「制度」であると主張した柄谷『起源』も、下手をするとその文脈に回収されかねない。それらに欠けているのは、「誰が」それを欲望しているのかという、「欲望」の「主体」への視線である。

 

(続く)