遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その8

 石原は自分にしか関心がなく、自閉的で内向的な詩を書いたのではない。石原においては、はなから他者を「表現=代弁」などできないというところから言葉が発されているのである。だから、石原は別に、自己と他者を、表現可能か不可能かで区別していなかった。「失語」とは、まずもって「自分」についてそうだったはずであり、詩とは「沈黙」するための言葉だったはずだ。「あえて」比喩的に言えば、「棒をのんだ」状態とは、そうした「失語」や「沈黙」のありようそのものだったろう。

 

 したがって、石原は、詩において、自閉的に自己を「表現」したわけではない。それらが自閉的で内向的と思われたとしたら、それはあまりに「隠喩」や「表現」や「モノローグ」や「同一化」に慣れ親しんできた者が、その同じ目で石原詩の言葉を測定したにすぎない。石原においては、自己だろうが他者だろうが、常に「表現」への「断念」と、したがって「形式」という「輪郭」に囲われた(「表現」に対するバリケードとしての「形式」。表現「の」ではない。表現「に対する」形式である)。作品世界内部での換喩的な言葉の隣接性しかなかった(私は以前、その言葉のありようをマルクス「価値形態論」において、決して「貨幣」的なものに「隠喩」的に回収されない「第二形態」的なありようとして分析したことがある(「隣接する批評」、拙著『収容所文学論』所収)。価値形態論の「第二形態」とは、まさに諸商品が「棒をのん」で並列のまま互いに孤独に突っ立っている世界である)。

 

 一九六五年に小説「棒をのんだ話」を書いたとき、石原が一つの転換点を迎えていたことは確かだろう。それは換喩的な石原詩が、言葉の隣接性によって展開、伸長されていった時に、あり得べき肥大化と散文化の形であった。「棒をのんだ話」の石原は、したがって小柳が言ったように、「他者の中の自分」を描いたわけではない。作品世界が肥大化していくなかで、主人公の「棒をのんだ男」が隣接する者々に換喩的に置き換えられていかずにいられなかったのだ。ここでは自分と他者もまたお互いに換喩なのである。

 

 だが、ヤーコブソンを待つまでもなく、換喩はある程度隠喩であり、逆もまたそうである。「棒をのんだ話」の後、一九六九年あたりから石原は、代表的なエッセイを次々に書いていく。例の鹿野武一を書いた「ペシミストの勇気」は七〇年である。六五年の小説「棒をのんだ話」が、その詩から散文へという「過程=行方」に向かっていく呼び水となったとは言えるだろう。

 

 それこそヤーコブソンによれば、「詩は隠喩、散文は換喩というのが最小抵抗の線」なのだから(「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」)、換喩の隣接性に沿って展開されてきた石原詩は、そもそも当初から幾分かは「散文」的だったといえる。それが「棒をのんだ話」の段階で、散文=換喩の力学に屈して、詩を詩たらしめる「抵抗の線」のリミットを超えつつあったということだろう。言い換えると、不断の「危機」をはらんでいた石原詩の「定型=輪郭」が、いよいよ臨界に達しようとしていたのである。

 

 エッセイにおいて、石原が鹿野に同一化し、英雄化されていったとしたら、それは石原の言葉が、もはや換喩的な隣接性に耐えきれず、鹿野が貨幣のごとくメタレベルで石原ら「囚人」を束ねる「隠喩」として機能してしまったということだろう。肥大化する換喩=隣接性に耐えられず、散文=エッセイにおいては、逆に隠喩が還流してきたのである。隠喩=同一化の力が、石原と鹿野を「棒」のように隣接させることを許さなかったといってもよい。

 

 だが、果たしてそれは石原の言葉の「ワナ」(小柳)だったのか。それとも、読む側の「ワナ」だったのだろうか。いつしか「毛布にくるまれ荒くれ達にボールのように宙に放りあげられていた」サンチョ・パンサ(=「棒をのんだ」換喩?)は、自らが英雄化され「胴上げ騒ぎでもしかねない人気者」(=隠喩?)になっていったのである。それは、サンチョ・パンサドン・キホーテになったというよりは、それを飛び越えて近代以前の叙事詩のヒーロー(貴種)になっていってしまったかのようであった(仮にもドン・キホーテは、「散文」的なアンチ・ヒーローではあろう)。小柳は、石原の英雄化を「散文のワナ」と呼んだが、正確に言えば、先に述べたように、散文自らの「抵抗の線」(ヤーコブソン)を喪失し、真に「散文」として耐えきれなかった時に陥る「ワナ」と言うべきだろう。そうでないと、「棒をのんだ話」を(「小説」というか「散文詩」というかは別にして)、シベリアエッセイと違って「散文」ではないと強弁せねばならなくなる。小柳も評価した「棒をのんだ話」の段階では、まだ石原は「ワナ」にはまっていなかったはずである。あるいは、それは「散文のワナ」というより、「表現」の「ワナ」と言うべきものだった。石原は、「詩」と「散文」の明確な区別を、その形態ではなく、「沈黙」か「表現」かという方法の相違においていたはずだからだ。

 

「いわなければよかった」ということが、たぶん詩の出発ではないのか。いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である。散文に後悔はない。(「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」)

 

 石原にとって、詩は潜在的に「定型詩」だと言った。むろん伝統的な意味ではない。それは、「輪郭」で区切られた作品世界の中で、言葉が換喩的な隣接性によって展開されるという「定型」の場である。石原においては、この「輪郭」は「自由」を許されない束縛的な「定型=形式」としてあるのだ。それは「輪郭=形式」の外部の現実については「表現」し得ないとして「沈黙」する。「見たものは/見たといえ」(「事実」)と「断言」するのみで、にもかかわらず、「見たもの」を描写し記述することは「断念」されるのである。

 

 だが、それは「断念」(発語しない)を「断言」(発語する)という、アプリオリにパラドキシカルなスタンスだった。小柳が言うように、石原がその「無理な姿勢をとり続け、まるで古武士か苦行僧のような言動をくり返し、崩れていった」ゆえんである。「詩がおれを書きすてる日が/かならずある/おぼえておけ」(「詩が」)。おれが詩を、ではない。詩がおれを書きすてる、のだ。

 

 石原は「いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である」と言い、一九六九年あたりから、堰を切ったようにシベリア体験をエッセイとして発表し書き始める。そのような意味において、石原においては、シベリア体験、収容所体験が「出てきちゃった」ことが「雪崩のような崩壊過程」を招いたという以下の吉本隆明の見立ては正しい。だが果たして、吉本の言うように、それは「虚偽」であり「余計」だったのか。

 

吉本 そうか、それではぼくはこう理解すればよいわけだ。ぼくの見方からね、つまり石原さんはひっそりと紛れて生きたかったんだけれども詩を書いているうちか、あるいは生活しているうちに収容所体験が出てきちゃった。でてきちゃったあとからの石原さんは要するに余計というか余生なんだ。つまりそこは虚偽なんだというふうにぼくは理解すればいいわけですね。つまりやむをえざる虚偽なんだと。〔…〕立原道造とか、中原中也でもいいですけど、そういう詩を書いて、それでひっそりと生きていたらよかった。ところがあるところから詩を書いているうちに何かしらんけどとにかく言葉のなかに収容所体験か何かがでてきちゃった。詩もでてきちゃってそれ以後は雪崩のような崩壊過程であって、一種の虚偽の過程に乗ったから、それは崩壊なんだというふうに理解すればいいんですね。(鮎川信夫との対談「石原吉郎の死」)

 

 「立原道造とか、中原中也でもいいですけど、そういう詩を書いて」の「そういう詩」とは、ここでは「四季」派のような詩というほどの意味だろう(むろん、立原と中原とではまた全然違うとしても)。だが、見てきたように、石原においては最初から「換喩」によって詩が構成されており、その意味において、アプリオリに散文化を余儀なくされていたのである。そもそも、石原において「収容所体験」が「虚偽」であり「余計=余生」だったとは口が裂けても言えないだろう。以前論じたので繰り返さないが、吉本は石原が個人に対する国家や社会といった共同的なものを思考していないと批判したが、むしろ思考したからこそ「表現」を「断念」し、「棒」が換喩的に隣接する世界を描いたのだ。「詩は表現ではない」(入澤)が「現代詩」の一つの達成でありテーゼであるとしたら、ラーゲリはその「原点」に位置している(もはやどうでもいいが、ちなみに「収容所文学」論とはそういう意味においてである)。その後の石原の「過程=行方」を、間違っても「収容所体験」という大文字の戦争=戦後史を背負うはめになって、「だんだん詩人として認められるし、いろんな賞をもらうし、そのうちに自分自身が日本の美しい風景になりたくなっちゃっ」(鮎川)て、サンチョ・パンサドン・キホーテになり崩壊していったという、見やすい「物語」にしてはならない。

 

(続く)