遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その3

石原吉郎は己をサンチョ・パンサである、と思う意識が強かった。強大な敵に向かってガムシャラにつっこんでいく日本というドン・キホーテは、多くのサンチョに「わしに従いてくれば、やがて島を一つ与え、そこの王様にしてやる」といったわけなのだ。揚句、木賃宿で無銭宿泊をした騎士のかわりに、サンチョは毛布にくるまれ宿の荒くれ達にボールのように宙に放りあげられる。泣いても叫んでもドン・キホーテは塀のうしろをうろつくばかりで助けには出てこない。『ドン・キホーテ』の、このくだりを私が好きなのは、一つにはこの映像がそこはかとなく石原吉郎に重なっていくためである。

 己について厳しく、サンチョである、という哀しい自覚があった石原吉郎ですら、賛辞と喝采のワナからは逃れられなかった。彼は大勢の若い信奉者たちの前で、無理な姿勢をとり続け、まるで古武士か苦行僧のような言動をくり返し、崩れていった。(小柳玲子『サンチョ・パンサの行方』)

 

 「強大な敵に向かってガムシャラにつっこんでいく」日本=ドン・キホーテのツケを払わされるようにシベリアに抑留され、強制労働をさせられたサンチョ・パンサ。だが、小柳は、石原が「サンチョ・パンサ」として「帰郷」したにもかかわらず、あたかも「ドン・キホーテ」のようになっていく過程=行方を見ている思いだっただろう。

 

〈文章倶楽部〉の投稿欄に彼が登場した折の、つまりごく初期の石原作品には、シベリア抑留を連想させる語句はほとんどない。ただ彼が吸いとった闇が難解な言葉の飛躍のすきまから底びかりを発しているのみである。私たちが彼を抑留生活体験者だと知るのは、一年のちの、鮎川信夫谷川俊太郎(この二人が投稿欄の選者であった)の招きによる座談会においてである。

 私は彼の体験を知らない時期に、すでにその詩だけに打たれてしまった人間なので、のちの散文の仕事はあくまでも詩の付録だと思っているが、世間一般はそうではない。そしてこの世間一般というのがライナ・マリア・リルケの言葉ではないが実に恐しい力を有っているのである。

 石原吉郎をいやがうえにも有名にし、胴上げ騒ぎでもしかねない人気者にしてしまったのは、やはり散文の影響だと思われる。ことに多くの人々によってたびたび引用され鹿野武一に関する一節である。

 

 もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない

 もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない

 

 石原吉郎が詩壇を席捲していた頃、この言葉はまるで石原吉郎自身のもののように錯覚され、鹿野武一の人となりはあたかも石原吉郎その人のように英雄化されてしまった。その熱狂の渦中から毅然として身を引けといっても、それは無理というものである。彼がもっとも危険の多いワナに足をとられたのが今の私には理解できる。喝采と一緒に宙に放りあげられ、やがてゆっくりと落下し、砕け散っていくさまを、私は見ているしかなかったのだ。

 

 「荒くれ達にボールのように宙に放りあげられる」サンチョ・パンサのイメージと、「胴上げ騒ぎでもしかねない人気者」石原のイメージが対比的なのは言うまでもない。その変節の要因となったのが、小柳の見立てでは先のようにシベリア抑留を綴った「散文」の影響だった。

 

 小柳の考えでは、本来「石原吉郎にとってシベリアは言葉などで説明できるものでなく、その具体的記録は思い出すにしのび難いものだったに違いない」。だからこそ、〈文章倶楽部〉の投稿欄に登場した時の、小柳が最初に触れた石原のごく初期の詩には、「シベリア抑留を連想させる語句はほとんどない」。確かに、石原自身も、「帰郷」後、「失語」にあった自分にとって、「散文」は駄目だったが「詩」の言葉だけは書けたといろいろなところで述べている。そこには、小柳が読んだように、「ただ彼が吸いとった闇が難解な言葉の飛躍のすきまから底びかりを発しているのみである」。小柳はこの「底びかり」に反応し触知したのだ。これは、ほとんど詩を介した小柳と石原の個と個の関係性でしかあり得ない。

 

 だが、詩と比して、散文は「世間一般」に向けて書かれ、また「世間一般」が反応するという関係性にある。したがって、小柳にとって、二重に「のちの散文の仕事はあくまでも詩の付録」であっただろう。石原の散文に自分が触知した詩の石原は不在であり、しかも散文に本当のシベリアは存在しないのだ。

 

 とりわけ多くの人々が反応し、たびたび引用されたのが鹿野武一の言葉「もしあなたが人間であるなら…」であった。私もご多分に漏れず、この言葉に震撼させられた者だが、この強烈な「断念」を含んだ「断言」は、「まるで石原吉郎自身のもののように錯覚され」がちである。石原詩の「断念」と容易に呼応するからだろう(あるいは石原の「断念」自体が鹿野からきていると言ってもよいかもしれない)。いずれにしても、この言葉の主である「鹿野武一の人となりはあたかも石原吉郎その人のように英雄化されてしまった」。石原のこの「英雄化」は、小柳にとって重大な変節だったであろう。それは「散文=世間一般」の「ワナ」なのだ。「彼がもっとも危険の多いワナに足をとられたのが今の私には理解できる。喝采と一緒に宙に放りあげられ、やがてゆっくりと落下し、砕け散っていくさまを、私は見ているしかなかったのだ」。

 

 石原は、詩と散文について言う。

 

私たちはことばについて、おそらくたくさんの後悔をもっていると思う。私たちが詩を書くのは、あるいはそのためかもしれない。

 「いわなければよかった」ということが、たぶん詩の出発ではないのか。いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である。散文に後悔はない。

 詩とはおそらく、表現すべきではなかったといううらみに、不可避的につきまとわれる表現形式でないのか。それにもかかわらず、なぜ詩が書かれるのかといえば、ある種の不用意からだとこたえるしかない。(「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」一九七二年)

 

 石原は、「詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい」(「詩の定義」)とも言っている。小柳にすれば、石原のシベリアエッセイは、詩にまとわりつくこれらの「後悔」や「沈黙」を、どこかに「忘れて来た」としか思えなかった。ましてや、石原を尊敬する女性詩人に囲まれて(「十人以上」!)「シベリア体験談に余念がなかった」という「後悔」や「沈黙」からはほど遠い姿など何の冗談かと思って見ていたに違いない。

 

 小柳にとって石原は「優れた詩を生産する機械のような存在であった」。したがって、「人間ばなれした存在としての石原吉郎を認識していた私としては、長い間彼のごく人間的な通俗性や哀しみ、ことに淋しさというものを理解することができなかった。石原吉郎は淋しさなど毅然として受けとめ一人耐えるべき人であったのだ――私の内では」。

 

 石原を詩の「機械」と見なすことも、先の散文の影響とはまた別種の「英雄化」ではあろう。だが、石原詩を、「機械」が「人間的な通俗性や哀しみ、ことに淋しさ」に崩れていく「過程=行方」と捉えることは、機械/人間という凡庸なたとえを措いてもやはりある核心をついていると言えよう。それはいわば、「詩は表現ではない」(入沢康夫)という非—疎外的にして非―集団的(集団からの疎外こそが「表現」(者という特権)を可能にするというのが、いわゆるそれまでのロマン主義的な「戦後詩」の理念であったろう)な石原詩のありようを、小柳のいう「機械」に重ねてみた時に見えてくる「過程=行方」である。「もしあなたが人間あるなら…」という鹿野武一の言葉に、まるで厳粛なテーゼのように体現されるらしいシベリアラーゲリとは、最も「集団」や「疎外」から遠い場所であったからだ。石原詩を規定する「断念=断言」の姿勢とは、まずもってこの「表現」への「断念」にほかならない。「断言」とは「表現」の反意語なのだ。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない」なら、戦後詩のように、生き残った男や帰還=帰郷した男が「死んだ男」を代弁=代表することなどあり得ないだろう。いわば、小柳の読んだ「機械」の言葉は、「もしあなたが…」と、「表現」する「人間」を拒絶したところから、「書くまい」という「「沈黙するための」ことば」として「不用意」に発されたものだったのだ。

 

 「機械」はおそらく「定型」の問題ともかかわる。石原について誤解されがちなのは、俳句を書き始めた時期だ。句集の発刊が死の三年前の一九七四年だった(歌集に至っては死後)ので、何か晩年に俳句を始めたイメージがあるが、すでに一九五八年にハルビン俳壇の佐々木有風主催の俳句結社「雲」に参加し、石原青磁(のちに「せいじ」)の俳号を得ている。これは、石原詩の出発点だった詩誌〈ロシナンテ〉と並行していたし、この年には「荒地」(の最後期の)同人にもなっている。石原が最も俳句に熱中していたのは、むしろ初期の五八、九年だったといえる。すなわち、石原詩は、その初期から「定型」についてきわめて意識的だったのである。

 

誤解を避けずにいうなら、俳句は結局は「かたわな」舌たらずの詩である。ということは、完全性に対する止みがたい希求と情熱が、俳句を成立させる理由と条件になっており、その発想法の根拠となっていることを意味する。しかも、この希求がみたされるということは、俳句がついに俳句であることをやめることでなければならない。それが、完全性への希求を断ち切られた姿勢のままで立ちつくそうとするとき、俳句のあの独自な発想法が生れ、それがかたわであるままで、間髪を容れずもっとも完全であろうと決意するとき、句作はこの世界のもっとも情熱的ないとなみの一つとなる。「自由」な現代詩は、このようなパラドキシカルな苦悩と情熱を知りもしないだろう。(「定型についての覚書」)

 

 俳句=定型が「完全性への希求を断ち切られた姿勢のままで立ちつくそうとする」というのは、石原詩の「直立」という姿勢そのままだろう。石原にとって、「完全性への希求を断ち切られた」「かたわな」俳句とは、ほとんど自らのシベリア体験と重なって見えたといってよい。シベリアとは、まさに人間を「定型」へと「矯正=強制」しようとする場所としてあった。だからこそ、そこからの「脱出」や「抵抗」が問われるのである。

 

結論をさきにいっておこう。僕らは定型に対して、常に不安でいなければならない。それは、定型に不安を抱いている者こそ、定型に対して生き生きとめざめているものだからである。定型に安堵し、これにもたれるだけの詩人、十七音字の枠にもはやなんの不安も抱かぬ者は、もはや「定型詩人」ですらありえない。そこでは、最も重要なことがすでに喪われている。彼が定型をうしなったか、定型が彼をうしなったか、おそらくはその双方であろう。

 定型は「不断に」これを脱出するためにある。定型の枠が存在することによって、はじめてこれに対する抵抗がうまれ、脱出するための情熱と、圧縮されたエネルギーがうまれる。いわゆる自由な詩形が「自由でしかありえない」ゆえんは、それが脱出すべきいかなる枠をももたない点にある。今日、前衛俳句の作家たちが、いぜんとして定型詩人であるといわれるその根拠はどこにあるか。それは、彼らの抵抗に意味を与えるものがまさしく定型であるからであり、定型がうしなわれるとき、その抵抗は意味をうしなうからである。いうなれば、彼らの抵抗は定型によってささえられているのである。

 

 「定型の枠が存在することによって」「抵抗がうまれ」「情熱と圧縮されたエネルギーがうまれる」というのは、ほぼフロイトのいう「機知」としての言語そのものだろう。「定型」に「圧縮」されることで「情熱」ならぬ(詩的)情動が「うまれる」。したがって、石原が、〈ロシナンテ〉の初期から俳句=定型に赴いたのは、かえってそこにこそシベリアで抑圧されていた「自由」な情動があったからだ。というか、「定型」という「枠」、「形式」があるからこそ「意味=シニフィエ」として記述し得ない「自由」な情動の存在を確認できるのである。「定型」の認識があってはじめて、石原はシベリアを「表現」し得ないことを、「沈黙」として担いなおすことができたのだ。

 

 したがって、石原にとって、最初から(現代)詩とは潜在的に「定型詩」としてあったといえる。詩人とは「定型詩」を書こうが書くまいが「定型詩人」でなければならない。そして、その目は不断に「定型の外へ向かってかがやいていなければならない」のだ。

 

では、どの程度まで、この不幸な逸脱がゆるされるか、と問う人があるかもしれない。一歩か。五十歩か。しかし、そのような問い方をする人は、すでに形式というものの本当の意味がわかっていない人である。もし、脱出して「しまったら」、あとはどうなるか。忘れてはならないことは、脱出は一回限りのものではないということである。それはくりかえして行なわれるものであり、脱出と回帰を永遠に伴なう不安な過程としてとらえなければならない。決壊した堤防を一度限りあふれて終る濁流のようなものではなく、たえず突破と収縮をくり返すこと、みずからの住居についに安住すまいという意味を持つこと、それが定型詩人であるということの意味である。作家の目は常に定型の外へ向かってかがやいていなければならない。

 そこでは定型はいわば危機として与えられている。

 

 「定型」という「輪郭」が、その外への「脱出」と、内への「回帰」を同時に発生させる。そしてそれ以降、その両極が「永遠に伴なう不安な過程」を歩まねばならないので、「定型」は不断に「危機」なのだ。

 

風がながれるのは

輪郭をのぞむからだ

風がとどまるのは

輪郭をささえたからだ(「名称」)

 

(続く)