遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その6

 繰り返せば、石原にとって、詩とは「沈黙」するための言葉だった。

 

そこにあるものは/そこにそうして/あるものだ

 見ろ/手がある/足がある/うすらわらいさえしている

 見たものは/見たといえ〔…〕(「事実」)

 

 明らかに「事実」について、はなから記述する気がない言葉だ。石原がシベリアから「帰郷」したのち、詩は書けたが散文は書けなかったという時、すでにその詩は矛盾を抱えていた。本当は「沈黙」するほかなかったのだが、詩という「形式」においては「沈黙」が可能だと思われたというのだから。不可能な言葉というやつを、詩という「形式」においては、それが「言葉」でありながら「言葉」ではない=「沈黙」していることが可能であるように思われたというのである。それが石原の「詩法」だった。

 

必要限度の誤解だけで

ととのえた行間へ

沈黙を盾に

生きのびるやつを

詩行の白昼へ

待ち伏せては

平然と主題をひるがえして

十行では なお

倒れぬやつを

十一行目で刺してころしてみよ(「詩法」)

 

 その第一行から「誤解」でしかない「言葉」。「沈黙」が「言葉」の最上のあり方なら、「言葉」は語られ出したその始まりから、もうすでに「誤解」であり、そのとき「言葉」に出来ることは、せめてその「誤解」を「必要限度」に押しとどめ、「沈黙」という理念を「盾」に何とか「生きのび」ようと延びていこうとする「誤解」の「詩行」を、「十行」目で駄目だったら「十一行目で刺してころ」すことにすぎない。

 

 小柳をはじめ、石原詩が尊敬されたとしたら、まずもってその詩がいかにその「形式」から漏れ延びていこうとする自堕落な「言葉」のありようを、厳しく「断念」しようとする「姿勢」にあっただろう(だからその後の石原に接するにつれ、小柳は「何が「断念」だ」と反発していくことにもなる)。基本的に、「詩から散文へ」(シクロフスキー)という流れを、いかんともしがたい近代においては、詩を「定型」に押しとどめておくことなど不可能だからだ。もちろん、石原にしても、先に述べたように、ずっと「定型」を意識し、クリムト的?な「形式美」を追求したものの、「定型=形式」を保持し得たわけではなかった。小柳が居合わせてしまったサンチョ・パンサの崩壊の「過程=行方」は、石原詩が「詩から散文へ」という流れに抗し得ず、「沈黙」の「形式」という堤防が決壊を余儀なくされていく「過程=行方」だった。

 

 堤防が決壊していく、少なくとも一つのきっかけとなったのは、やはり石原唯一の小説「棒をのんだ話」にあったと思われる。小柳は、この小説について次のように語っている。

 

石原吉郎が書いたただ一つの小説「棒をのんだ話」について触れておきたい。石原吉郎の作品中、異色のものであり、優れたものであるこの一篇がどういういきさつにより書かれたかを、いつか調べてみたかったし、できる限りこの作品を現在において多くの人に紹介してみたくもあるのだ。

 異色といったのは文芸のジャンルにおいてのことではなく、まずシベリア抑留体験が基盤になっていないこと、他者の中の自己を描こうとしていることなのである。彼のような特異な体験をしてきた人にとり、ことに内省的な人においては語ることの中心が常に自分の中の自己なのは当然で、作品はほとんど内なる自己をみつめ、あたりは他者も実風景も遠ざかり、鳴りをひそめている。

 たとえば彼はエッセイの中で、しばしば鹿野武一という感動的な他者を登場させるが、それすら自己同化が強く、読者はいつの間にか鹿野と詩人が区別しがたくなっていく。一つの仮定として小説は他人を書くものであり、詩は自分を書くものだという言葉が正しいとすれば、詩人であるほど小説は書きにくいものであるだろう。

 

 読まれるとおり、意外にも高く評価している。石原を駄目にしたのは、「散文」といってもあくまでエッセイ(特にシベリアもの)であって、小説はそれとは異なるということだろう(「明確なペシミスト」「鹿野武一」が、「他者」として書かれてはいないという指摘はその通りだろう)。「棒をのんだ話」についても、「まずシベリア抑留体験が基盤になっていないこと」が小柳の目を引くのだ。この小説については、内容を紹介してもあまり意味がないのだが、簡単に手触りを紹介する以下のようになる。

 

―――朝の六時に必ずやってくる男がいる。目的は「僕に棒をのませるため」だ。「それもところどころ瘤のある一メートルほどのしっかりしたやつ」だ。

 

僕の生活は、棒をのむことによって始まる。棒をのみ終るやいなや、僕はもう棒のことなぞきれいさっぱりと忘れてしまい、上衣に手をつっこみ、帽子に頭をつっこんで廊下へととびだすのだ。僕は、結構一日の目的だけはちゃんともっているような顔をして、すたすたときめられた道の上を歩いていくのである。〔…〕

 

「一体なにがおもしろくて、きちんと六時にやってくるのかね。」

すると彼は、そらきたといった顔で、即座にこう答えた。

「冗談じゃない。もともと君がいいだしたことじゃないか。自分がさきに頼んでおいて、なにが、とはなんだい。」

「僕が頼んだって? なんだい、それは。」

「からかっちゃだめだ。毎朝六時、それより早くても、それよりおそくてもいけないと、あれほど念をおしたのも君じゃないか。」

「僕が、六時にだって? 冗談じゃない。」

「冗談じゃない。」

 最後のせりふは、よく息の合った芝居のように、まるで一人のせりふに聞えたが、彼はもうそれ以上相手にならず、さっさと立ちあがった。

「いずれこんなことをいい出すとは思っていたさ。ついでにいっておくが、仕事が終ったら、よけいなことをいわずに、さっさと出て行ってほしいといったのも、そもそも君なんだぜ。」

 彼はそれだけのことをいうと、さっさとドアを開けて出て行ってしまったのだ。

 僕はその日いちにち、頭があつくなるほど考えてみたが、何がどういうふうにしてはじまったかは、ついにわからずじまいだった。(「棒をのんだ話」一九六五年)

 

 少しまとまった引用をすると何となく伝わるだろうが、たとえば村上春樹が書いていてもおかしくないような感触である(実際、登場人物が「やれやれ」とか言いそうだ)。そして、夕方六時になると、また男がやって来ては、今度は朝押し込んだ棒を抜き取って帰っていく。するときまって僕は泣き出すのだ。

 

 そんな毎日のなか、ある日偶然「僕」は、同僚もまた棒をのんでいる光景にでくわす。それについて思案していると、「むやみに爪の長いオールドミス」が声をかけてきた。

 

「気にすることないわよ。あの人はただ、棒の尊厳を維持したかっただけなんだから。」

 しかし、オールドミスのその、ごくあたりまえの言葉が、僕には新しいショックだった。

「棒って、君、あいつも棒をのんでるのか。」

「なにいってるのよ、棒ぐらいだれだってのんでるじゃないの。それともあんた……。」

それから彼女は、急に不愉快な顔をしてだまってしまった。自分自身の想像の思いがけない重大さに、自分でショックを受けたらしかった。

 だが僕にとってその時のすべては、かけがえのない新しい経験だったのだ。得体の知れない熱いせつないものが喉もとへいっせいにこみあげてくると、僕は知らずしらず立ちあがっていた。僕には、同僚や上司たちをつぎつぎに見まわして行く自分の視線が、次第に火のようにあついはげしいものに変って行くのが、自分でもよくわかった。

(こいつも……そしてこいつも……。そろいもそろって、よくもまあこんな大変なことを……。ひとりのこらず同罪じゃないか……。)

 部屋のなかがいきなりしんとした。誰も彼もが不意に腰を浮かすようにして、いっせいに僕の方を見た。僕は彼らに対して、まったく唐突に愛を感じた。僕はなにかしゃべりたかった。だが声にはならなかった。僕は、ただ茫然と交通事故の現場を見まもっているだけのような同僚たちの視線にそれ以上耐えられなくなって、そのまま廊下へとび出したのだ。

 

 小柳は、この「棒をのんだ話」が書かれた経緯について書いている。それは、木村閑子(本名:舟橋智枝子)の小説集『まぐだれーな』(一九八九年)のあとがきに書かれているという。シベリアから帰国後一年の頃、当時まだ無名の石原吉郎と偶然近所に住んでいた舟橋は、石原からドストエフスキー椎名麟三など文学修行の手ほどきを受けたという。やがてプロテスタント文学集団「たねの会」に参加した舟橋は、後に石原をも誘ったらしい。小柳は言う。

 

どういう事情があったか見当もつかないが結局詩人は参加しなかった。しかし関心がなかったわけではなく、例会に参加するためには短篇一作を持ちよらねばならない規則に従い、前号に紹介した「棒をのんだ話」を書きあげた。この作品は決して散文形式をとった詩ではなく、小説として構成されたものなのである。もっとも作者自身は決して小説という言葉は使わず『石原吉郎詩集』(四十二年)のあとがきでは「私自身の格好のつかない神話である」と解説している。

 私には小説を批評する能力はないが、鑑賞という立場からみて、終末近く主人公が「よし、あした教会へ行ってやる」というあたりがどうも唐突で、たどたどしさを感じると前回に記した所以なのである。どうしてこんな所に教会が出てくるのだろう。プロテスタント集団ということを意識しすぎていたのだろうか。あるいはキリスト教石原吉郎にとって最後まで格闘せざるを得ない対象だったのか。

 

 石原唯一の小説「棒をのんだ話」は、プロテスタント文学集団「たねの会」への入会規則のために書かれたわけだ。にもかかわらず、石原は結局入会しなかったのである。そのあたりの事情について、大西和男は、当の舟橋智枝子にあれこれ尋ねたようだが、「彼女自身がどこか浮世ばなれのした、現実とピントの合わせにくい性格の持主で」、あまり要領を得なかったらしい。その話を聞いた小柳が、「石原吉郎はそういう現実ばなれのした、あやうい感じの女性が好きだったなあと思ったという。それは大西も同じだったようだ。

 

「まったき僕の推測だけど」といやに強調しながら「石原さんは舟橋さんに惹かれていたのではないかと思う」と大西和男はいった。私もそう思っていた時なので例によってすぐ話が下落してしまい、

「あ、やっぱり。で、その女(ひと)もそういった?」

「〈私が恋人でした〉って? まさか! 女流小説家はね、どこかの女流詩人みたいにみっともないこといわないよ」

大笑いをして、この話はおしまい。

 

 石原をよく知る二人が口を揃えて言うのだから、よほど舟橋は石原好みの女性だったのだろう。一方、舟橋は、「たねの会」の月報に〈ロシナンテ〉時代の石原についてこう書いている。「ロシナンテの会員は石原氏を除いては皆二十代の前半で、当然仲間同士の恋愛関係も発生し、時折唯一の世帯持ちである私の所へ相談がもちこまれた。その中には石原氏と結婚したがっている女の子もいて、氏が彼女と結婚する意志のないことを知っている私は本当に困ったこともあった」(「石原吉郎氏と教会」)。

 

 もちろん、「たねの会」に入会しなかった理由が、舟橋をめぐる恋愛関係にあったかはわからない。だが、戦前から受洗し、神学校の受験まで考えていた「戦後のにわか信者ではない」(小柳)石原吉郎のことだから、ついそれが信仰上の問題であるかのように想像してしまうが、おそらくそれも違うのだろう。小柳が難じる、石原を形而上的に捉えすぎる傾向である。石原にとって信仰の問題が重要だったことは間違いないが、それでも現実においては救われなかったからこそ、迷惑をかけまくることも含めた女性問題が大きくなっていったのではなかったか。

 

(続く)