遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その5

 石原は、選んで「断念」したのではない。「形式」の輪郭でもって性や情動を「断念」しなければ言葉を発し得なかったのである。

 

 花であることでしか/拮抗できない外部というものが/なければならぬ〔…〕

 そのとき花であることは/もはや ひとつの宣言である〔…〕

 花の輪郭は/鋼鉄のようでなければならぬ(「花であること」)

 

 この詩などは、石原にとっての「形式」やそれをもって「断念=断言」することで、かろうじて石原詩が存在するということが、分かりやすすぎるほどだろう。石原にとって「断念」は「形式」と「奇妙な一致」で不可分なのだ。「野獣」の「狂気」の「断念」こそが「断念なのである。

 

狂気とはなによりも「すがた」である。狂気がひとつのエネルギーとして顕在するそのすがたである。かたちにおいてくるうこと、それが狂気ではないか。

 あるいはかたちが狂気に一歩先行して、狂気をさそい出すのだろうか。そして私が狂気を断念するのも、その一歩手前である。断念と予兆との、位相のこの奇妙な一致は、おそらく私にあってのみ重要なものである。(「狂気と断念」)

 

 だが、「狂気」の「断念」のその先に、まだ生の「断念」=死があった。石原は戦争期にそれを思い知る。そして、「八月十五日」を迎え、その後の数日間で死が遠ざかり、「狂気」が後景へと退くことによって、「生」が顔を出してくる。それは「死」にも「狂気」にも見放され、生き残ってしまうということであった(「八月十五日」をはさんだ精神のありようは、特攻隊の「出発は遂に訪れ」なかった島尾敏雄を想起させる)。だが、「生き残る」ことは「生きる」ことではない。石原は、主体的に「生きる」ためには、あの「断念」をもう一度主体的に呼び戻し、今までとは逆向きに担い直さねばならなかったのだ。

 

断念が死へ向けての生の断念であったとき、狂気への断念は私にはなかった。戦争の時期、私はむしろこのようにして狂気を迎えようとしていたのであり、狂気のそのさいごの位相のようにして、死が、あたかも迎えられるもののように私にあった。

 私が狂気と、断念のかたちで向きあったのは、八月十五日をあいだにした前後の数日であった。その数日で私は、死からも狂気からも見はなされ、あらためて生の場へ向き直ることを余儀なくされた。生きのこるとは、その時の私にとって、そのままに死に見放されることであり、そのままに狂気に見放されることであった。私に残されたのは、死の断念という生死の位相の思いもかけぬ転換であった。

 断念の深さが、そのままに生きる深さとなろうとする地点から、私は歩き出さねばならなかった。であってみれば、断念こそは、生きることの基本的な姿勢であったのではないか。いわば狂気からの離脱こそが、私にとって生きることのはじまりであったといっていい。気のとおくなるような忍耐の過程が、それにつづく。(「狂気と断念」)

 

 石原の戦後とは、狂気、そしてその最後の位相としての死から「離脱」することによって始まった。死に向けて生を断念していた男が、八月十五日を境に、「死の断念という生死の位相の思いもかけぬ転換」を経験したのである。「断念」を境に生死の位相が転換したといってもよい。石原においては、「断念」とは「生きることの基本的な姿勢であった」。石原にとって生きるとは、断念によって「輪郭」を描き、それによって「形式」を設えることなのだ。

 

 そして輪郭によって狂気を断念することで、形式=定型に狂気を圧縮してしまいたいという狂気=欲望が常につきまとうことになる。「私には狂気を圧しころしたいという、狂気に近い願望がある」。

 

 だが、断念=断言の激しさと拮抗していたことで、かろうじて狂気は、情動は、性的欲望は緊張感を「輪郭」へと押しとどめられ、危うい「形式」美を表現し得ていたのである。にもかかわらず、徐々にその「正しい姿勢」を保てなくなっていったのが、サンチョ・パンサの「過程=行方」だった。

 

彼の詩はほとんどの場合強い言葉で断言し、おそらく断言することで自分をある正しい姿に整えていたのだろうと思われる。しかしいくら断言しても、所詮言葉は肉体を支えはしない。彼は晩年になるにつれ言葉だけになってしまったかに見える。

 

 ユーカリにかたらせよ

 ユーカリを病む土地への

 ユーカリの弁明を

 とおいむかしユーカリは移され

 移された土地で

 かすかな空を生んだ

 「ユーカリ」(部分)『禮節』

 

 この詩などはもはや空しいばかりの美しさで、ユーカリという言葉のひびきのよさだけで書いてしまったように思われる。空ろな感じのする幾つかの詩は、彼の肉体が次第にぬけがらになり、もうどうでもよくなり、町をうろつき歩いていることと重なっていくので、私には辛い作品である。しかも肉体は一挙に消滅できないため、辺りに毒素をまき、何人かの人々を傷つけ、それを彼はもはやどうすることもできなかった。

 

〔…〕晩年の石原吉郎は息をつぐまもなく詩を書いていた観があり、糸を吐き続け、吐き続けやがて空ろになっていくように、やっと輪郭だけを保って存在していた。その輪郭を支えるために、彼はしきりと姿勢を正し、それこそ形式美の中へ自分を嵌め込んでいたように思われる。しかし詩はそうした人間の知恵で囲みとったなかにはなく、ひょっと外れた場所にぬけ出て、息をついている。(『サンチョ・パンサの行方』)

 

 確かに先の引用の「ユーカリ」という詩の言葉には、「形式=輪郭」の抜け殻しかない。もはや「断念」しなければならないような緊張感をはらんだ情動はそこにはない。「しかし詩はそうした人間の知恵で囲みとったなかにはなく、ひょっと外れた場所にぬけ出て、息をついている」。石原にとって、生とは死の断念として、またその証としての「囲みとった」「形式」としてあった。したがって、断念がなくなれば、生もまたなくなるのである。そこでは、もはや「食事」という「形式」からも死が漏れ出している。石原にとって「食事」は「生き死にの」「証=形式」としてあり、したがってそれがなくなることで「もう生きなくても/すむ」=死を「断念」しなくて「すむ」という感覚なのだ。

 

 つらい食事もしたし/うっとりとした食事も終えた

 おなじ片隅で/ひっそりと今日も/食事をとる

 生き死にのその/証しのような

 もう生きなくても/すむような」(「レストランの片隅で」)

 

 石原の晩年においてよく言われるのはアルコール中毒のことだが、石原において重要なのは、自らのアルコール中毒を「形式」に囲い込もうとしていたことだろう。「食事」のみならず「飲酒」もまた石原にとっては「形式=手続」としてあった。

 

帰宅して風呂からあがると、ふつうのコップに二杯、時間をかけてゆっくりのむ。私は酒をのむときは、ほとんどなにもたべない。夕食は四時ごろ勤め先の近くで適当にすませて帰る。酒の肴はもっぱらたばこである。コップ酒二杯で一回目の「定量」が終る。

〔…〕私の体調はこの三回目の三杯のところでおさえられているかたちなので、これをこすと翌日はてきめんに体調がくずれる。首尾よく三杯目で栓をして、なかばあきらめに似た思いで、とはいえいく分はほっとして床にもどると、とたんに全量分の酔いを発して、そのまま眠りこんでしまう。

 なんでこんなややこしい手続を経て酒をのまなければならないかというかもしれないが、禁酒ができない以上、節酒しかないと覚悟して、失敗に失敗をかさねたあげく、自然にできあがった「三段飲み」なのである。(「私の酒」一九七四年)

 

 だが、小柳の描く晩年の石原像は、アルコール中毒よりも深刻である。こうした振る舞いを一般的な老醜というべきか、石原固有のものと捉えるべきか。

 

晩年の石原吉郎はちょっとした女性宛のハガキや手紙にも自作の短歌を添え書きする習慣があった。短歌をもらわなかったのは私ぐらいのものではないだろうか。とにかく乱発したのだが、石原吉郎の短歌というのは、どうと評価するほどのものがなく、これを添え書きする神経はかつての石原吉郎には決してなかったものである。

 彼は完全に神経のある部分を冒されていた。ある時、見せてもらった彼のラブレターはその恐しい兆候を見せていた。かつて「いちまいの上衣のうた」に添えられて提出された手紙の彼らしいナイーヴな感覚とは正反対に、この晩年のラブレターは荒々しく、正常な人の手になるものとは思えなかった。

 ある女性詩人が私にそれを見せたのだが、その女性はまた、そのラブレターをもらったことが一種の自慢で、できれば私の口から詩壇の面々にそれを伝えて欲しかった。

 手紙はコピーで(あちこちに同文面のものを出したのだろうか)末尾に、「これを読み終えたら、すみやかに焼却せよ」と記してある。こんな気味の悪いラブレターが自慢になるのかどうか、私には分からないが、彼女のほうは短歌の一首ももらえない私を気の毒がり、軽蔑しているのだから、価値観の相違である。

 その手紙は箇条書きなのであるが、要は「あなたは私に妻があるので、私の好意を受けかねているのであろうが、私の妻はかねてより〇〇〇とは淫らな関係をもっている……云々」という目もあてられないものであった。私は背筋が寒くなり、それ以上手紙を読みすすむことができなかった。

 書かれてあることは、もちろん根も葉もないことであり、全ては彼の妄想の所産であるが、彼の精神の荒廃がここまで進んでいるのを冷静にみつめるという業が当時の私にはできなかったのである。

 

 複数の女性に「箇条書き」の「同文面」の「ラブレター」を「コピー」で送りつける。そのおぞましさもさることながら、目を引くのは、ラブレターもまた「同文面」の「コピー」という「形式」であったことだ。おそらく添え書きの短歌のみがその相手に向けた肉筆の部分だったのだろう。しかも、「私の妻はかねてより〇〇〇とは淫らな関係をもっている」という文言まで付されている――。

 

 このような女性への執着を、先に述べたシベリア帰り「デビュー」と地続きの石原固有の行為ととるべきか、よくある老いによる性的欲望に抑制が効かなくなっていた状態ととるべきなのか。少なくとも、小柳の書きぶりによれば、石原にとって幸か不幸かラブレターをもらった数多の女性もまた嫌がらなかったようだ(無視した女性などはいたのだろうが)。自らを尊敬していて、ラブレターをもらえば喜ぶだろうという女性を選んでいたということなのか。ずいぶんとドン・ファン気質だったものだ。

 

 悪名高いラカンによる性別化の論理式によれば、「ドン・ファン」のあり方は「女性」の論理式に相当する。

 

では、男性の論理式と女性の論理式の違いはどこにあるのか。一方の男性の論理式を考える際に援用されたのは、例外として「すべて」を包摂し、普遍を構築する原父であった。他方、女性の論理式を考える際に援用されるのはドン・ファンである。なぜか。ドン・ファンは、原父のように女性たちをひとつの集合としてわし掴みに囲い込むのではなく、出会う女性をその都度つねに新たなプラス一として、「ひとりひとりune par une」取り扱うからである。(松本卓也『人はみな妄想する』)

 

 もちろん、実際に石原が「出会う女性をその都度つねに新たなプラス一として、「ひとりひとりune par une」取り扱」っていたかは定かではない(そもそも、「女性」の論理式において「ドン・ファン」が援用される時点で、あくまでそれは「男性」が「女性」を捉える論理式ではないのかという疑問は今は措く)。だが、石原の欲望というか享楽のあり方が、「形式=輪郭」に(例外として)「すべて」包摂されるようなあり方ではなく、「形式=輪郭」から常に逃れ去る「ひとりひとり」としてあったとは言える。石原もまたラカンのように、「女なるものは存在しない」、あるいは「女」を「囲い込む」「形式=輪郭」は「存在しない」と考えていただろう。これはまた、石原の言葉たちが、「原父=すべて」に「隠喩」的に包摂されるのではなく、隣接する言葉に「つねに新たなプラス一として」連鎖されていく「換喩」的なあり方をしていることと、おそらく相似的である。これについては、また後で触れよう。

 

 それにしても、「ドン・ファン」石原に「取り巻き」の女性達がいたことは、おそらく同時代の詩人たちには有名だったのだろうが、このようなラブレターと短歌によってその「ファンミーティング」?のつながりが成り立っていたことはどれほど知られていたのか。小柳の記述は、もちろんアルコール中毒についても、「老醜をさらす人間がきまって言い出す」「誰々が自分の金品を盗んだ」という金銭への執着についても及んでいる。だが、この頃のことは「あいまい」だという。

 

何故ならこの荒廃を前にして、なお彼の身辺にいた人というのは、よほど彼を愛していたか、極度のお人好し、あるいは野心家のいずれかである。あとの人々は恐れをなして遠ざかってしまったし、私などは短歌ももらわぬ身の上であるから、少しでも損などしたくない、というおよそ可愛くない損得勘定で、石原吉郎が前方から歩いてくれば、道を折れて逃げてしまうほどにも遠のいていた。そういうわけでこの頃の石原吉郎は私の中で生き生きとした像を結ばない。ほとんど他人の口からもれた噂という言葉で、歪み、汚れてしまった石原像である。

 

 普通、「前方から歩いてくれば、道を折れて逃げてしまうほどにも遠のいて」しまったら、石原吉郎のことにこれほど筆を費やさないだろう。もちろん、詩人たちとの「交流は私のみにくさ、やりきれなさをまざまざと反映するものであって、私は実のところそういう自分を描き出すほうが好きなのである」という小柳自身の気質もあっただろう(彼らとの交流には、詩人たちの醜さではなく「私のみにくさ」が反映していると書くところに、小柳によって暴かれる詩人たちの愚かさや卑小さが、読んでいて決して不快にならない、むしろ好ましくさえ思えてくる部分であろう)。

 

 だが一方で、石原は小柳と和解しないまま他界したのだ。だから、「憤りさめやらぬまま毎日口を開くと石原吉郎の悪口がとび出してしまう私は自分で自分を扱いかねた」という小柳の夢の中に、石原は「あんまり僕の悪口をいわないでくださいね」と現われたという。そのような石原吉郎の詩を、「どうか読んでいただきたい」と言って本書を刊行した小柳の石原に対する思いは、ポリコレ全盛の現在においては想像するのも難しい(小柳の本自体が現在は「読まれがたい」ものなのではないか)。

 

 それが、石原が有名詩人であったという理由からではないことは、本書を読めばすぐに分かる。小柳にとって、石原が有名詩人であったことは、むしろ頭痛の種でしかなかったに違いない。ましてや、鮎川信夫がいうように、「石原さんが死んだらみんな急に石原さんのことしゃべり出したり、書きだしたでしょう。これは面白いことでね、ある意味で孤立した対象で非常にしゃべりいい詩人なんですよ。批評家にとっても、あるいは詩人にとっても石原吉郎という対象は、どうにも手に余るという相手じゃないし、恰好な材料なわけです」(吉本隆明との対談「石原吉郎の死」一九七八年)という流れに便乗したわけではさらさらないことも、一読して理解できる。

 

 最初に尊敬していた人間のことを、まったく尊敬できなくなる。その「行方」を、だがこれほどまでに愛情をこめて書くということ。どんなに裏切られても失望させられても、最初に受けた詩の衝撃を、小柳自身がオブセッションとして最後まで拭い去れなかったということなのだろうか。繰り返しになるが、小柳の生前に会って聞いてみたかったことである。

 

(続く)