遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その4

 そして、小柳は、この石原の「形式=定型=枠」へのこだわりが、「性」の問題とも関わっていると見ていた。小柳はアトリエや画廊を経営し主宰する人間だったので、「大体石原吉郎の絵画の好みは幻想派のものであり、文学臭の強いものである」とその偏りを評していたが、なかでも石原が好きだというグスタフ・クリムトをめぐるやりとりは、ある意味で石原の核心をついたものだったといえる。

 

 ある時石原が小柳にクリムト画集を見せながら言う。「今、この絵が気に入っています。徹底した様式美の中に、情念もなにもかも、きちんと嵌め込んだ絵でしょう? 今の僕は自分自身をそういう形式の中へ塗り込んでしまいたいんですよ」。石原がクリムトに、俳句=定型と同じものを見ていたことが分かる。したがって、すかさず小柳は「後の日に『禮節』『足利』『北條』……とタイトルからして形式美を思わせる詩集を書いていった石原吉郎の、片鱗のようなものが、クリムトをめぐる短い会話の中にもひそんでいたことが面白い」と書くのである。

 

 やがて話は、C・M・ネーベハイ『クリムト』におけるクリムトの性生活に及び、そこから石原の性生活へと展開する。

 

確かに一人の人間の性生活、また愛に触れる時、慎重にすぎる配慮は必要であるが、石原吉郎を語る時、この問題はやはりいたずらに避けてばかりはいられないことの一つだろう。彼の苦行僧めいた表面の様子とは全く別に、性も含めて愛は彼の詩人としての生涯に大きな問題だったのである。彼の極めて強い羞恥心は、そうした部分をことさら作品の上では隠蔽しているので、クリムトの芸術のようにあらわなエロスの感じられるものは一篇もない。シベリアでの長く苦痛な体験によって、石原吉郎はほとんど人間を信じることはできなくなっていた、人間の中でもことに男性には常に敵を感じ、固く心を閉ざしていたのが分かる。しかし彼にとって女性はまた別の問題だった。それは優しいもの、弱々しい故に彼が庇護してやらねばならぬものだったらしい。平穏の中では女性のほうが逞しきものであることを、彼はついに認識できなかった。

 彼には男性詩人を扱った論(跋文を含めても)がほとんどなく、女性詩人への小論はおびただしい数にのぼるのを見ただけでも、そのことはほぼ推測がつく。

 

 小柳は石原を語る時、性愛の問題は避けられないという。石原を論じる者が触れない視点である。「石原吉郎の女性に関わる言動につき、スキャンダラスに取りあげればきりもない数になってしま」うというのだから、相当な数だったのだろう。クリムトのように、芸術にエロスを露わにはしなかったものの、小柳は石原詩の「定型」を含めた「形式」の「輪郭」は、常にエロスと接していたのを感受していたのである。石原と知己を得てからまだ日が浅いというのに、石原は小柳を前にしてやおら女性とセックスの話をしだしたという。

 

「抑留生活の八年は当然として、その前の軍隊生活の間も、僕は女性をほとんど見かけることがありませんでした」と彼はいった。

「ですから、帰国の船で診察に立ち合った看護婦さんが近くで見た初めての女性といってほぼ間違いがないんです。抑留の間で会ったのはソ連のおばあさんぐらいですからね。看護婦さんを見てね、どうしたと思います? こわくて、顔があげられなかったんです」

「は、」と固くなって答えたものの、頭の隅では(私が小学校四年生の時、終戦になって、始めて男女同級になった頃、何だかきまりが悪くて男の子の方を見られなかった――あれと同じかなあ)などと気楽に考えていた。

「それでね、僕の女性に対する気持というのは非常に神聖なもの、恐怖心を伴うほど大切なもの、そんな感じです。要するに未知のものなんですよね」

「……」ここまでは分からなくはない。男の子という未知のものが、私も怖くておどおどしていた時代があった。

「ところが半面女性に向かう時、けものじみた欲望がありましてね。これはまた平穏な青春を過した人には理解されないほど烈しいもので、もう野獣と同じです」

「は、」私はたぶん情けない声を出して合づちをうったことだろう。前にも書いたようにその頃私にとって石原吉郎は優れた詩を生み出す機械のような存在であった。機械が女性を愛したり、セックスを感じたりしてよいものだろうか。私にはひたすら不思議なだけで、恐らく珍しいものを見るように彼の顔を見ていた。彼もとんだ人に女性談義をしたもので、のちの日、後悔したことだろう。

 

 抑留生活が「定型」への矯正=強制だったとして、その一つが性愛の問題だったことは想像に難くない。石原は、己の「形式」に性への情動を「圧縮」して生きてきたのである。石原の外見についてよく言われる「苦行僧めいた表面の様子」もそこから来るものだろう。だが、その「輪郭」においては、恐怖と欲望とがせめぎ合いを繰り返し、常に「危機」に見舞われていたのである。小柳が感じていた「機械」石原は、ここでいきなり吐露された「野獣」石原とあまりにかけ離れていて、決定的な「溝」を形成しただろう。石原は、シベリア後、俗に言う「デビュー」を果たしたのだ。

 

 だが、小柳が真に「機械」石原と「野獣」石原とを「溝」として受け止めるのは、石原の死後だったのではないか。石原が自らを「野獣と同じ」と吐露したことは「以後ずいぶん長い間私の脳裏に甦えることがなかった」のであり、「何故ならそのあと石原吉郎との交際が繁くなるほど、彼と野獣のイメージはかけ離れていて、「本当にそうだな」と思い当ることがなかったからである」と。おそらく、小柳に「機械」のイメージの修正を迫ったのは、先に触れた数々の自らへの侮辱的な行為のみならず、例えば一見まったくそのようには読めない「いちまいの上衣のうた」という詩が、実は恋の詩だったことを、石原の死後に知ったことだろう。

 

追悼会の折、竹下育男が石原吉郎の恋愛について触れ、「石原さんが女性として関心を寄せていたのは、そこにいる佐々木双葉子さん一人だと僕は思っている」といった発言をした。このちょっと現実離れのした妖精のような美女はけろっとした感じでそれを聞いていた。後日、石原吉郎が有名になってから、彼からラブレターをもらった、短歌を贈られたと、彼との関わりを後生大事にする女性詩人たちと違って、詩などに野心のない彼女は詩人の求愛をしりぞけてしまったようである。

 のちに花神社が『石原吉郎全集』を編むにあたり、広く詩人たちから彼の書簡を集めた。この時初めて石原吉郎が彼女に宛てた愛の告白書簡を私は読んだ。それは書簡というより一篇の詩であって、複雑な意味で私を驚かせた。

 一つには「いちまいの上衣のうた」という一篇の詩が恋の詩だとは私が思っていなかったことである。この詩からはどう読んでも恋の匂いはしない。三十九年〈鬼〉誌に発表された、この詩はおそらく三十八年に書かれたものだろう。私がまだ彼と面識のなかった時期の作品であり、事柄である。

 一つは、私からみれば不惑の年齢であり、妻帯者であり、およそ恋愛沙汰とは無縁の雰囲気の詩人が、そのような失恋の痛手を負っていたということ。何しろこちらは彼を機械だと思っていたのだから始末が悪い。

 私が読んでは恋の詩には思えなかった、この詩が送られるなり、件の女性は拒絶の手紙を出したのであるから、この詩には詩人と彼女にだけ分かる愛の告白が含まれているのだろう。

 

 おれは 今日

 いちまいの上衣をきてあるく

 いちまいの上衣をきて

 おれがあるく町は

 おなじく絵のような

 いちまいの町だ〔…〕

 

 この詩には確かに愛という文字が四回使用されている。石原詩の中で愛という文字はそう沢山使われるものではない。

 

 そのように言われて読まなければ、確かに「いちまいの上衣のうた」が妻帯者の失恋の詩だとは誰も読まないだろう。そのとき、石原詩に「機械」を見ていた小柳は、ひょっとしたらあらゆる石原の詩の「形式」に、おしなべてその種の情動がはらまれているのではないかと思い直したのではなかったか。「しかし前回触れたように「いちまいの上衣のうた」が恋愛詩であることが判明している現在、石原吉郎はあの全ての詩に現われる美しく清潔な言葉の地下に測り知れない泥沼を抱いていたのだと思われる」。このことが呼び水となって、出会った当初から石原が自らを「野獣」と呼んだことや、当時克明につけていた性の日記などが後から後から思い出されてきたのだろう。

 

失恋沙汰のほうよりさらに彼が困ったのは克明につけていた性についての日記であろうと思う。彼が野獣という言葉を使ったのはおそらく、そうした日録を彼が記さずにはいられないほどに荒んだ心になっていた時期についての弁明だったのだ。ごく初期の〈ロシナンテ〉の仲間はこの日記を知っており(彼が無邪気にもそれを幾人かの仲間には見せていた)、やはり初期〈ロシナンテ〉同人に属するほうの私が、誰彼からそれを聞き及んでいると推測したのである。それは取り越し苦労だったのだが、〈ロシナンテ〉が結成された二十九年の頃、私たちの大半は大学生であり、赤線地帯へ出かける勇気のあった同人はたぶんいなかったろう。彼はそこでの武勇伝を「そら、読んでみろ」という感じで書きつけていたと思われる。

 追悼会から四、五日経て、私を訪ねてきた吉田睦彦が非常に不思議そうにこの話を切り出した。

「ねえ小柳さん、あの日記帖はどこへいっちゃったんでしょうねえ」と彼はいった。

「石原さんはことによくその日記を読ませてくれました。おまえは体が悪い身の上だから、女についてはおれが教えてやるって。そのあと石原さん、有名になって、時々日記抄なんてのが発表されたでしょう。本にもなったし。僕、あの日記を出したのかと思って心配したら、ぜんぜん違うのね」

「そりゃあそうでしょう」茫然としながらも私はいった。機械のイメージは、その頃すでに壊れ果てていたので、私はこの話を不潔という感覚で受け取ったのではない。むしろ痛々しい思いが心を噛んだ。あの頃、そんな日記をつけて楽しんていた頃、石原吉郎は自由だったのだ。生活は苦しく、心はふさいでいても、自由ではあった。少なくとも私のように人間性を無視して、彼を自分の理想のイメージで固めあげてしまうようなファンはいなかった。ラブレターを書こうが、恋をしようが、イメージが狂う心配はなかったし、彼には彼なりに遅れてやってきた青春を享受する必要があったのだ。

 

 もし、小柳が、ともに〈ロシナンテ〉同人だった頃から石原の性日記を読んでいたら、当初から「機械」のイメージは作られていなかったかもしれない。それぐらい、初期〈ロシナンテ〉時代、石原はラーゲリで失った「青春」を取り戻すように、「自由」に性を謳歌していた。石原にとって詩の「定型」や「形式」とは、帰国後にいったん解放された性的欲望や情動を再び押し込める必要から生じた生々しいものとしてあった。小柳はクリムトの描きかけの裸婦に石原に通じるものを見る。

 

イーゼルには描きかけの「花嫁」がかけられていた。絵の右側には、裸婦がややひざを開いて立っている姿がある。女の脚の間には、はっきりと性器が描かれ、その上をあのクリムト独特なきらびやかな衣裳が描かれようとしていた。絵が完成すれば性器は見えなくなる。このような方法は幾人かの画家も試みているもので、格別珍しくはないが、これが単に時代の検閲を逃れるための手法ではなく、画家の地下世界にうごめいていた複雑な性的欲望、地獄のようなものの現われだとすれば、かつて石原吉郎が私に告げた、クリムトの絵を愛する弁とまっすぐにつながってくる。

 全ての情念をモザイクのようにきっちりと装飾と形式の中に閉じこめる――ことに詩人は共鳴したのだった。ことさらにエロスが表面に出ているクリムトと、およそエロスの匂いのない石原詩とは、その頃どうやっても私の中でつながらなかった。私はかろうじて、形式美ということによって、この二者をつなげていた。しかし前回触れたように、「いちまいの上衣のうた」が恋愛詩であることが判明している現在、石原吉郎はあの全ての詩に現われる美しく清潔な言葉の地下に測り知れない泥沼を抱えていたのだと思われる。

 言葉たちは地底の闇を吸いあげているため、美しいのと同時に、どこか底光りのする暗さを秘め、異様な重量感を私に与える。

 おそらく、石原吉郎の地下世界は性の欲望ばかりではない、シベリア時代の泥沼がせめぎあっていたことだろう。その泥沼は、かつて石原吉郎の作品を通して彼を敬愛した若い人々が考えるような、形而上的な泥沼などでは決してない。机上で考えつくような罪意識や言葉に酔っただけの苦悩ではないはずである。

 

 小柳が石原について「形而上(的)」という語を使う時は、きまってネガティヴな意味である。石原の詩に、エッセイに、「形而上的」なものしか読み取らない石原崇拝者に小柳は辟易していた。その「言葉の地下に測り知れない泥沼を抱えていた」こと。それは石原詩に、あの「溝」を刻み込まずにおかないが、小柳に言わせれば「この溝を抜きに」石原を語ることなどできないのだ。

 

(続く)