遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その9

 小柳もまた、石原の「のちの散文の仕事はあくまで詩の付録だと思っている」と言ったが、小柳の「付録」は、吉本の「虚偽=余計」とは決定的に異なっている。小柳は最初から、石原の詩の言葉は「地下に測り知れない泥沼を抱えて」おり、「言葉たちは地底の闇を吸いあげている」ことを感受していた。そして「おそらく石原吉郎の地下世界は性の欲望ばかりではない、シベリア時代の泥沼がせめぎあっていたことだろう」と。いわば「付録」は後から付加された「余計」ではなく、最初から「地下=闇」として伏在していたのだ、と。

 

 小柳が特異なのは、石原に「形式」の上で散文(化)の「過程=行方」の「ワナ」を見出し、散文を詩の「付録」と見なしながらも、同時に、一方で詩=形式の「輪郭」の「地下世界=地底」に、「形而上」ではない「泥沼=闇」を感受していたことだろう。おそらく小柳は、人間石原との関わりというか、述べてきたような現在ならハラスメントにしかならないレベルの侮辱を受けながら、それをもって関係が切断されずにそうした認識へと昇華していったのである。

 

 小柳は、石原のハラスメントに「耐えた」のだろうか。後輩として、相手が有名詩人だから「耐え忍んだ」のだろうか。もちろん、そのように捉えることもできるだろうし、今ならそのように読まれるのだろう。だが、それだけであれば、小柳が『サンチョ・パンサの行方』のようなものを書いた理由がどうにも分からない。やはり、小柳は石原に対する関わり方を、石原自身から受け取ったのではなかったか。小柳は石原の「風琴と朝」という詩を引き、次のように書く。

 

昭和三十九年四月発行の詩誌〈銀河〉にこの詩は載った。〈銀河〉は杉克彦の個人誌で作品掲載者からは頁相当分の掲載料をもらうシステムで刊行していた。この年の三月、第十四回H氏賞受賞が決定していた石原吉郎は、すでに名の通った詩人であり、ささやかな詩誌に掲載料まで支払って作品を載せる必要は露ほどもなかった。しかし彼はきちんとそれを支払い、杉克彦が亡くなる四十六年までの間、少なくとも三、四篇の詩をこの条件で載せている。しかも〈銀河〉の購読料として二人分の費用を毎回杉克彦に支払っていた。「一冊は妻が読みたがっているので」などと杉克彦に気を使わせないよう、苦しい言い訳までそえていた。

 石原吉郎は貧しさや病弱に対しおどろくべき優しさをもっていた。私が死の日まで杉克彦の優しい友人たり得たのはひとえに石原吉郎の薫陶によるものであって、私の本性ではなかったと信じている。

 

 「薫陶」という言葉にひさびさに触れた。もはや入試の漢字問題ぐらいでしかお目にかかれない言葉だ。

 

 杉克彦とは、「その2」で触れた小柳が石原に「杉君の三回忌、とうとうやりませんでしたね」と非難された、あの杉克彦である。この杉と小柳との関係も本書所収の「銀河憧憬――杉克追悼」に描かれているが、この「貧しさや病弱に対しおどろくべき優しさ」という「石原吉郎の薫陶」が多分に感じられ、正直涙なしには読めない文章である。この杉に発揮した石原からの「薫陶」を、小柳は石原自身にも差し向けたのではなかったか。いわば、それが小柳の「贈与—お返し」であり「贈与論」(モース)であった。両者の関係性やそれを書き留めた小柳の言葉を、現在の地平から批判してもはじまらないだろう。それが他には還元し得ない小柳と石原の固有の関係性というものではなかったか。そして、その固有性がどうでもよくなってしまえば、もはや批評など存在し得ないのである。それは、小柳にしかなし得なかった、石原詩の内と外とをジグザグに往還し続ける石原に対する批評の方法であった。

 

 最後に切腹事件に触れる。

 

 ソファーに並んで石原吉郎と新藤凉子が坐っていた。

 彼は一ふりの小刀(きりだし)――真新しいものを新藤凉子に見せているところであった。

 「これね、死のうと思って買ったんだよ」と彼はいった。私はびっくりして二人の真前に突っ立っていることになってしまった。

 「今朝もこれでお腹を切ったんだ」子供のように彼はくり返す。

 言われたほうは返事のしようがないが、さすがに新藤凉子は落ちつき払っていた。

 「お腹なんか切る必要はありませんよ。死にたけりゃもっと楽な死に方を教えてあげるから――さ、その刀、寄こしなさい」

 彼女は刀を取りあげバッグの中へ納めた。

 「そんなもの、また買えるんだからね」といったような憎まれ口を彼は口走り、信用しないのならこれを見せてやろう――とばかりズボンを脱ぎ始めた。

 詩人ばかりではない、一般の宿泊客もいる会館のロビーである。私は思わず二、三歩後ずさりし、植木鉢にぶつかって立ち止まった。

 彼はズボンの前をはだけ、下着をめくり、私たちの前にその腹部をさらけ出した。その腹部には確かに左から右へかけて、うすいみみずばれ程度の傷痕が細長くついてはいた。しかしあれは本当に死を決意した人の刀傷などでない。見せるためのもの、みんなを慌てさせるためのもの、慰められたいためのもの――であった。

 新藤凉子ではないが、本当に死にたかったら小刀など使う馬鹿はいない。まして腹部など切ったって死ねるものではない。

 ただ石原吉郎はなぜか三島由紀夫の死に方にいたく感動している一面があり、その当時「私こそがあのように死ぬべきだったのだ」と何度もくり返し言及していたことがある。なぜそうなのか訊ねても論理的にはっきりした返事はなく、そのままになっていた。

 石原吉郎には三島事件の頃から、自分は無駄に生きながらえて、恥をさらしている、といった気持がしきりに動いていたのは確かで、しかしその核心になっている事実については決して触れなかったし、それだけは生涯彼が口にできないことのようであった。

 

 小柳は、石原が「いたく感動し」たのは、三島由紀夫の死ではなく「死に方」だったと言っている。三島の死そのものよりも、その「形式」に衝撃を受けたのだ、と。その理由については、「論理的にはっきりした返事はな」かったようだが、小柳は次のように想像している。

 

彼は被害者であったために傷口が深く、あのような晩年を迎えてしまったのではなく、おそらく、ある日加害者でもあったのだろう。彼は自分で自分が許せなかったとしか私には思えない一面がある、

 初めに触れたように彼は三島由紀夫の割腹事件にただならぬ衝撃を受けていた。その衝撃というのが当時の私にはまるきり理解のできない種類のもので、頭をかかえてうめき続ける詩人の前で呆然としていたものである。

 「私はね、とっくに腹を切って死ぬべき人間なんですよ」と彼はいった。私が何と答えたらよいものだろう。

 「誰にもこれだけは分からない。まして小柳さん、あなたたちみたいな戦争に参加しないですんだ世代には分からない」

 もちろん私には分からなかった。そして自分で書いた通り、何か形而上的な、この詩人らしい理論により生きてここにある自分を嫌悪しているのだろうと思い込んでいた。

 自分で自分を許せない、というのは具体的にどんな場合があるといえるか。私に痛切に分かるのは自分の過ちで自分の子供を死なせてしまった母親、というシチュエイションである。この地獄はおそらく神などという観念では救われるものではない。想像しただけで狂おしくなる。そうした血肉をもった苦悩が石原吉郎の陰の部分にあったはずだと私は思っている。

 

 もちろん戦争中の石原にいかなる「加害」があったのか、なかったのかはついに分からない。小柳は、その石原の分からなさを、例によって「形而上」的な深刻さの方へではなく、その切腹事件すらも、とりまき女性たちによる狂騒曲を巻き起こしてしまう方へと、あくまで「何でもないこと。石原吉郎の作品にとっても、人柄にとっても、ほとんど重要性のない、いくつかの何でもないこと」という形而下に引きずり落としてしまう。石原を、特権的な主題をもつシベリア詩人にまつりあげる周囲を尻目に、あくまで「帰還」した「サンチョ・パンサ」として捉えるのだ。石原「礼讃」だった当時を考えれば、きわめて批評的なふるまいといえよう。

 

 小柳は、述べてきたように、石原が出会いの頃から「シベリアには女性がいなかったこと」、「自分が野獣であること」、「初期〈ロシナンテ〉のメンバーには喜んで「性」の日記を見せていたこと」を書いた。詩という形式=輪郭は、むしろそれらを「泥沼=闇」として「祈」りとともに封じ込める楯か鎧のようなものではなかったかと。

 

私を盾とよぶな/すべて防衛するものの/名でよぶな

 一枚の板であれ/それは/祈られて/あるものだ…(「板」)

 

 「虚偽」や「余計」どころではない。そういってよければ、それはむしろ石原にとって不可避の「本質」だったのだ。〈ロシナンテ〉の頃は、その「本質」をさらけ出し「裸」でいられたのだ、と。

 

ロシナンテ〉という非常に小さい共同体の中で、彼は彼なりの青春を燃焼させたと思われる。そこでは彼は可能な限り裸になっていられた。仲間が詩を書かなくなったことを、あんなに心をこめて怒り、一番救いようのなかったグータラな私が一番早く詩に舞い戻ったことを、あんなに喜んだのは、彼にとって〈ロシナンテ〉がいかに大切な場所であったかということだ。しかし赤児と同じく、全ての人はいつまでも裸ではいられない。彼は他の詩人よりも早く着物をつけなければならなかったし、その着物は運命のいたずらによって僧服のような重さをもった着物だった。もっと無頼者の着物が選べる運命だったら、この詩人はどんなにか気が楽だったろう。

 

 そして石原吉郎にとっての人生とは、常に時間が狂っており、いつも「遅すぎる」か「早すぎる」かだったのだと。

 

石原吉郎の人生で時間はいつも大幅に狂っていた。彼はその時間の狂いに上手についていくことができなかった、ひときわ長い抑留生活、遅すぎる春、早すぎる有名詩人への昇格、死はまた彼にとって遅すぎた。人間であることをやめてしまったほど、苦しい数年を経てのろのろと死はやってきたのだった。

 

 石原の「位置」は、どうしようもなく常に狂っていてズレていたのだ。

 

〔…〕勇敢な男たちが目指す位置は/その右でも/おそらく/そのひだりでもない

 無防備の空がついに撓み/正午の弓となる位置で/君は呼吸し/かつ挨拶せよ

 君の位置からの/それが/最もすぐれた姿勢である(「位置」)

 

 小柳が最後に石原を見、石原の声を聞いたのは、一九七七年の死の年、現代詩人会会長として、H氏賞授賞式で賞状を渡すために(受賞者は小長谷清実)、石原が来場した折だった。「選考の席には出ないくせに、晴の舞台で楽な格好いい役はやるんですね」という批判が関係者の間でささやかれるなか、石原は役目を終えると早々とロビーに出てきた。

 

折しも何人か、彼とゆかりの深い人々がロビーの椅子に坐っていた。私もその一人だったが、こわばった感じのする彼に挨拶がしづらく顔をそむけていた。通路の中央を歩いて出口へ向かう彼はいかにも一人ぼっちに見えた。誰一人、親しく彼に声をかける者はなかった。椅子から腰を浮かす者すらなかった。全員、ほんの少し会釈をしただけである。その冷たい視線の中を歩いていく彼の背中が、私の見た最後の石原吉郎である。

 また出口の、たぶん受付にいた誰かに喋っている彼の、かなり大きい声が私の聞いた最後の石原吉郎の声である、それははっきりとこう言っていた。

「僕はこれで現代詩人会を退めさせてもらいますよ。こんないやな人ばかりいる会には、とてもいられませんからね」

 私はなぜかぐったりと疲れ、もう一年前のように、石原吉郎に対し、あれこれ反応する気力が失せていた。すでに石原吉郎に関し細かい事柄をキャッチする興味もなくなっていたのだろう。その原因の一つはあまりにおびただしい彼についての、女性たちの風聞が毎日毎日耳に入り、神経が参っていたのである。

 その十一月、私は電話で石原吉郎の死を伝えられた。その電話が誰からのものだったか、今、いくら考えても思い出せない。ただ私は一言、「あ、よかったわね」といった覚えがある。

 ほんとうによかった、と思ったのだ。深い安堵の思いが拡がっていき、くたくたと電話の前にしゃがみこんでしまった。

 この四、五年、石原吉郎にとって生きていることが、どんなに辛いものであったか、私は私なりに理解していたのだ。彼は安らかに眠れる夜を、こよなく欲していたに違いないのだ。周知のように石原吉郎は十一月十四日、自宅で入浴中に急性心不全で亡くなった。翌十五日訪問した笠原三津子によって発見されたわけだから、長い時間、湯舟に浮いていたわけである。想像しただけで痛々しいが、ずっと後の日、笠原三津子が「少し赤味のさした、きれいな死顔でした」と語っていたことが、いくらか私を慰めた。その肉体の死が、烈しい苦痛を伴わなかったことだけでも幸福に思えた。石原吉郎の生は、痛いことばかりの連続だったのだから。

 

 長い闘病生活をしていたわけではない人が死を迎えた時に、なかなか「ほんとうによかった」とは言えないだろう。小柳が見てきた石原は、最初「機械」だった男が「人間」になり、ずいぶんと長い間、その「人間」であることをやめてしまっていた。誰一人、親しく彼に声をかける者もいないなか、冷たい視線の中をひとり石原が歩いていく。何と「遅すぎる」死であったことか。

 

 だが、小柳の「ほんとうによかった」という声に逆らって、石原にとって、死は「終り」でも「救い」でもなかった。石原においては、死もまた、換喩的に散文的に持続する「過程」にあるのだ。サンチョ・パンサの「過程=行方」は「未来」へと続くのだ。それが形而下の残酷さというものだ。

 

 

 重大なものが終るとき

 さらに重大なものが

 はじまることに

 私はほとんどうかつであった

 生の終りがそのままに

 死のはじまりであることに

 死もまた持続する

 過程であることに

 死もまた

 未来をもつことに(「はじまる」、『足利』)

 

 それは「断念」することで「生」の「輪郭=形式」を設える「決意」、その「決意」そのものを「手放」すことだった。石原にとって「機械=形式」をやめて「人間」になることは、もはや「人間」としての「決意」を放棄することだったのだ。石原に「ポスト人間」などないのである。

 

 水に入るひとの決意を

 想ってもみただろうか

 くるぶしから 腰へ

 腰から胸元へと

 ひたして行く水の

 ひっそりとした気配を

 それは決意の持続ではない

 決意そのものの

 茫然たる手放しでもあったはずだ

 決意をさらに呼ぶはずの

 決意は

 そのままひっそりと

 水底へ沈みおちた(「入水」、『足利』)

 

 詩から散文へ。

 これほどまでに近代の力学をまともに受け、詩への「決意」=詩的決断を「断念=手放し」させられていく「過程=行方」を生きた詩人もいないだろう。詩人に「戻っていく優しい場所がある」などとは、そう書いた小柳自身もむろん思っていなかった。だから、あくまでそんな場所がある「としたら」なのだ。だが、この小柳の『サンチョ・パンサの行方』がその「優しい場所」になったと思う。こんなに言葉の真の意味において優しく、同時に石原にとって厳しい批評もないだろう。『サンチョ・パンサの行方』というタイトルには、ともすると宙へと舞い上がってしまう詩人を、地上におしとどめようとする思いがこめられている。そして、地上におしとどめることは、常に地下を感受し続けることだ。支配的な価値判断を先行させずに、石原に「何でもない」唯の物として対し続けることだ。

 

 言うまでもなく、それが最も難しい。

 

中島一夫