遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その7

 「棒をのんだ話」に戻れば、夕方六時に棒を抜かれた「僕」は、さんざん泣きはらした後、それが「僕にとっては自由というもののはじまりかもしれない」と思いつつ、「おもてへとび出して行く」。そして「奇妙に動物的なものの気配が、僕のからだのどこかでかすかにうごめくのを感じ」る。

 

〔…〕すると僕は、おんながあるいているのを見るのだ。

 だが時には、ひと晩じゅうあるきつづけても、一人の女にも出会わないことがある。女ばかりではなく一人の男にも会わないのだ。そのような時、僕が出あうのは、銅像と犬だけである。この町には、馬の銅像が三つと、革命家の銅像が一つある。たぶん一生のあいだ失敗ばかりしつづけて、銅像になるほか仕方のなかった革命家なのだろう。なぜなら、この国に革命があったという話を、僕は聞いたことがないからだ。だがひと晩じゅうあるきつづけても、僕が出あうのは馬の銅像ばかりである。革命家の銅像がどこにあるかは、ほんとうは僕も知らないのだ。

 

 「ひと晩じゅうあるきつづけても、一人の女にも出会わないことがある」。前回見たドン・ファン気質である。石原においては、「女」に「出会う」(だが「女」は女なのか。これについては後で触れる)ことは(棒をぬかれた)「自由」の領域にある。ここでは「男」は「女ばかりではなく一人の男にも」と、「女」に隣接するがゆえに換喩的に呼び出されるにすぎない。

 

 「棒をのんだ話」の「棒」が何なのかは定かではない。石原自身、「むろん「棒をのんだように」という古典的な比喩があって、今でも結構リアリティを持っていることは僕も知っているが、この場合は比喩とはなんの関係もない」と、何かの「比喩」である可能性をあらかじめ退けている。だが、この小説が、隠喩でないにしても、換喩的な手法で構成されていることは否めないだろう。そして、以下の佐々木幹郎の解説のとおり、換喩はまた石原詩の方法でもある。佐々木は、「方向」という石原詩を引きつつ、「棒をのんだ話」についても述べている。

 

それはあてどもなく確実であり ついに終りに到らぬことであり つきぬけるものをついにもたぬことであり つきぬけることもなくすでに通過することであり 背後はなくて 側面があり 側面はなくて 前方があり くりかえすことなく おなじ過程をたどりつづけることであり 無人の円環を完璧に閉じることによって さいごの問いを圏外へゆだねることである

(「方向」、詩集「斧の思想」所収)

 

 石原吉郎の詩の特徴のひとつに、比喩の両極である隠喩(メタファー)と換喩(メトミニー)のうち、換喩によって全体を比喩するということがある。隠喩の軸よりも換喩の軸に偏るという方法をとるのだ。「方向」という詩篇では、「背後」や「側面」や「前方」というような、作品世界の内部で隣接しあっている構成要素を、部分ごとに採り上げ、それを次々と組み立てることによって、作品全体の比喩を完成する、という方法である。これは散文作品でも踏襲されていて、「棒をのんだ話」はその典型である。

 ここから放り出され、拒絶されるのは、社会科学や社会思想(政治)の抽象言語である。この詩語の方法からは、他者への告発も、自らを被害者と考えることも成立しない。失語の体験を経た石原吉郎にとって、シベリアで見たもの以外に、代替可能な言語を見つけることができなかったからである。それは別の角度から言えば、石原吉郎の倫理と言ってもよかった。(佐々木幹郎「失語という戦慄」、『石原吉郎詩文集』解説)

 

 石原においては、言葉は「作品世界の内部で隣接しあっている構成要素」としてのみあって、作品世界の外部の何かを「表現=表象」しているのではない。「詩は表現ではない」(入沢康夫)のだ。石原においては「言葉は表現ではない」と言ってもよい。「表現」の次元で言葉を用いようとすれば、「シベリアで見たもの以外に、代替可能な言葉を見つけることができな」い石原は、たちまちシベリアに戻って「失語」に陥るだろう。それが石原の「原点」なのだ。

 

 したがって、小説「棒をのんだ話」は、前回の小柳の言うように、書かれた経緯を見れば「この作品は決して散文形式をとった詩ではなく、小説として構成されたもの」だといえるものの、換喩によって作品世界が構成されているという意味においては、佐々木幹郎の言うように、「散文形式をとった詩」といってよいだろう。というより、石原においては、シベリアの「隠喩」も「表現」も存在しないのである。したがって、それらをきっぱりと「断念」し、あらかじめ作品世界を「輪郭」で囲った「形式」においてしか言葉は存在し得ないのだ。それが石原の「定型」であった。

 

 「棒をのんだ話」もまた、「棒」やそれを「のむ」というその内容や意味ではなく、それがきっかり六時に始まり六時に終わるという「定型」のあり方のみが描かれているといってよい。だからこそ、六時以降の「僕があの棒となんのかかわりも持たないでいい時間」=自由という「定型」の「外」においては「おんな」や「革命」への情動が喚起されるのだ。もちろん、「おんな」も「革命」も作品世界の外部に何ら現実や実体として対応物をもってはいない。したがって、「ひと晩じゅうあるきつづけても、一人の女にも出会わないことがある」し、「この国に革命があったという話を、僕は聞いたことがない」と、すぐさまそれらは否定され「表現」を「断念」されることになろう。

 

 先に触れたように、小柳がこの「棒をのんだ話」に感動したのは、「シベリア抑留体験が基盤になっていないこと、他者の中の自己を描こうとしていること」にあった。そしてこう述べる。

 

しかし私は後に読んだいくつかのエッセイよりも感動したのだ。多少カフカの「変身」ふうな設定の中で主人公が他者もみなそれぞれの棒をのんで暮していることを知るくだりで胸をつかれたのである。もちろん書き手が石原吉郎であることが感動を大きくした。石原吉郎は自分の孤独、自分の傷がたとえようもなく深いと思っている人で、他者がどうであるかということには無関心な面が強かった。このことは私が言及するまでもなく澤村光博の論評に詳しい。しかしこの論評は的を得て、共感者も多いものであったが、やはりあくまで理屈だといえる。石原吉郎は哲学を示したのではなく、純粋に自分を語ったのであるから、他者はどうでもよかったのだ。その石原吉郎が他者の中に在る自分を描いたことに、三十代を迎えたばかりの私は感動したのだ。

 

 石原の詩が、自分のことしか書いていない、きわめて自閉的で内向的な言葉だということは、ここに挙げられている澤村光博に限らず数多く言われてきた。なかでも最も影響を与えたのは、石原の死後に言われた吉本隆明のその種の発言だろう。小柳は、そんな「他者はどうでもよかった」石原が、「他者の中に在る自分を描いたこと」に感動したという。「他者」を描いたのではなく、「他者の中に在る自分」を描いたということが重要だろう。それは鹿野武一という他者を自分に同一化させ、さらには英雄化してしまった石原ではない。同一化できない、しかしどこかで共感、共鳴せざるを得ないという距離感と関係性で、自己と他者とを捉えることだった。具体的には「主人公が他者もみなそれぞれの棒をのんで暮らしていることを知る」という関係性である。

 

だが僕にとってその時のすべては、かけがえのない新しい経験だったのだ。得体の知れない熱いせつないものが喉もとへいっせいにこみあげてくると、僕は知らずしらず立ちあがっていた。僕には、同僚や上司たちをつぎつぎに見まわして行く自分の視線が、次第に火のようにあついはげしいものに変って行くのが、自分でもよくわかった。(こいつも……そしてこいつも……。そろいもそろって、よくもまあこんな大変なことを……。ひとりのこらず同罪じゃないか……。)

 部屋のなかがいきなりしんとした。誰も彼もが不意に腰を浮かすようにして、いっせいに僕の方を見た。僕は彼らに対して、まったく唐突に愛を感じた。僕はなにかしゃべりたかった。だが声にはならなかった。〔…〕あいつが腰かけていたのは、何かずっしりした根拠のようなものだった。僕は自分の頭をかかえた。なんだか妙なかたちのキャベツをかかえているような気持だった。キャベツの真中に、世界の中止のようなまっくらな芯があるのだ。僕は知らずしらず涙を流していた。だがありがたいことに、今度は両方の目から一緒だった。僕はなんとなく気をうしなって行った。

 

 「僕」は自分以外の誰もがみな「棒をのんで」いることを知り、彼らに「唐突に愛を感じた」。だが同時に、作品は、「棒をのんで」いることで彼らを安易に同一化させないのである。「僕」はあの「オールドミス」にこう言われる。「棒をのんでるってことだけで、人間の問題がそのままおなじになるなんて考えられないじゃないの」。だからラストで「僕」が「よし、あした教会へ行ってやる」と言っても、「オールドミス」は「そうしなさいよ」と「不思議なほど気軽に応じ」ながらもこう言うのだ。「それでなにかが変ることはないにしてもね」。

 

 「棒をのんでいる」人間たちを互いに同一化させるような「教会=超越性」など存在しない。これはほぼ「棒をのんだ」言葉たちが、この作品世界の中では互いに隣接しながらも、それらを束ねて同一化させるようなメタ言語は存在せず、したがって「隠喩」的で相似的な「表現」は成立しないという、石原の反—隠喩的なまでに換喩的な言語のありようそのものといってよいだろう。

 

(続く)