遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その2

 まずは、小柳玲子が詩を読んでいた頃に持っていた石原吉郎への尊敬を失っていった、いくつかの「断片」を見てみよう。石原の死の三年前にあたる一九七四年、石原は詩人・杉克彦の三回忌を行わなかったと言って、なぜか小柳を非難する。

 

「杉君の三回忌、とうとうやりませんでしたね」と唐突にいった。口調の中に色濃く非難が含まれていたので私はすぐに返答ができなかった。

「あなたたち、追悼文ばかり書き散らして三回忌の集まりもやる気はなかったのですか」

 私ははかばかしい返事をしなかった。しようがなかったのである。そのままずるずると外へ出て、私たちは銀座の人混みを歩き出した。私は金沢星子と二人で歩いていた。話題は何のはずみか前出の生路洋子に及び、私はその詩人の作品はあまり読んだ記憶がない、と彼女に告げた。私の声が大きかったのかもしれないが、ずっと前方を嵯峨信之と連れだって歩いていた石原吉郎が、突然くるりと向きを変え私たちの方へ戻ってきた。

「生路洋子の詩は立派なものですよ。それに目のくりくりした可愛い人です」

 私の前に立ちはだかるようにして語気荒くそういった。

「くりくりしているか、どうか知りませんが――」私はやっとの思いで激しくなる声を抑えていった。「私は石原さんに話していたのではありません。金沢さんと話していたのですから」

 何とも可愛げのない返事をしたものであるが、要するに石原吉郎が私に向けてつきさしてくるトゲのようなものを私は察知したのだ。杉克彦三回忌も生路洋子も言いがかりにすぎない。何かもっと奥深いもの。彼が口に出すわけにいかない憤懣のようなもの。しかし何日考えてもそれは私に分からなかった。

 何故なら書くまでもなく私は石原吉郎に較べて、ごみのような詩人であり、遠方から尊敬していただけの関係である。それだけに私としては石原吉郎に憎まれるのは悲しかった。

 

 当時、病気の子供を二人抱えていた小柳に、とても杉克彦の三回忌をとりしきる余裕はなかった。やりたかったら石原自身がとりしきればよいだけの話だ。つまり、「この時すでに石原吉郎杉克彦などどうでもよかったのだ」。この時のことに触れて、小柳はこう述べている。

 

まだほとんどの人が気付いていなかったが、この頃から石原吉郎は少しずつ毀れ始めていた。杉克彦をかまっているゆとりはなかったのである。

 詩誌〈ロシナンテ〉の時代から、私が尊敬し信奉していた石原像は内部から亀裂を生じつつあり、その初めの徴候が、私の見ている限りではこの日にあった。

 

 また、その二年後の一九七六年、小柳は石原に次のように持ちかけられる。

 

「今年のH氏賞、Kさんの詩集に一票入れてくれませんか」

 この言葉を石原吉郎の口から聞いた時、私が耳を疑ってしまったのは、先に書いた事情があったためである。断っておくと、この件はKが彼に頼んだのではなく、彼が一人で彼女の詩集に肩入れをして身勝手に走りまわっていたのである。

 

 誰かの詩集に一票入れよ、などは別に何ほどのこともない。よくある文(詩)壇政治だろう。だが、小柳にとって、これはほとんど石原の変節、転向といってよかった。なぜなら、小柳は、それまでさかんに「詩だけを見なさい。詩に直接関係のないことに惑わされては駄目です。人柄によって詩の評価を上下させるようでは自分も駄目になります」とか、「詩が良いと思った人に一票入れなければ駄目です。目上の詩人から頼まれて入れたり、徒党を組んだりしないように」という教えを受けてきたからである。小柳は次のように述べている。

 

ロシナンテ〉の生き残りということで石原吉郎の、当時私に対する労わりは過分のものがあった。折をみては私の仕事場である画廊に訪ねて来て、右も左も分かっていない私に詩壇での身の処し方を諭してくれた。それは大変厳しく内面的なもので、私は固唾を呑んで一言一句聞き逃すまいとしたものだった。

 私は石原吉郎のストイックな教えを守ろうと必死であったが、晩年の彼は、自身が私に諭したことと正反対のことを一つ一つ私の眼前で実行し、私を救いようのない失意の底へ堕して他界した。

このことについては後に詳しく触れるが、どのように後の失意が大きくとも、この当時の至福の時間を思えば、私の詩人としての半生は満ち足りたものだといわざるを得ない。

 

 そして、同じく七六年、小柳が「襟巻事件」と呼ぶ出来事が起こる。この年の七月、崔華國の娘夫婦が来日し、崔に世話になった詩人たちが歓迎パーティーを開いた。西脇順三郎、吉原幸子石垣りん吉増剛造といった錚々たるメンバーである。その席で小柳は石原に「ここへ来なさい」と隣の席に座らされる。

 

「小柳さんに注意したいことがあります。ひとつは友人を次々取り変えること。これは悪いことですよ」とまず彼はいった。

「私が? 友人を――ですか?」

「そうでしょう。あなたはいつ崔さんと知り合ったんです? 今日集まった人は皆崔さんの高崎時代からの知人ですよ。新顔はあなたくらいでしたよ」私はあきれたあまり返事ができなかった。

「それに詩学社の新年会にも出ていたでしょう? あなたは詩学研究会に何の関係もないでしょう」

「それが何か石原さんにおさしさわりがあるんですか?」おそらく私は蒼ざめていたことだろう。自分がひどい侮辱を受けているのだということが遅ればせながら分かってきたのだ。

「もうひとつはね、お喋りをつつしみなさい。あなたのお喋りのために、私は今回公的な席をおろされたんですよ」

 私は悲鳴に近い声をあげてしまった。そんな馬鹿な話がどうしてあり得よう。私のような雑魚がどうやってこの著名な詩人を公の席から追い出せるというのだろう。

「私は長年続けていた(東京詩学の会)の講師の席を退めさせられたんです。あなたがあの時の襟巻の話を喋るからですよ」

「あの時? 襟巻? (東京詩学の会)?」私は金切声を上げていた。「嘘です。そんなアホらしい三題噺、私には分かりません。だいたい私は(東京詩学の会)なんて一度も出たことがありません。いつ、どこで、開かれているのかも知りません」

 残念だがこの話はここで途切れてしまう。喫茶店閉店時間になり私たちは外へ出されてしまったのだ。私はよろよろと道路へ出た。折よく先に外へ出た村岡空と目が合った。おそらく泣き出しそうな顔で事の顛末を私は彼に喋った。

 

 そして、石原が忙しいから自分から退めさせてくれと言ったのを、誰も引き留めなかったためにそのまま引っ込みがつかなくなったという事実を知るのだ。

 

そうか――何ともおそまきに私は納得したのだった――子供っぽいまでの石原吉郎における淋しさ。胸の痛くなるような孤独。大勢の中で泣き出して慰められる、「退める」と言って「退めないでください」と引きとめられる、そんなにも見えすいた慰めすら彼には必要だったのか。彼の散文や後期の詩に現われる毅然とした姿とは何と裏腹な、弱々しく、人間らしすぎる詩人像だろう。〔…〕その引っ込みのつかなくなった恨めしさの八つ当りがなぜか私の頭上に降ってきてしまったのだった。

 

 この前年、石原が小柳に声をかけ、「これ僕のために編んでくれたんですよ」と「著名な女流詩人の名をあげて」襟巻をうれし気に見せてきたことがあった。その時、ある会の受付をしていた小柳は、受付に戻って来てその話を周囲にした。ある講演会の受付を襟巻事件とは、これを受けた石原の妄想に端を発する。

 

石原吉郎の言によれば、その私のはしたない話を、傍らで(東京詩学の会)会員が聞いていた、そしてそのようなおのろけをいう石原吉郎は公の席の講師にふさわしくないと訴え、彼は役目をおろされたのだ、とこうなるのである。

 当時、私はこの私への非難を、それなりに半分くらいは信じていた。現在思えばかわいらしいものである。私はごく最近になってこの襟巻の件の真相を教えられ失笑してしまった。それは襟巻を贈った主にも、ましてや私には何の関係もない痴話げんかのとばっちりだったのである。(公の席)が聞いてあきれる(私の席)、犬も喰わないという類いの話だったのである。この詳細を今私が書くわけにはいかないので、何とも奥歯にものがはさまってしまうが、大きな才能を有つ人間は、些細な言動でも周囲をゆり動かしてしまうし、そうした才能の持主が崩れていく時は多くの他者を傷つけずにはおかないのだろう。

 

 石原による妄言や「ひどい侮辱」は小柳を「打ちのめし」、小柳に「彼の散文や後期の詩に現われる毅然とした姿とは何と裏腹な、弱々しく、人間らしすぎる詩人像だろう」と思わせる。信じられないような侮辱を受けた時期に、リアルタイムで発表された「散文や後期の詩に現われる毅然とした姿」は、小柳にとってはあの深い「溝」でしかなかっただろう。「私には詩人がしばしば使った(断念)という言葉は真実のところよく分からない。あんなに酔い痴れ、ぼろぼろになり断念でもなかろうに――という気持が強い」。「(断念)などというそらぞらしい断言」。小柳にすれば、「何が「断念」だ」という思いだったろう。

 

 そして、その思いは、石原を知る前に感動し尊敬した詩からも小柳を遠ざからせるのだ。詩集『サンチョ・パンサの帰郷』所収の「おれが忘れて来た男は/たとえば耳鳴りが好きだ」で始まる詩「耳鳴りのうた」を引きながら、小柳はこうつぶやく。

 

彼はあの清冽な男を、どこへ忘れてきてしまったのか。悲しみすら清潔で初々しかったあの男と彼はどこですり変わってしまったのか、何が彼をこんなに無惨に、ずたずたにしてしまうのか、私には今でも分からない。その頃から死までの、ほぼ一年余り、彼はそこそこの女流詩人にやたらとラブレターまがいのものを送り付け、電話をかけ、のたうちまわっていた観がある。

 

 晩年、アルコール中毒に陥った石原は知られていても、小柳をはじめ、周囲に迷惑をかけまくる石原(先にも言ったが、今だったらハラスメントで訴えられるレベルだろう)はどれぐらい知られているのだろうか。

 

 小柳の石原の覚え書「サンチョ・パンサの行方」というタイトルは、むろん石原の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』をふまえている。戦後、突然シベリアから「帰郷」したサンチョ・パンサという「清冽な男」が、しかしその後その姿を自ら「忘れて」いく過程=行方。その過程=行方にどうしようもなく居合わせてしまった小柳にすれば、「帰郷」前のシベリア体験は、さらに遠いものであったろう。小柳が、石原のシベリア体験をそれほど重視しないゆえんである。

(続く)