遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎

 

 

 人は詩人に詩の中で会うのか、それとも詩の外で会うのか、詩に内と外はあるのか。

 小柳玲子の『サンチョ・パンサの行方――私の愛した詩人たちの思い出』(二〇〇四年)を読むと、そんな愚問を発さずにいられない。

 

 昨年、詩人の小柳玲子が亡くなった。会ったことはない。小柳の『サンチョ・パンサの行方』は何度も読み直すほど好きで、ずっと会ってみたいと思っていた。本を読んで書き手に会いたいと思うことはめったにない。また小柳のような詩人(というか「人との」と言うべきだろう)との関わり方をする詩人(あとがきに「詩人としての愛が、世の常識のものとはまったく様相を異にしているのだということを、私が愛した詩人たちが分かってくれていると、いまはそう信じている」とある)と会ったところで、おそらく何か話が合うことはなかっただろう。それでも会ってみたかった。

 

 もちろん、本の大半を占める石原吉郎のことを聞いてみたかったのは大きい。石原の詩「夜の招待」の引用で幕を開ける本書は、次のように続く。

 

どうか石原吉郎の詩を読んでいただきたい。そこに石原吉郎が確実に存在する。他者が記した「石原論」の中にはほとんどいない。彼自身が記した、見事ないくつかのエッセイ、その中にすら真の石原吉郎はいないように思える。エッセイの中に現われる石原吉郎は何かの役を演じているような趣きがかすかにあり、すべては整然としすぎている。

 私たちが石原吉郎という人を全く識らず、ただその詩を読んだ瞬間の、衝撃。それをもう一度味わってくれと頼むことはすでに不可能であるが、せめていくつかの初期の名作を、この稿と共に読んでいただくのが、私の第一の目的である。(小柳玲子『サンチョ・パンサの行方――私の愛した詩人たちの思い出』。以降、特に断りがない場合は本書)

 

 私は石原吉郎のエッセイを論じて批評を始めた。だから、この一節を自分への批判として読んだ。もちろん、一九八六年から八九年にかけて連載された小柳の上記の一文が、二〇〇〇年の拙稿に対するレスポンスのはずはない。だが、拙稿は、石原のエッセイばかりで詩をまったく論じていないという批判を多々受けた。それに対しては繰り返さない。また、ある時期から、シベリアエッセイに傾きがちだった石原への関心を、「ポエジー復権」とばかりに詩の方へと引き戻そうとする論調にも全く同意できない。石原にとって(短詩も含めた)詩と散文とは両極をなしており不可分である。どちらか一方を重視することは、石原への無理解でしかない。

 

 「どうか石原吉郎の詩を読んでいただきたい」という小柳の主張は、一見それらの論調に連なって見える。だが、小柳の本に描かれた石原像はあまりに生き生きと(なまなましくと言った方が適当か)魅力的で、かえって読む者が石原詩に向かうことを妨げているようにすら思える。小柳の一冊は、石原を読んだことのない者を詩に近づけるかもしれないが、そうでない者にとっては、むしろ石原詩を粉砕しかねない破壊力を備えている。そして、それは、当の小柳玲子自身を襲ったことでもあるのだ。

 

石原吉郎が亡くなってすぐの頃、つまりは昭和五十二年から五十三年にかけて、女性詩人の何人かが「自分は石原吉郎に愛されていた」「自分はラブレターをもらった」「自分は××をもらった」とかしましく言いたてて周囲を辟易させた。それぞれの女性には、それぞれの言い分があるのだろうが、つきつめれば自己顕示欲なのである。顕示するに足りる自己だという信念があるのなら、自分の才能によって名をあげればよいものを、有名詩人に愛されたことのみで、何とか注目を浴びたいと、必死になる輩である、どうせろくな詩人ではない。詩人と呼んでいいのかどうかも判然としない。いや、もしかするとそういうのが詩人なのかもしれない。〔…〕要は石原吉郎がやはり存在として大きかったことである。あれが壊れた小詩人であったら手紙など誰が五月に書こうが、六月に書こうがよかったのである。私が悲しいのはそんなことではなく、この騒ぎが静まった後も、この詩を読むともう以前のような透明感がなく、どのように頭を振って読み直しても、雑々たる想念が詩を汚らしくしてしまうことである。

 

 ならば、石原の「覚え書」をなまなましく描くことは、読む者の「雑々たる想念が詩を汚らしくしてしまう」ことにならないか。なにしろ、ここに描かれた石原は、現在であればパワハラ、セクハラで訴えられてもおかしくないような人物像なのだから。おそらく、そうした訴えによって関係が切断されずに、このような文学者の肖像が描かれることが可能だった最後の時代だろう。

 

 いや、本書で小柳は、一時期異様に高まっていた石原吉郎の神話破壊を目論んだのだろう。そのうえで、人々にまっさらな状態で石原の詩に向き合ってほしかったのだろう。小柳の描いた石原像にはそんな愛と憎しみがあふれている。

 

 小柳は最初、当人を知らずに読んだ石原の詩に圧倒され、尊敬し、だがやがて知り合った人間石原に翻弄されていく。「書かれたものと書いた人間との間にある深い溝」に茫然とするのである。だが、小柳にとって、詩とは、詩を読むとは、この「溝」をも含めてあるものなのだ。「しかし石原吉郎はこの溝も含めて、いつかずっと後の日に、静かに伝説になりきるだろう。この溝を抜きにして彼を語っていれば、彼は中途半端な像をしか結ぶことができずに終わってしまいそうである」。これは石原に限らず、本書で描かれる黒部節子杉克彦、水沼靖夫、北森彩子についても同様だといえる。

 

 むろん、「書かれたものと書いた人間との間に」ギャップがあることなど当たり前だ。小柳にとっての石原が特異だとしたら、この「溝」がそのまま石原の文学そのものがはらむ「溝」であり、さらに言えば現代詩が直面した歴史性をも体現していたことであろう。いわばそれは、ただの「溝=ギャップ」ではなく、そうした意味において「深い溝」だった。しばらく、この「深」さを漂ってみたい。

 

(続く)