サイードと非―ヨーロッパ人 その1

 出口の見えないガザの状況から、またしてもサイードが盛んに呼び戻されている。例えば、篠田英朗は「オリエンタリズム」をキーワードとして、現状を次のように分析する。

 

欧米諸国の指導者たちは、イラクアフガニスタンでの失敗から、「オリエンタリズム対テロ戦争」に懐疑的になったはずだった。ところがウクライナ情勢をめぐり、ロシアという「東方」を侮蔑し、邪悪で弱いものとみなしたい衝動を押し殺せなくなった。そして23年10月7日のハマスのテロ攻撃を見て、イスラエルの占領統治の歴史を忘れ、邪悪で弱い中東のテロリストを駆逐する正しく強い白人、という構図を振り回す魔力に引き寄せられ、感情的なイスラエル支持を打ち出した。

 ガザ危機をめぐり欧米諸国が浴びている「二重基準」の批判は、いわば世界を二分法的に理解したいという「オリエンタリズム」の思考への批判である。欧米人たちも、無意識的に「オリエンタリズム」に陥ってしまっているだけなので、積極的にそれを擁護する準備はない。欧米諸国は、ガザ危機を契機にして、今後も権威を失墜させ続けていくだろう。(「ガザ危機で岐路に立つ国際秩序」2024年3月1日「週刊読書人」)

 

 「オリエンタリズム対テロ戦争」。まさに、イスラエルは、昨年10月のハマスのテロ攻撃をすぐさま「9・11」に準え、「対テロ戦争」の枠組で「反撃」を正当化、合理化しようとした。9・11以降の世界は、まるでサイードオリエンタリズム批判などなかったかのようだ。サイードの『オリエンタリズム』は、「ポストコロニアル」思潮の一つの源泉といわれる。だが、果たして、「コロニアル」の「ポスト」など本当にあったのだろうか。篠田は言う。

 

冷戦終焉後の世界における欧米諸国主導の「リベラルな国際秩序」は、「ポストコロニアル」な視点からは、多分に問題を含みこんだものであった。「リベラルな国際秩序」とは、欧米諸国が、形式的には植民地支配を回避しながら、しかし、自らの価値観を他の地域の人々に押し付けて作り出すもののことなのではないか、という疑念が生まれるようになった。欧米諸国は、国際社会の擁護といった美辞麗句の影で、他者の利益を毀損して、自己利益の追求を図る態度をとっている、とみなされるようになった。

 ガザ危機が、欧米諸国の「二重基準」を劇的に示してしまった。

 

 欧米主導の「リベラルな国際秩序」が、その実「自らの価値観を他の地域の人々に押し付けて作り出す」コロニアルなものにすぎないことは、もはや隠しようがない。だが問題は、単にこれが欧米による欺瞞的な「美辞麗句」と言って済ませることができないことだろう。

 

 かつてすが秀実は、サイードの「オリエンタリズム」批判があってもなお「オリエンタリズム」が終焉し得ない理由を、次のように論じた。

 

西欧(ヨーロッパ、オクシデント)対東洋(アジア、オリエント)という思考の範列が、サイードの『オリエンタリズム』といった著作の出現によっても、いまなおその機能を発揮しえている理由は幾つか考えられるが、最も基本的な問題は、その範列が、近代において普遍的と見做されるコミュニケーションのモデルに合致しているからであろう。この範列では、西欧は「主人」で普遍性であり、東洋は「奴隷」で特殊性にほかならないとされるところの、いわゆるヘーゲル的なコミュニケーション・システムが前提とされていると言えるが、近代と呼ばれる時代が、このシステムの汎世界化を刻印されると同時に始まったとすれば、「奴隷」の立場からする「主人」に対する抵抗が、いかに「主人」の普遍性の欠陥を指摘し、自己の特殊性を主張しようとも、コミュニケーション・システムを揺るがすことはありえない。〔・・・〕おそらく現代は、「奴隷」の抵抗が、全て卑小なカリカチュアに過ぎず、西欧の普遍性が東洋によって実証されてしまった(と見做される)時代なのである。(「方法としてのフェティシズム」1989年、『小説的強度』所収)

 

 サイードの「オリエンタリズム」批判が、まるでそれがなかったかのごとく何度でも回帰するのは、いわばそれが「近代において普遍的」な「主と奴」というヘーゲル的なコミュニケーション・システムに即しているからである、と。

 

 そして、「主と奴」がコミュニケーションを規定するのは、近代の資本主義においては、商品aと商品bの交換は、一見そう見えるような対称的な関係ではなく、根源的に非対称的な関係にあるからだろう。商品a所有者とb所有者の立場は、相互に対等ではないものの(柄谷行人が『探究Ⅰ』でいうところの「売る立場」と「買う立場」の非対称性)、資本制の交換=コミュニケーションにおいては、それらは自由で平等な立場同士の「等価交換」と見なされるという擬制が働いているわけだ。そして「等価交換」だからこそ、そのコミュニケーション・システムは「普遍性」と見なされてきたのである。aとbとの関係は決してフラットではなく、「主と奴」の権力関係を含みこんだうえで横倒しにされたものにすぎない。商品aと商品bとの交換関係とは、主人と奴隷の権力関係といった「近代未満」が、すでに乗り越えられたかのように偽装的に隠蔽されたものなのだ。真にフラットな関係であれば、商品にフェティシズムが宿ることなどあり得ないし、また、その結果、諸商品の中からその上に君臨する「貨幣」的なものが生成されることもあり得ない。「主と奴」の権力関係は、貨幣(所有者)と商品(所有者)の関係へと形を変えているのだ。。誰でも「貨幣」を所有すれば(「貨幣形態」に立てば)、権力を手に入れられるという意味では「自由」「平等」だが、権力関係自体が消滅したわけではない。近代のリベラルなコミュニケーションには、このように常に権力関係の「物神性とその秘密」(マルクス資本論』)が潜在していることを忘れてはならない。

 

 したがって、篠田が言うように、「冷戦終焉後の世界における欧米諸国主導の「リベラルな国際秩序」」とは、「欧米諸国が、形式的には植民地支配を回避しながら、しかし、自らの価値観を他の地域の人々に押し付けて作り出すもののことなのではないか」というのも、端的に冷戦終焉後の資本主義のグローバル化によって、資本主義のコミュニケーション・システムが「全体」化したからだろう。確かにそれは、露骨な植民地主義ではないものの、逆にいえば植民地主義を振りかざさずとも、「リベラルな国際秩序」という価値観が、自由で平等なコミュニケーションという擬制によって、非欧米世界にも転移されていくことになる。「ポスト」コロニアルとは、資本主義のコミュニケーションがグローバル化した帰結にほかならない。いや、資本主義のコミュニケーション自体が、「ポスト」奴隷制、「ポスト」封建制的な、自由で平等な二者(二商品)関係を偽装的に担保する、まさに「ポストコロニアル」で「リベラル」なコミュニケーション形態なのだ。

 

 ここでは、主=欧米諸国の価値観が、コミュニケーション・システムが駆動すればするほど自動的に拡大し「全体」化していく。こうして「リベラルな国際秩序」は、植民地主義ではなく、いわば欧米諸国の「コミュ力」によって非欧米諸国へと自ずと「啓蒙」されていくのだ(コミュニケーション社会の到来によってコミュニズムが近づいたと嘯くネグリを、現在のコミュニケーションは金銭に侵されきっていると一蹴したドゥルーズが想起されよう。「コミュ力」が金銭を生むのではなく、そもそも両者は同じものなのであり「普遍性」なのだ。この問題は、資本主義が最も発達したその先端で共産主義革命が起こると考えていたマルクス主義の認識にも関わる)。

 

 したがって、サイードオリエンタリズム批判とは、この西欧近代における普遍的なコミュニケーション・システムの「追認」と言って言い過ぎならば、「再確認」であり「言い換え」だったといえる。「非西洋=東洋」は支配的な西欧的な眼差しによる「表象=捏造」されたイメージにすぎない――。まさに、商品a(非西洋=東洋)は、商品b(西洋)によってその価値を「表象」されるというのが、マルクスが『資本論』の価値形態論で明らかにした(そして宇野弘蔵がそれを精緻に読み込んだ)、資本主義のコミュニケーション・システムだからだ。

 

 だが、ヘーゲルの「主と奴の弁証法」がふまえられているマルクス「価値形態論」が、「主」と「奴」の「逆転=弁証法」の契機を内在させているのに対して(「等価形態」に置かれた商品b(主)の価値を「表象」するためには、今度はaとbの立場を逆転させ、bをaの立場(=相対的価値形態)に置き換えねばならない)、サイードオリエンタリズム』に西洋(主)と非西洋(奴)が反転する契機はない。ここでは、西洋は常に「表象」する側にあり、非西洋(東洋)は「表象」される側にある。そのような理論的な不備を痛感したからでもあろう、その後サイードは『フロイトと非―ヨーロッパ人』(2003年)へと向かうことになる。

 

(続く)