制度、リアリズム、転向 その4--私小説≒天皇制という「虚構」

 コロナ禍における「西洋」からの「アジア」への差別には、YouTubeSNSの卑劣な映像や言説を見るにつけても、「いったい、啓蒙された西洋市民社会など、本当にあったのだろうか」という「「近代」への疑惑」(中村光夫)を再び三度抱かずにはいられない。「アジア人」は、皆コロナを持ち込む「中国人」と同一視され、一転、西洋諸国に比べアジア諸国の致死率が格段に低いと見るや、今度は羨望と蔑視の入り混じった、神秘的な異物を見る視線にさらされている。

 

 「オリエンタリズム」と言って差し支えないだろう。コロナは、もともと西洋には存在しない「モノ」である――。アジア人は密にならず、お上に従って自粛する「生活習慣」があらかじめ備わっている――。この間のことは、われわれがいまだに「講座派的歴史観」やら「近代の超克」やらといった問題系から自由ではないことを露呈させた。「その意味で」、コロナはグローバリゼーションの「病」である。

 

 日本がグローバルな資本主義を視野に入れざるを得なくなった時期に勃発した日本資本主義論争において、「講座派的歴史観」が主張した日本資本主義の「半封建」(封建制)が、「天皇制」の「隠語(ジャーゴン)」であることは、すが秀実天皇制の隠語』が喝破したとおりだ。そして、「半封建」とは、日本が西洋(資本主義)から「疎外」されている事態の別名にほかならない。すなわち、「天皇制」とは、西洋からの「疎外」や後進性を、逆に西洋にはない「モノ」という特殊性=先進性へと逆転させた反動的でオクシデンタルな虚構である。その虚構によって、日本は自らを自立的な近代国家とみなすことができた(いまだに、それを「誇るべき」「民度」と主張する大臣もいる)。

 

 すがの『隠語』は、日本資本主義論争が文学史観までをも規定していることを示した。述べてきたように、「半封建」は、文学的でロマン主義的な虚構としても捉え得るからだ。なかでも、中村光夫の「私小説」批判(田山花袋『蒲団』批判)が、私小説天皇制を相似形として捉えた(それは、一連のエントリーで述べてきた文脈でいえば、私小説天皇制が資本主義的な「制度」だということを意味する。だからこそ、日本「資本主義」論争において問題にされてきたのである)天皇制批判でもあったという指摘は、このコロナ禍において、またしてもアクチュアルになってきている。「私小説」も「天皇制」もオリエンタリズムへの反動であり、オクシデンタリズムだからである。

 

 そのことが、ずっと中村を「西洋を基準にして日本を裁断してきた批評家」と「誤解」させてもきた。確かに、中村の文学史観が「講座派的」であることは否めない。だが、そのなかで中村が一貫して問題にしてきたのは、西洋の「近代」をも規定する「リアリズム」という「制度」そのものなのである。主著『風俗小説論』は、「風俗小説」批判である以上に、章題を一瞥して知られるように、まずもって「近代リアリズム」論にほかならない(一章から四章のタイトルは、それぞれ「近代リアリズムの発生」「――の展開」「――の変質」「――の崩壊」である)。

 

 「制度」としての「リアリズム」が作動しているかぎり、この国の「半封建」的―ロマン主義的な「私」や「天皇制」といった「現実」は、資本主義が己の「等価交換」の原理に似せて制度化した「告白」によって、また「模写=写実」によって、この国の「リアル」として「表象」され続けていくだろう。だが、言うまでもなく「等価交換」とは擬制であり、労働力商品を想起するまでもなく、実態は「不等価交換」にすぎない。あくまで私小説天皇制は、「リアル」に擬せられた(言い換えればブルジョア(文学)にとってのみ「リアル」な)「虚構」でしかないのである。だからこそ中村は、これまた何度も述べてきたように、「虚構」ではなく「虚相」(本質)へと向かった二葉亭を問題にし続けたのだ。

 

中島一夫