中村光夫、三島由紀夫、転向 その1

 三島由紀夫は、中村光夫との対談(『対談・人間と文学』一九六八年)で、日本の小説家がプルーストのように自我が崩壊しなかったのは、「左翼からの転向」があったからだと述べている。

 

自分はイデオロギーで戦って、イエデオロギーで罰せられて転向を迫られている。向うには権力があるけれども、それは自分が自我形成でやってきた次元とは別ものである。だからわれわれはひとまず退いて、近代的自我の形成という抽象的倫理的問題に一歩退けば、そこで守れる。それならなにも自分は左翼だ共産党だという必要はない。その固執が少なくとも四五歳以上の作家にはあると思う。それがいまの日本の近代文学全部の良心のすりかえのもとになっていると思う。

 

 高見順にしても、島木健作にしても、「人間存在の仮構的な部分を次々と消去して行って、最後にのこるものに自分の思想を託している。しかし託しえたのは、実はマルクシズム思想ではなくて、極限的な自我信仰だ」と。彼らは、「非転向ということと転向ということが、ほとんど同義語になるところまで問題を追いつめてしまっている」と。

 

 これは、対談相手が中村光夫であることや、対談時期が一九六七年だったことなどを考え合わせると、きわめて興味深い発言である。まさに、その島木や中野重治らプロレタリア作家と激しく論争しながら、なぜ彼らは転向すると、プロレタリア文学が否定してきたはずの私小説=自我信仰へと向かってしまうのかを、誰よりも考えてきたのが中村光夫だったからだ。中村が、三島の発言にわが意を得たりとばかりに、「待ってください。それは非常におもしろい問題だ」と身を乗り出したのも無理はない。

 

 三島にすれば、マルクス主義を信じてきた者らが、転向したにもかかわらず自我が崩壊しないのなら、彼らにとってマルクス主義とはその程度のものだったのか、ということだろう。それどころか、転向作家らは「自分が何かに抵抗した、その抵抗したという行為」に「自分の良心の根拠を求めている」と。

 

 それに対して、中村は「左翼文学者がああいう転向をしたもとはやっぱり自然主義にあるように思う」と持論を展開する。転向は、「もともとが見せるためのものだった。だから昭和の転向というものがある意味では密室の作業でなくて、人の眼を感じながらやる一種の演技になったようなところがあるでしょう」と言うのである。

 

 すなわち、自然主義=リアリズムであり、私小説=告白、である。たとえマルクス主義から転向しても、それを言語で表明する際に、リアリズムの「表象=代行」作用が十全に機能し、自我や良心が崩壊しないような担保となってきた、と。より詳しく言えば、己が信じてきたマルクス主義では、どうも「大衆」をつかむことができず、したがって「現実」を変えることができないという左翼知識人としての「表象=代行」能力の危機に見舞われた者が、転向したのち、より信じられる「表象=代行」能力を発揮している自然主義私小説へと移行していったのだ、と。いずれにしても、問題は「リアリズム」という言語の「表象=代行」作用であり、ならば転向した者やその精神をいくら糾弾しても、「転向」の本質的な問題は捉え得ず、常に後追いになるだけだ。

 

 中村が、二葉亭四迷に戻って、言文一致という言語の「表象=代行」作用の「起源」と、その批判的考察に向かったゆえんである。中村が自然主義を批判したのは、二葉亭が、疑い、また自己嫌悪に陥りながらも試行錯誤していた、その言語の「表象=代行」作用を、もはや自然主義が疑わなくなったからである。彼らは、言語が、常にすでに現実や自己を「表象=代行」し得ると考えることができた。中村は、その無邪気な信じ込みを「リアリズム」と呼んだのである。中村にとって、転向とは「リアリズム」への転向だった。つまり、マルクス主義ではなく文学の問題だったのである(これが大西巨人との論争の焦点でもあった)。

 

 中村は、三島の『サド侯爵夫人』(一九六四年)を、「ぼくは「サド侯爵夫人」が傑作なのは告白がないということだと思う。あの人物の背丈は高いもの。あなたのどの芝居より」と肯定した。むろん、作家が自身の等身大の人物を描いてしまう(=広義の「告白」)ことが、容易に「リアリズム」に回収されてしまうからだ。それは「転向」なのである。それに対して作家は、「そんな大ざっぱなことを言わないでください」と返した。だが、三島には、一九六七年の三島には、中村の言いたいことがよく分かっていた。

 

(続く)