制度、リアリズム、転向 その1

 あくまで整理ノートとして。

 

 沖公祐は、「市場が制度をつくるのではない。しかし、資本主義における制度は市場から切り離されたものではありえない。資本主義のもとでの制度とは、市場と社会が切り結ぶところに立ち現われてくるものである」(「制度と恐慌」『情況』2013年6月別冊)という視点から、資本主義を「制度」の問題として捉えなおし、資本主義に対抗する制度論を思考する。そして、次のように述べる。

 

貨幣は、スミス=メンガーが考えていたような、市場の発展から自生的に現われてくるような制度ではない。歴史的な偶然によって、社会が市場に包摂された結果として、社会内の貨幣制度(おそらくは支払手段)が換骨奪胎されながら市場のなかに移植されたのである。この貨幣の生成過程は、資本主義と制度の関係を端的に示している。すなわち、市場が必然的に制度を生み出すのではなく、市場が社会を偶然包摂したことによって、制度が資本主義的に組み替えられたのである。

 

 この沖のいう「資本主義的に組み替えされた」「制度」の一つとして、「文学」を捉えなおすこと。

 

 マルクス宇野弘蔵の言うように、社会と社会の「間」から、言い換えれば社会の「外部」で「市場」は発生した。すなわち「市場」と「社会」とは異質なものである。したがって、資本主義とは「社会とは異質である市場が社会を包摂するに到った特殊な社会(ゲマインヴェーゼン)である」。したがって、その存在は、宇野の言うように、本来的に「無理」である。だが、資本主義はその「無理」を、「労働力」を商品化することで「合理」としてしまった。

 

 この視点を展開して、市場が社会を包摂する過程、言い換えれば、商人資本が産業資本化する過程と、翻訳によって俗語革命=言文一致運動が浸透していく過程とをパラレルに捉えたのが、すが秀実天皇制の隠語』(2014年)であった。

 

商人資本が産業資本化するという過程が言文一致運動と相即することは、明らかだろう。この場合、「間」にあった商人とは、欧米の書物の翻訳者であり、翻訳を通じて言文一致体=「貨幣=音声言語」が浸透していくと見なすべきである。

 

 近代以前において、まだ商品経済は共同体を解体するほどには浸透せず部分的にとどまっていた。それが「社会」内部の隅々にまで浸透するには、労働力の商品化が進行し、貨幣が単なる流通手段ではなく「社会」の価値尺度になるまで包摂しなければならない。すがは、そのプロセスと、翻訳が言文一致体を形成していくプロセスとを並行して捉える。

 

同様に、近代以前の翻訳も、それが中国語からのものであれオランダ語からのものであれ、「国語」化する力を持たなかった。それらは、言文一致体という価値尺度(超越論的シニフィエ)、つまり「言は魂なり」という方向を内包していなかったからである。言文一致運動が、近代資本主義に随伴してなされなければならなかったゆえんにほかならない。

 詩的言語の俗語化を主張する『新体詩抄』が多くの翻訳詩を含み、坪内逍遥シェイクスピアの翻訳から始め、二葉亭の言文一致体がツルゲーネフをはじめとするロシア文学の翻訳なくしてはありえなかったことは、よく知られている。その他、森鴎外にしても山田美妙にしても、あるいは嵯峨の屋おむろにしても尾崎紅葉にしても、彼らの俗語革命への加担は、翻訳とともにあった。

 

 

 

 「商人」とは、市場に現れる「相互に独立の人格として」相対する「互いに他人である」主体である(マルクス資本論』)。それはさながら、ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で述べる、互いに会ったことも話したこともない、他人でしかなかった、「国民=想像の共同体」以前の人々である。アンダーソンは、にもかかわらず、彼らが互いに均質な「国民」であると「想像」の上で見なしていくようになるには、小説(と新聞)による「黙読共同体」(前田愛)の形成が不可欠だったという。「互いに他人である」商人同士が「交換」するだけでは、商品経済は「社会」の内奥にまで浸透しなかった。同様に、近代以前の漢籍医学書などではなく、近代文学=小説という俗なるテクストの翻訳こそが、言語という「交換=流通」手段を、「国民」全体の価値尺度として、馴染むようになるまで「国語」化させていく。いわゆる「俗語」革命のプロセスである。

 

 それによって、「国民」が誰しも、言語は自らの「魂」を「表現」してくれる(「言は魂なり」坪内逍遥)と思い込むことができるようなった。貨幣が、自らの「労働力」の価値を「表現」してくれるように。近代文学=小説が、まずもって資本主義における「制度」として捉えられねばならないゆえんである。

 

(続く)