制度、リアリズム、転向 その3--中村光夫、蓮實重彦、すが秀実

 

 もう何度も触れてきたが、「転向」の問題を「告白=弁明」の問題として捉えかえした点において、蓮實重彦すが秀実の対談「中村光夫の「転向」」(一九九三年十二月「海燕」。蓮實『魂の唯物論的な擁護のために』所収)は、「転向」を考えるうえで画期をなす。冷戦終焉後に必然的に現れた批評的な視座である。これ以降、文学を「転向」と無縁と考えるのは不可能となったといえよう。

 

蓮實「…「転向」とは、日本の文学風土にあっては、単に主義を変えることそのものではなく、何よりもまず、主義を変えたことを釈明し、言い訳をする儀式である。その儀式を受け入れる風土があると信じている限りは、言い訳しないと釈明したり、自分は何も隠していないと弁明することさえが、ひとつの「転向」なのです。中村光夫はそれを全くやっていないという意味で、彼は「転向」とは無縁の人なのかもしれない。とにかく、みんなが好奇の視線を投げるのは、むしろ自己弁明したり、あるいは隠し立てなどしていないと釈明する人たちのほうでしょう」。

すが「…「転向」という「魂」の「弁明の儀式」の背景には、常に言文一致というもう一つの「弁明」があるのではないでしょうか。中村光夫は、言文一致の創始者と言われる二葉亭をとおして、その「確信」が、実は無根拠な「弁明」に他ならないことを指摘しつづけように思うのです。中村光夫の転向文学者への批判のモチーフは、「私小説」を否定したはずのプロレタリア作家が、転向するとなぜ「私小説」で転向文学を書いちゃうのか、ということですが、中村光夫の「私小説」批判は、二葉亭には存在した「弁明」への懐疑・否定が、「私小説」にはないということでもあるのですから。」

  

 この両者のやりとりに、「転向」が、いかに「弁明、告白=言文一致」という近代文学の「制度」と不可分のものかということが、ほぼすべて出ている。佐野―鍋山の「共同被告同志に告ぐる書」(一九三三年)という、いわゆる転向「声明」などを俟つまでもなく、「転向」とは結局「声明=告白」の問題だった。小林多喜二が拷問死したのも、宮本顕治や蔵原惟人が「神」に祀り上げられたのも、まずもって彼らが「転向」を「告白」しなかったからだろう。ここでは、神に従僕として「告白=表現」しなかった者が、「神」になり「主人」となる。すなわち、「告白=表現」する者は、不可避的に「転向」者なのだ。人をそのように仕向けるのが、「告白=表現」を可能にする言文一致という「制度」であり、したがって言文一致=制度のもとで読み書く者は、決して転向を逃れられないということでもある。

 

 中村光夫は、この「転向=告白」という行為と、それを「儀式=制度」として受け入れる「風土」を、日本近代文学の根本的な問題として思考し続けた。われわれが「リアリズム」と呼んできたのは、この「風土」にほかならない。この「風土」を「風土」として批判的に思考するには、自ら「転向」者でなければならない。「非転向」は、そもそも「告白=表現」しないからだ。これまた、何度も述べてきたように、中村光夫という存在が示しているのは、「転向」者にしか文学が「転向」の「装置」であることを思考し得ないという、このジレンマだろう。

 

蓮實「…別の言葉で言うと、彼は「転向」という釈明形態そのものを可能にする風土を批判の対象にしているわけです。その批判は、政治的なものと言うより、田山花袋いらいの「煩悶」の安易さと言うか、「自己の苦しむ姿が社会を無条件に動かすことと信じて疑わない」無邪気さが、プロレタリア作家たちにも間違いなく受け継がれていた事実に対する苛立ちとなって現れてくるものです。

 だからと言って、もちろん、中村光夫が、プロレタリア文学にふさわしい「言説=ディスクール」を提起しているわけではない。彼にとっての問題は、「私小説批判」ですらなく、作家たちの政治意識の先鋭化にもかかわらず温存されてしまう私小説のしぶとさといかにしてつきあうかという問題なのです。それは、きわめて実践的な課題であって、いささかも理論的な問題ではない。たとえば、彼は、「純粋小説論」の横光利一のように、形式と理念のみを論じることには強く反発している。また、仮に、それが一時の流行であったにせよ、プロレタリア文学の意義を全く認めない立場に立ったというのでもない。」

  

 今やほとんど中村の批評は読まれていない。それは、中村の批評が、きわめて「実践的」であって、「いささかも理論的な問題」を、通りよく提示し得なかったからでもあろう。中村の「私小説」批判は、何かそれに代わる「言説=ディスクール」を「理論的」に提起し得たわけではない。ただ、ひたすら「私小説」批判を「実践」し続けただけのようにしか見えず、確かに中村を読むと、人は「またか」と思わずにいられない。だが、この「またか」に、「私小説のしぶとさといかにしてつきあうか」という批評家の一貫した強靭な「実践」がある。

 

蓮實「…たとえば、「転向作家論」で彼はこう啖呵を切っている。「人は言った。ブルジョア文学は敗退した、プロレタリア文学は勝利を得た、と。冗談じゃない。ブルジョア文学などというものはなかったんだ」。この「冗談じゃない」というところが一貫しているのです。〔…〕ただ、ここで読み間違えてはならないのは、中村光夫が、たとえばその後の篠田一士のような、抽象的な私小説批判を展開したわけではないという事実です。中村光夫は、篠田一士などより遥かに「私小説」的な風土の恐ろしさを知っています。要するに、それは「制度」であり、これを攻撃すればあっさり退散するようなものではないと意識しているのです。だから、皮肉なことに、志賀直哉を初めとして、いわゆる私小説の作家たちを評価せざるを得ない立場に追い込まれます。これはこれで立派なものだと言わざるを得ない。」

 

 中村が恐れていたように、「私小説」的な風土はその後も「しぶと」く生き延びた。卑近な例でいえば、「言は魂なり」の自己「表現=つぶやき」と、それが「懐疑・否定」もなく「いいね!」や「リツイート」でもって受容されていく「風土」は、SNSに薄く広く「拡散」している(これなども、「私小説=告白」のポテンツを下げた浸透の一つだろう。いまや、SNSを「自己」表現などと言ってもはじまらないほど、それは「風土」と化した)。ほとんど中村は、プロレタリア文学者であったその初期から、安易に「私小説」を乗り越えたつもりになっている言説に対して、ひたすら「冗談じゃない」とばかり言い続けてきた存在だといっても過言ではない。

 

蓮實「事実、プロレタリア文学が、あらゆる国でブルジョア文学に負け続けるしかなかったというのは、残酷なまでに歴史的な事実なのです。日本の場合はブルジョア文学が存在し得なかったので、「私小説」に負けてしまった。

 

 この発言は、「ブルジョア文学≒私小説」を、「ブルジョア」が導入した「ブルジョア」のための「言文一致」という「制度」と読まなければ、その真意を掴み損なうだろう。その「制度」が温存されるかぎり、私小説は、例えば大衆社会のもとでは「風俗小説」へと形を変えて生き延びるだけだ。

 

すが「…中村さんの戦後の『風俗小説論』などは、「転向作家論」の文脈から見ても、デュ・カン的な作家への批判・批評と言えるのではないか。蓮實さん的に言えば、中村光夫にとって、昭和十年代というのは、膨大なデュ・カンはいるが、一人のフロベールもいない時代と映ったのかもしれません。その意味では、中村光夫の転向論は、昭和十年前後の、いわゆる大衆社会への批判をも内包して捉えていたのだと思います。これはもしかしたら、フロベール研究から来たのではないでしょうか。転向作家は文学という形式への思考を欠くがゆえに風俗作家化するというのが、中村さんの視点ですから。」

 

 知られるように、中村光夫の『風俗小説論』をはじめとする文学史観は、奥野健男丸谷才一ら後発世代からの批判にさらされた。だが、中村の「リアリズム」中心主義に対する奥野の「反リアリズム」にしても、中村の「風俗小説」批判に対する丸谷のイギリス市民小説的な風俗小説の肯定にしても、完全に中村の主張の的を外していたと思われる。述べてきたように、中村の問題意識は、リアリズムが容易に反リアリズムを飲み込み、風俗小説が、従来の私小説のように、それを肯定するまでもなく大衆社会の中では自然と主流になっていく、その「制度」のしぶとさ自体にあったからである。

 

 資本主義の「制度」が、商人資本主義から産業資本主義、新自由主義へと、資本主義の形態が変容していくたびに、それに合わせて「改革」されていったように、「リアリズム」という「制度」は、「自然主義」から「私小説」、「風俗小説」へと形を変えていった。中村光夫が言ったように、「資本主義は自分の姿に似せて世界を変革する」とマルクスは言いましたが、〔…〕それに「自分の従属物」として付け加える必要がありましょう」(「日本の近代化と文学」一九五九年)。文学も、資本主義が変容するたびに、その「従属物」として形を変えていく、融通無碍な「制度」の一つである。

 

(続く)