制度、リアリズム、転向 その2――柄谷行人「近代文学の終り」について

 

  資本主義の商品aとbとの「等価交換」の原理が、aやbの中に「労働力商品」をも捕獲し、その結果「社会」全体を包摂するに至った時、「リアリズム」が価値尺度となる。

 

近代資本制の要諦をなす等価交換システムが、商品化された労働力を疑似的中心とする商品世界において成立し、諸事物相互の表象=代行機能が回復したと見做された時、そこに成立するのが、リアリズム概念である。〔…〕リアリズムにおいては、言語は貨幣とアナロガスな媒介物と捉えられていると言ってもよい。労働力商品たる人間が、貨幣を媒介にして生活の資たる諸商品と等価交換され、そのことによって、人間の稀少な生命が維持されるのと等しく、言語による対象的諸事物の把握が、主体の側に属するある本質的なものの模写であるとされる。この意味で、リアリズムは「主観性の支配」(ハイデッガーヒューマニズムについて」)に基づいた「技術」にほかならない。(すが秀実『小説的強度』一九九〇年)

 

 言い換えれば、それはマルクスに混在する二種類の価値論、「労働価値説」(労働が価値の実体を作る)と、「価値形態論」(商品aの価値は、bの価値でもって「形態」的に表現される)の問題でもある。リアリズムとは、価値形態が価値実体を包摂するときに成立する概念にほかならない。

 

 このように見てくれば、柄谷行人が『マルクスその可能性の中心』以降、マルクス「価値形態論」の問題を追及していったことと、『日本近代文学の起源』で「内面」(魂)や「告白」(等価交換)を近代文学の「制度」として考察したこととは、背中合わせの問題であったことが分かる。それもまた、リアリズムという「制度」の問題だったのだ。

 

 例えば、『起源』の中核をなす「告白」という「制度」を見てみよう。そこで論じられる西鶴―紅葉的な「粋」と、北村透谷的な「恋愛」との差異は、まさに述べてきた商品資本主義的なもの(粋)と、産業資本主義的なもの(恋愛)の差異として捉えられている。

 

西鶴貨幣経済の現実と、それによって身分社会を超えるあるいはそれによって翻弄される人間の姿を描いた。また、彼は『好色一代女』において、商品としての性を武器にして自立した女を描いた。〔…〕紅葉が西鶴から得たのは、あらゆるものが商品経済によって支配されているという認識であった。しかし、このような認識は、一八世紀初め、武士が支配する封建社会の中でいわれたときと、明治二十年代にいわれるときとでは、意味が異なるのである。さらに、西鶴が見出した商人資本主義は、明治二十年代には産業資本主義にとってかわられていた。〔…〕その点でいえば、透谷のいう「恋愛」はけっしてそのつもりで説かれたのではないけれども、実は、産業資本主義に不可欠なエートスに合致している。すなわち、「世俗内的禁欲」である。プラトニックな恋愛、すなわち、ただちに欲求を満たすのではなくそれを遅延させ昇華する恋愛、それはウェーバーがいう産業資本主義の「精神」に合致するのだ。(定本『日本近代文学の起源』注、二〇〇八年)

 

 柄谷は、「「粋」とは、したがって、恋愛のように溺れるものではない」と言う。まさに、「粋」とは、商人同士が「社会」の外部=表層で、あるいは共同体と共同体の「間」で「交換」する商人資本主義的な「精神」にほかならない。それは、「社会」内の深部=下部構造にまで食い込んだ産業資本主義の「精神」としての「恋愛」とは異質なものだ。

 

 透谷の「恋愛」は、もはや「魂」の問題であり、すでにそれ以外に売るものがない「労働力商品」の問題と化している。ゆえに、石坂ミナと離婚してしまうと、この「厭世詩家」は25歳で自殺せざるを得なかった。「恋愛」とは、それにすべてが賭けられるものである。現在、「恋愛」に「溺れる」者は「リア充」と呼ばれるが、よくも悪しくも、当初から「恋愛」は、その人間のリアル全体を掴んでしまう「面倒くさい」ものとしてあった。それは、「粋」のような「表層(バーチャル)」的なゲームとは根本的に異質なものである。

 

 ちなみに、先の『起源』からの引用は「定本」の「注」だが、この記述は初版(一九八〇年)や文庫版(一九八八年)には存在しなかった。ほぼ同じ内容のくだりが「近代文学の終り」(二〇〇四年)に読まれるところを見ると、おそらく「近代文学の終り」から「告白」という「制度」を捉えかえしたときに、引用のような視点が浮上してきたのだろう。

 

 繰り返せば、「粋」は商人資本主義的であり、「恋愛」は産業資本主義的である。紅葉に対する透谷の批判のベースには、資本主義の「制度」の変容がある。江戸文学と地続きの紅葉は、西鶴全集を編集するほどに西鶴に傾倒したが、柄谷によれば、彼は「自分の生きている時代がよくわかっていなかった」。先に見たように、十八世紀の商品経済と明治二〇年代のそれでは意味が違うのだ。

 

 では柄谷は、紅葉は時代遅れだと言っているのか。逆である。紅葉の『金色夜叉』は、一九〇三年に大ベストセラーになる。柄谷は、『金色夜叉』的なものの「反復」を二〇〇〇年代に見た。そして、これをもって、「近代文学の終り」を宣告したのである。

 

先ほど、今の読者が『金色夜叉』を読むと、驚くだろうといいました。しかし、実は私は、今の若い人は、もし読んだとしたら、まるで驚かないのではないか、かえって北村透谷などを読んだほうがあきれてしまうのではないか、と思っているのです。というのは、お宮のように、自分の商品価値を考えて、もっと高く売ろうと計算する女性は、今日ではありふれているし、男女ともに処女性など気にかけてもいない。〔…〕また若い人たちには、いわば貫一のように、一気に金をもうけようと投機をやる人たちがすくなくない。それはどういうことなのか。これは資本主義の段階でいえば、産業資本主義の後の段階では、ある意味で商人資本主義的になるということを意味しています。生産ではなく、流通における交換の差額から剰余価値を得ようとする。全体ではないが、今日においては、そういう資本の本性が前面に出てきています。だから、一昔前のもののほうが現在にぴったり合うように見えるのです。(「近代文学の終り」)

 

 現在、芸能ニュースを一瞥すれば、いわゆる「美人」女優と「生産ではなく、流通」から剰余価値を得る企業(IT系、流通系)のトップとの「色恋」(粋?)などありふれている。柄谷は、二〇〇〇年以降、「産業資本主義の後の段階では、ある意味で商人資本主義的になる」という資本主義の変容を見ていた。そこでは「資本の本性」がむき出しになった。それは、その1の冒頭で見た沖公祐の論文でいえば、「社会」に浸透していた資本が、もはやそこでは剰余価値を作り出せないために「社会」から撤退し、「資本が「間」へと回帰しようとする」「新自由主義的な制度」といえる。「新自由主義とは、資本が社会的再生産を担えなくなったことの資本自身による告白にほかならない……」。

 

 柄谷にとっても、「近代文学」とは産業資本主義の「制度」であった。それは、「告白」や「恋愛」という「制度」の浸透として表れた。柄谷のいう「近代文学の終り」とは、こうした産業資本主義の「制度」の一つとしての「近代文学」の「終り」にほかならない。そこでは、『金色夜叉』が再び違和感がないほどに「金」がすべてになった世界が露呈され、「恋愛」は、かつて存在した「リアル=社会」の住民のものとして「リア充」と羨望=蔑視される。沖は、新自由主義に、社会から撤退する資本の「告白」を見たが、それはまた、「告白」の「終り」の「告白」でもあったのだ。

 

 では、果たして、「告白」という「制度」はのり越えられたのだろうか。

 

(続く)