批評としてのアダプテーション――『ドライブ・マイ・カー』の「演技」について


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 濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』について、これは村上春樹の原作とまったく別物だ、アダプテーションとも言いがたいという声が聞かれた。その一方で、それでいて妙に村上(の文体)っぽいとも言われた。作品そのものについては、もはや語り尽くされている。ここでは、そもそもなぜ濱口竜介は、この村上作品の映画化を試みたのか、そこに何がみえるかに絞って考えたい。

 

 結論から述べれば、それは「演技」をめぐる問題ではなかったか。まずは、村上春樹の原作における「演技」とはいかなるものかを見ておこう。

 

 主人公の「家福」は、自分の妻と寝ている「自分より六つか七つ年下」の男と、あえて「友だち」になろうとする。「どうしてうちの奥さんがその男と寝ることになったのか」を「理解したかった」からだ。「家福」のドライバーである「みさき」が尋ねる。

 

「奥さんとその人が寝ていることは、家福さんがその人と友だちになる妨げにはならなかったんですか?」

「むしろその逆だ」と家福は言った。「僕がその男と友だちになったのは、うちの奥さんがその男と寝ていたからだ」

 みさきは口を閉ざしていた。説明を待っているのだ。

「どう言えばいいのかな……僕は理解したかったんだよ。どうしてうちの奥さんがその男と寝ることになったのか、なぜその男と寝なくてはならなかったのか。少なくともそれが最初の動機だった」

 みさきは大きく呼吸した。胸がジャケットの下でゆっくり盛り上がり、そして沈んだ。

「そういうのって気持ちとしてつらくはなかったんですか? 奥さんと寝ていたってわかっている人と一緒にお酒を飲んだり、話をしたりすることが」

「つらくないわけないさ」と家福は言った。「考えたくないこともつい考えてしまう。思い出したくないことも思い出してしまう。でも僕は演技をした。つまりそれが僕の仕事だから」

「別の人格になる」とみさきは言った。

「そのとおり」

「そしてまた元の人格に戻る」

「そのとおりと家福は言った。「いやでも元に戻る。でも戻ってきたときは、前とは少しだけ立ち位置が違っている。それがルールなんだ。完全に前と同じということはあり得ない」

村上春樹「ドライブ・マイ・カー」、『女のいない男たち』所収)

 

 村上作品において、「演技」とは端的に「別の人格になる」ことだ。「家福」が男の「友だち」になるということは、「別の人格にな」って「友だち」の「演技」をするということである。では、そのとき「友だち」とは、「本当の友だち」なのか「演技」なのか? 「家福」は「両方だよ」と答える。「その境目は僕自身にもだんだんわからなくなっていった。真剣に演技をするというのは、つまりそういうことだから」。

 

 「真剣に」「演技」をすれば、本当/演技の「境目」はなくなっていく。「別の人格になる」のは、そのように本当/演技の「境目」がなくなるからだ。だから「いったん真剣に演技を始めると、やめるきっかけを見つけるのがむずかしくなる」。本当/演技の「境目」がなくなれば、今自分が演じているのか、いないのかが、不分明になるからだ。そして、それはある種の危機に直面したとき(「家福」のように妻の「病のような」浮気に接したとき)、誰もがやっていることだと「家福」は言う。「そして僕らはみんな演技をする」。

 

 一方、濱口にとっての「演技」はどうか。それは、演じ手が演じるキャラクターとの差異=違和感を「見て見ぬ振りをしない」ことである。

 

演技に内在するパラドクスは二重の方向性を持っている。キャラクターは尊重されなくてはならない。彼女は他者だからだ。あらゆる他者との付き合いと同様に、想像上のキャラクターであっても彼女たちは固有の行動原理を持つ。その人の選択は尊重されなくてはならない。演者たちにはテキストを尊重して欲しいとは告げていた。ただ、それは一言一句を間違えずにいて欲しいとか、そもそも変更は認められないということでは全くなかった。「彼女は私ではない」以上、演じる上での自身の違和感を見て見ぬ振りをしないで欲しい、ということを伝えていた。それを前にした時には、改稿も辞さないという旨も繰り返し伝えた。」(濱口竜介『カメラの前で演じること』野原位、高橋知由との共著)

 

 濱口において、「演技」とは、むしろ「別の人格」になどなれないことを痛感することである。したがって、本当/演技の「境目」もなくなることはない。それをなくしてしまうことは「自分」を捨て去ることだ。「自分」を捨ててしまえば「恥」もなくなるだろう。

 

 濱口は、「恥を捨てろ」と役者に強要するような、一昔前にありがちな演出の付け方に違和感を抱いていたという。「恥を捨てて、演じてしまうこと」は「自分と役柄を切り離してしまうこと」であり、「「恥ずかしくない」自分を仮構してしまう」ことによって、結果的に「自分とは関係のない誰か」を演じることになってしまう」と。そうではなく、「演技」において重要なのは、むしろ「自尊」することである。自/他の「境目」はなくならず、決して「別の人格」になどなれないことを思い知ることなのだ。

 

この「自尊」の態度もまた、あらゆる他者との付き合いと同じ重要さを持つ。自分自身の感情を尊重することなくしては、他者との付き合いはいずれ破綻する。自分自身の感情はコントロール可能であって、円滑な他者との付き合いのために常にそれを抑制することを選ぶ人は、結果的に関係の一端を担う人間を破壊している。つまり「自分が自分のまま、他者は他者のまま、一緒にやっていく」という人との付き合いの難しさは、そのまま想像上のキャラクターを演じる困難さに移し替えられるのだ。他者=キャラクターの尊重はもちろん重要だが、もしかしたらそれ以上に自身の違和感は尊重されなくてはならない。

 

 この「自分が自分のまま、他者は他者のまま」を、間違っても「君は君、僕は僕」という他者の相対性の尊重と受け取ってはならない。それどころか両者は真逆の態度と言ってもよい。他者の相対性を尊重するだけなら、別に人は「演技」に向かう必要はない。というか、濱口にとって「相対性」があるとしたら、それは「他者=キャラクター」を「演じる」ことで生じる「彼女は私ではない」という「違和感」の中にしか、その時に感じる「恥」の感覚にしか存在しないのだ。濱口作品にワークショップや演劇的なシーンが盛んに導入されるのは、濱口にとっては、登場人物が演じることと、彼らが他者との関係性を生きることは、同じことだからである。

 

 映画『ドライブ・マイ・カー』に出て来る(そして濱口作品には不可欠の)抑揚を排して台本を読む稽古(『ジャン・ルノワールの演技指導』における、いわゆる「イタリア式本読み」)のシーンは、まさにその実践である。抑揚を排してホンを読む必要があるのは、そうしないと俳優は安易に「演じ」てしまうからだ。容易にテクストの「他者」性、演じるキャラクターの「他者」性を無視し、自分との「境目」をとびこえてしまうからだ。そうすることを「演じる」ことだとはき違えている俳優の何と多いことか。

 

 映画版『ドライブ・マイ・カー』では、だから「家福」(西島秀俊)は、恥を捨てて「演技」に走り稽古中から女優にキスをする「高槻」(岡田将生、映画版でも妻を寝取る男である)に、ある時「もっと自分のテクストに集中してみろ」と言う。テクスト=他者性に踏みとどまることを要求するのである。同様に、女優と一夜を共にして追突事故を起こした高槻を「もっと分別をもってくれ」とたしなめるのも、決して妻のことを念頭に置いた道徳的な理由からではない。抑揚を排したホン読みが必要なのは、まさに役者に自/他の「分別」をもってもらうためなのだ。そのホン読みが徹底され、その前提が確立されていなければ、「演者は演者のまま、テキストでもある」という(もちろん、それは「演者/テキスト」の「境目」がなくなることではない。その逆だ)、スクリーンや舞台において「何かが起こる」、すなわち「テキストとともにスパークする」ことなど到底起こり得ないのである。

 

 「自分自身の感情はコントロール可能であって、円滑な他者との付き合いのために常にそれを抑制することを選ぶ人は、結果的に関係の一端を担う人間を破壊している」-―。この濱口の言葉は、「自分自身の感情」を「コントロール」して、本当/演技、自/他の「境目」をなくし、「別の人格になる」という村上春樹の「演技」に対する根本的な批判と読むべきである。村上作品の「家福」のいうように、もしそのような「演技」を「僕らがみんな」しているとしたら、濱口にとって、それは「円滑な他者との付き合い」をもたらすどころか、それによって、いつのまにか他者との関係性が「破壊」されていく社会が到来する。「演技」とは、自分とキャラクターとの「境目」からくる「違和感=恥」を見ない技術ではなく、むしろそれを最大限に感じることで、「こうとしかできない」自分、「容易には変えられない」自分を発見することなのだ。「違和感=恥」こそが、ブレない「自分」を構築することの支えになるのである。

 

 同様なことが、ホン読みを通して、テキスト/自分との間にも見出されるだろう。するとそれは、テキストを「こうとしか読めない」、「容易には変えられない」読みを見出そうと試みる行為、すなわち批評にもそのまま「移し替え」られることになる。『ドライブ・マイ・カー』の映画化において、濱口竜介は、「こうとしか読めない」という批評としてのアダプテーションを試みたのではなかったか。おそらく濱口は、原作の「演技」に抱いた「違和感=恥」に対して、「見て見ぬ振り」をできなかったのだ。

 

中島一夫