性急さについて――金井美恵子へ向って一歩前進二歩後退 その2

 完全犯罪とは奇妙なものだ。それが真に「完全」なら、「犯罪」そのものが無と化すからだ。『絢爛の椅子』の敬夫を苦しめるのは、まさにこのことだ。

 

電話をかけたのがミステークであると思っても、それは今さらしかたのないことであり、最初の犯罪が迷宮入りになった時、敬夫は〈誰がやったのか判らないことなんかつまらない淋しいような気がした。俺がやったんだが俺を犯人にすることはできないなら腹いせにもなるが、誰がやったのか判らなければ遠い空の星を眺めているのと同じである。〉と思うのだ。二度目の犯罪を電話で新聞社に知らせることは、無名の語り手として、すなわち敬夫という名前を持たない語り手の私として、犯罪を語ることである。(金井「絢爛の椅子」)

 

 完全犯罪が不可能なのは、犯人が無能だからでも警察が有能だからでもない。つきつめれば、われわれが「遠い空の星を眺めている」ことに耐えられないからである。それは、われわれの「おのれの内に他者が存在する」からにほかならない。金井は、カフカの『断食芸人』と合わせて敬夫についてこう述べる。

 

断食の行為者である芸人が同時にただひとりの全てを知る観客である事情は、星だけが知っている敬夫の殺人と似ている。おのれの断食に対して絶讃されたいと望んでいる芸人と、犯罪の犯人であることを新聞社と警察に告げ知らせる敬夫には、共通の踏みはずしがあるのだ。自己と死との親しいまじわりは本来が孤独な営為でしかありえないのにもかかわらず、それは他者を必要としている。〔…〕おそらく自己の内のこの他者を除いては、わたしたちは書くことがないのであり、それはひとつのことを言うために二つの言葉が要ること、「それを語る者が、つねに他者だからだ」(ブランショ)という無限の運動の中に、芸人も敬夫も存在していることの証しに他ならない。

 

たしかに、敬夫が犯行の直後、見あげた空にまたたいていた冷たい星は、おのれの内なる他者、それを除いては語ることの出来ないひとつの言葉によって結びあわされる他者であった。

 

 「自己と死との親しいまじわりは本来が孤独な営為でしかありえないのにもかかわらず、それは他者を必要としている」。「生まれるときも死ぬときも一人だ」という俗説に反して、人は一人では死ねない。自らの死を認識するのは常に他者だからだ。死は、「本来が孤独な営為でしかありえないのにもかかわらず、それは他者を必要としている」のである。人が死ぬためには二人いなければならない。「ひとつのことを言うために二つの言葉が要る」とはそういうことだ。それでも一人で死んでいかねばならないとき、人は「おのれの内に他者が存在すること」を認識しながら、しかも孤独に死んでいかねばならないという二重の孤独にさらされるのである。

 

 同様に、断食芸にしても犯罪にしても、行為自体は「孤独な営為」だ。だが、それらは他者に認識されなければ無、夜空の星と同じだろう。この無に耐えられずに、彼らは他者に「語ってしまう」のである。他者に語らなければ、行為そのものが存在しないからだ。こうして、書くことは、常に「語らされてしまうこと」に促されるように性急にはじまる。

 

おのれの行為が成立するためには他者が必要であり、作品というひとつの世界の存在もまったく同じ仕方で成立している。作品が成立するためには読者が必要であり、それは読者によって読まれることによってはじめて、あらわな原質性の周辺をほのかにあらわしはじめる。書くという行為の結果であるはずの作品を一等魅惑的な経験としての読書という行為を通して読み得るのは作者以外の存在であろう。

 

 この言葉を「読者論」やら「読書行為論」として読んではならない。むしろ、金井はそんなものは存在しないと言っているのである。

 

 「おのれの行為が成立するためには他者が必要であ」るとして、だが重要なのは、この時「他者」も自分のままでいられなくなるということだ。「作家は、「私は」という力を失う」が「その場合、自分以外の人々に、「私は」と言わせる力も失う」のである。まさに「私」も「彼」もなく「誰か=非人称」が「話す」ということ。この非人称の「ひと」と「ひと」と……の連鎖が「明かしえぬ共同体」(ブランショ)ということになろうが、今は措く。あの「性急さ」へと性急に戻ろう。

 

 では、「語る=語らされる」ことによってはじまる「書く」ことが、前者と異なるのはどこか。それは、「死」に対して「制御」すること、「死」に対して「主権的」たることだと金井は言う。

 

楢山節考』の場合、死に対して主権的にふるまうのはその死を死んで行くおりんであることは、最後に降って来る雪によっても証明されることだが、辰平もまた肉親の死を前にして、死に対して主権的たり得ることの意味を分ち持つことになる。それは、辰平がお山まいりの掟を二つ(山へ行ったら物を言ってはいけない、山から帰る時は必ずうしろをふり向かない、という掟)も破っておりんに話しかけてしまうことによって、彼が一瞬おりんと分ち持った死への主権である。しかし、それはおのれ自身の死ではない。深沢七郎は、おりんという特異な老婆を書くことによって、死に対する主権的な立場を書き、それはまさしく深沢自身の作家としての存在の場であったが、ここに山から帰って来る辰平をおかなければ、誰がその死の意味を伝えることが出来るだろう。もともと、楢山まいりとは、肉親である二人によって行なわれるものであり、二人の内の一人は、死からつき帰されるはずなのだ。

 

 かつて金井は、おりんを背負って楢山へ行き、そこから帰って来る辰平こそが作家なのだと書いた(「深沢七郎へ向って一歩前進二歩後退」)。ブランショが言うように、まさに「人は、死を前にしておのれを支配し続け、死に対して主権的な関係を打立て得た場合にのみ、書くことが出来る」(『文学空間』)のだ。

 

 もちろん、金井が言うように、「誰もがこの自発的な死に対して、支配的な態度をとれるわけではな」い。例えば、「楢山の死に対して主権的なふるまうことのない出来ない者たちは、楢山へ行くことはなく、七谷の所から帰ってきてしまうのだ」。彼らは主権を分ち持つもう一人を持たない。楢山まいりとは、「二人によって行なわれ」、二人で「死を共有しつづけ」なければならないものなのである。

 

 この「死」の「共有」=死の共同体(ブランショ)は、従来、概ね否定神学的な不可能性として捉えられてきた。だが、もし死を共有できなければ、われわれは死ぬことすらできないのである。辰平がおりんと分ち持つ「死に対して主権的たり得ることの意味」とは、そのことにほかならない。「否定神学」だ「不可能性」だといったところで、この条件が不可避であることにかわりがない。

 

 「主権」とは「分ち持つ」ものではないだろうか。われわれは、死への「主権」を「分ち持つ」ことなしに、ついに「死に対して主権的な関係を打立て得」ないのだ。それが、国家主権や君主権はもちろん、国民主権にすら理解されていないことである。そして「主権」を「分ち持つ」ことができなければ、再び三度、死=主権を所有する「主」と持たざる「奴」との弁証法が悪無限に作動するだけだ。そこには、死=主への恐怖から引き起こされる転向か、あるいは主権への思考をはなから放棄した「奴=大衆」の無条件の肯定しか待っていないだろう。つまりは、亀井勝一郎の道か、吉本隆明の道か、である。

 

 ブルジョア的主体は「主権」を個人で所有できるものと思っている。ゆえに、常にこの分け持つ共同性を分断し、「主権」的たり得ない者らをあっさり排除するだろう(だから「死ぬときは一人だ」はブルジョア的主体の言説だろう)。したがって、われわれはこの死の共有を、不可能な否定神学だといって簡単に打ち捨てるわけにはいかないのだ。パンデミックによって、家族ですら死の共有を禁じられている現在、このことの意味はより切実になっている。市民社会の安全安心のために、われわれは最も死を共有すべき他者と分断され、露骨に「主権」を失わされているのである。

 

 『楢山節考』の辰平は、「一瞬おりんと分け持った死への主権」を手にした後、「死からつき帰される」。そして「性急に」死を他者へと「語る=語らされる」のである。あの特権的な「絢爛の椅子」に座って。自分が語らなければ、おりんの死は「遠い星を眺めているのと同じ」になってしまうからだ。「それはまさしく深沢自身の作家としての存在の場であったが、ここに山から帰って来る辰平をおかなければ、誰がその死の意味を伝えることが出来るだろう」。

 

 そして、「絢爛の椅子」の敬夫もまた「楢山帰り」の一人である。「敬夫を成立不能のはずの行為へかりたてる直接の動機は、父親の貧しい犯罪とそのみじめな自白にあったのであり、父親の無意味で歯がゆいほどの人のよさ――すなわちおのれの行為に対する支配と主権の欠如――が敬夫には口惜しくてしかたがなかった」のだ。あたかも敬夫は、父が自覚もないままにあっさり放棄してしまった(ゆえにラストではあっさり警察側についてしまった)行為に対する主権=「死への権利」(ブランショ、以下参照)

 

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を取り戻そうとするかのように、犯罪を行い、性急に自白するのである。

 

 この「性急さ」は「批判」されこそすれ、決して「否定」されてはならない。否定され排除されてしまえば、われわれは永遠に「主権」を失うほかはない(それは「前衛」なるものが、必然的にはらむ「左翼小児病」的な性急さへの警戒を不断に怠らず、なお「前衛」的にたり得るかということでもあろう。すが秀実金井美恵子レーニン主義」参照(「早稲田文学」二〇一八年春号))。だからブランショは、辰平同様、「振り返るな」という掟を破ってしまうオルフェウスについて言う。

 

オルフェウスは性急という罪を負っている。彼の過ちは、無限に汲み尽そうとし、期限のないものに期限を置こうとすること、自身の過ちそのものを無限に耐え忍ぼうとしないことにある。〔…〕しかし真の忍耐は性急を排除するものではない、それは性急の内奥なのであり、無限に耐えられ無限に忍ばれた性急のことなのである。オルフェウスの性急は従って正当な心の動きでもあるのだ。(『文学空間』)

 

 「書く」とは、この「無限に耐えられ無限に忍ばれた性急のこと」にほかならない。作家と語り手は違う? だが、内なる性急な「語り手」と分離された「作家」など何ほどのものでもない。それは端的に遠い空の星と同じ、無だ。そうではなく、無限に「絢爛の椅子」に座り続け、しかもその椅子が促す性急さに無限に耐え忍ぶのが「作家」なのだ。作家とは、性急さに向って一歩前進二歩後退し続ける者である。「彼ら」が敬夫のことを「見つけるまで」、そして「言いだすまで」。それは、何という「刑罰」だろうか。

 

続けなくちゃいけない、おれには続けられない、続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉を言わなくちゃいけない、言葉があるかぎりは、言わなくちゃいけない、彼らがおれを見つけるまで、彼らがおれのことを言いだすまで、不思議な刑罰だな、不思議な過ちだな、続けなくちゃいけない、(ベケット『名づけえぬもの』安藤元雄訳)

 

中島一夫