性急さについて――金井美恵子へ向って一歩前進二歩後退

 

 

  作者と語り手は別のものだ。そんなことは、今さら言うまでもない。どんな小説の「教科書」にも書かれている。だが、この言葉自体が、両者の違いを恐れていないならば、これに勝る茶番もあるまい。だから、たいていの小説の書き方の「教科書」はつまらない。「書く」ことのヤバさに一向に触れていないからだ。

 

 金井美恵子のエッセイ「絢爛の椅子」(一九七〇~七一年。『金井美恵子エッセイコレクション3 小説を読む、ことばを書く』所収)は、読む者をいつも震撼させる。

 

自白を絶対にしない犯行を計画しようと思った時、あの絢爛の椅子に坐ろうと決心した時、最初から語ってしまうことは決められていたも同然だった。絢爛の椅子とは、語る者のために用意された椅子であり、それはついに死を眼前としている。語ってしまうことは破滅であり、犯罪者としての罰を受けることになるのだ。これは敬夫の最初の計画とはまったく別の結果、予想もしなかった結果だ。彼にはまるで犯罪という概念が自白することを通してしか存在していないようであり、世間で敬夫のおかした犯罪というであろうあの二つの殺人は、彼にとってある手続きとして当然行為されるべき行為としてしか意味がないかのようだ。これは実に驚くべきことといわなくてはならない。

 

 深沢七郎の短編「絢爛の椅子」を、小松川高校事件に引きつけて「犯罪心理学」的に、また「俗流社会学」のように読むのはありふれている。そうではなく、金井は、これを「敬夫」が「〈作家〉になる」話として読むのである(「敬夫が李珍宇と等身大であるとはわたしは思わないが、しかし、敬夫は〈作家〉になるのだ」)。

 

 敬夫は、絶対にバレない犯行を目論んだはずなのに、あの「絢爛の椅子=容疑者の椅子」に座った途端、ベラベラと自白してしまう。いや、この言い方は因果が転倒している。むしろ、敬夫は「椅子」に座る欲望を抑えられないのだ。そのために、「もう一度事件がなければだめだ」と、わざわざもう一人殺したのである。

 

 「バレないこと」を目論んだ瞬間、もう人は告白の「椅子」から逃れられないのではないか。「バレないこととは、最初からあの木の椅子、すなわち容疑者の椅子に坐って「僕は無罪だよ」と言い切ってみせるために要請された犯行のこと」だからだ。「バレないこと」は、すでに「バレる=椅子に坐る」ことを内包しているのである。恐るべきことに、「バレないこと」は常にすでに「バレること」なのだ。これは、警察の捜査能力と何の関係もない。

 

 敬夫は、「語ってしまうことは破滅であり、犯罪者として罰を受けることになる」ことなど百も承知している。にもかかわらず、「彼にはまるで犯罪という概念が自白することを通してしか存在しない」のだ。だから、新聞社にたれ込んでは自ら足が着くようにしてしまう。いや、彼には「行為」というもの自体が「椅子に坐る」こと、すなわち「語らされてしまう」ことをおいてほかにないのである。金井が、敬夫とは「作家」であり、すなわち「語り」が、むしろ「語ってしまうこと」「語らされてしまうこと」でるのを骨身に知る存在だと述べるゆえんだ。

 

 「語ること」に「主権」など存在しない。それは、いくら主権的、主体的に行っているように見えようとも、必ずや抑制できない不自由な行為としてある。それは、「作者」と「語り手」は別物だといったような抽象的な問題ではすまない。それどころか、むしろ「作家」は「語り手」を、自らとは別のものとして意図的に区別することなどできないのである。「書く」者に「語ること」をコントロールすることなどできない。「書く」ことのはじまりは、いつも「語らされてしまうこと」によって、始めさせられてしまうのであり、「作家」に「椅子に坐る」「わたし」を拒むことなど不可能なのだ。

 

「わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでゐたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのやうにわたしといふ溜り水が際限もなくあふれ出さうな気がするのは〔…〕」

 

 金井が、よく「書くことのはじまり」について引く石川淳『佳人』の冒頭だが、この「わたし」について金井は言う。

 

〔…〕書くことを志した者は、わたしの意味を骨身に知らなければならないのである。わたしとは何者か? わたしたちにはまだそれを、小説という形態の中で知ることができないのではないか。

 

 言うまでもないが、この「わたし」は、私小説の「私」とは何の関係もない。それどころか対極的なものだ。いざ「書く」となると、「ペンの尖が堰の口ででもあるかのやうに」「わたしはわたしは」と「際限もなくあふれ出さう」とすること。それは「語るまい」と目論んだ敬夫の犯罪が、にもかかわらず「わたしはわたしは」と「語ってしまうことへの性急さ」へと「急傾斜」していってしまうことと同じである。金井が、敬夫に「作家」を見るのは、この「性急さ」においてほかならない。

 

『絢爛の椅子』の敬夫の殺人行為にあるのはあのおそるべき性急さ、おそらく奇妙な情熱に魅入られた魂がそれゆえに燃えあがり罰せられるところの性急さである。しかし、放縦と性急はそれほど別のものではない。もともと、語りとは、その性急と放縦によって語られはじめるのであり、この二つがなくては、わたしたちは書くことさえはじめられないではないか。〔…〕書く者を恐れさせるのは、語っているのは誰か、という問題になってくるだろう。

 

 書く者にとって、語る「わたし」は常に「誰か」わからないものとしてある。ブランショフーコーがいうように、「非人称」の「誰かが語る」のである。

 

だから、まず存在するのは「誰かが話す」であり、無名のざわめきであり、そのなかで、可能な主体にとって様々な配置が組み立てられるのである。「言説のたえまない、無秩序なひしめき」。フーコーは何度もこの巨大なざわめきを引き合いに出し、自分もそのなかに位置したいと願うのだ。

 

フーコーブランショと一致する。ブランショは、あらゆる言語学的な人称体系を批判し、主体の様々な場所を無名のつぶやきの厚みのなかにおくのである。始めも終わりもないこのようなつぶやきのなかに、フーコーは身をおこうとするだろう。(ドゥルーズフーコー』)

 

書くことが、終りなきものに身を委ねることであるとき、この終りなきものの本質を保持することを受入れる作家は、「私は」という力を失う。その場合、自分以外の人々に、「私は」と言わせる力も失う。だから、彼は、彼の創造力がその自由を保証する登場人物たちを生かすことなど、決して出来ない。小説の伝統的形態としての登場人物という観念は、みずからの本質を探索する文学によって、おのれの外に引出された作家が、世界やおのれ自身との関係を恢復しようとするかずかずの妥協策のひとつにすぎぬ。

 書くとは、語ることを止め得ぬもののこだまとなることだ。――そして、それゆえに、私は、こだまとなるために、この語ることを止め得ぬものに何らかの方法で沈黙を課さねばならぬ。(ブランショ『文学空間』)

 

 作家は「語ることを止め得ぬ」「非人称」の「誰か」の「こだま」となって「書く」。あくまで敬夫という「登場人物」は、そのように「おのれの外に引出された作家が、世界やおのれ自身との関係を恢復しようとするかずかずの妥協策のひとつにすぎぬ」のである。岡本かの子が、『雛妓』に、読者を混乱させるのが目に見えていながら、三人の「かの子」を登場させてまで、「止め得ぬ」「語り」と「妥協」せざるを得なかったゆえんだ。

 

作品中の語り手と、作品の書き手である作家が違うものだという、自明の理があり、当然のこととして、岡本かの子はその理をわきまえていたはずだったが、そのうえでなお、語り手である副主人公のわたくしをあえてかの子という名前にし、さらには主人公をもかの子と名付けたのだ。こうしてここに当然出てこなければならない問題はひとまずおくことにして、岡本かの子をつき動かしていた情熱が、おそらくは、この三つのかの子という名前であったということを、ひとつの予測として述べておくことにとどめる。(金井「絢爛の椅子」)

 

 ブランショが言うように、ここではもはや、作家は「「私は」という力を失」っており、しかも「自分以外の人々に、「私は」と言わせる力も失う」。念のため断っておくが、先の石川淳のあふれ出る「わたしはわたしは」と、このブランショの「「私は」という力を失う」こととは、一見逆に見えるが、完全に同じことだ(このことは「私小説」という概念を無効化するはずだが、ここでは措く)。作家とは、この座らないことは許されない「絢爛の椅子」に、にもかかわらず、まるでそれが「特権」であるかのように座る存在なのだ。

 

 それにしても、作家を、この「椅子」に座らせるのは、いったい誰なのか。

 

(続く)