選挙と赤い糸

 ジジェクは、ヘーゲル君主制を擁護したのは、われわれが恋愛において「赤い糸」を信じるのと一緒だという(『絶望する勇気』)。人は自分が恋に落ちたのが、まったくの偶然であることを受け入れられない。「二人は赤い糸で結ばれていた」。「赤い糸=運命」という不透明な必然性のようなものが、「現実界」の応答のように二人を導いたのである。

 

 同様に、ヘーゲルの「君主」は、民主主義(君主なき共和制というべきか)という、あらゆる社会的ヒエラルキーが一掃された、透明で偶然性に満ちた領域に、上から不透明な必然性を与える存在である。君主が君主である理由は、誰にもわからない不透明なものだ。「君主は君主である」としか言いようがない。そのような君主=赤い糸の存在が信じられなければ、まったき平等で、だからこそ偶然性にさらされた人民は、途端にお互いへの愛を失い、相互不信に陥る(したがって、石原吉郎は「民主主義は不信の体系だ」と言った。看守(君主)なき囚人(人民)たちのラーゲリだ、と)。そこは、お互いに対する恐怖政治(テロ)が荒れ狂う空間と化すだろう。君主が君主である理由が透明化されれば、誰もが君主になれる可能性が開け、君主の地位をめぐる万人の万人による戦争状態に陥るからだ。

 

 こうして、王殺し=革命後の君主なき民主主義は、常にすでに恐怖政治(テロ)の温床なのだ(この革命性によってであろう、ブランショは恐怖政治を肯定した。ジジェクのいう「ジャコバン的宇宙」というやつである)。それゆえに、ヘーゲルは、君主という「ふた」で、それが噴き出すのを防ごうとしたのである。かつて論じたように、江藤淳戦後民主主義下の天皇を、「共和制プラス・ワン」と呼んだのも同じ理由だ(拙稿「江藤淳の共和制プラス・ワン」参照、「子午線」vol.6)。ヘーゲルや江藤のような「保守」の方が、革命が噴き出すのを恐怖するという形で、むしろ革命をリアルに思考し得たといえる。

 

 民主主義における選挙とは、その民主主義のテロという「ゼロ・ポイント」の「恐怖の瞬間」が露呈する瞬間にほかならない。

 

クロード・ルフォールが述べているように、民主主義が成し遂げるのは、伝統的な権威主義体制にとって最大の危機である瞬間――短期間であれ「王位が空白となりパニックを引き起こす、主君の交代の時期――をみずからの強みに変えることである。民主主義的な選挙においては、複雑な社会的連関のネットワークが多数のばらばらの個人へと解消され、その投票は機械的に数えられる。選挙とはそうしたゼロ・ポイントを通過する瞬間なのである。こうして選挙においては、恐怖の瞬間、あらゆるヒエラルキー的なつながりが分解する瞬間が繰り返し導入され、新しく安定した実際的な政治秩序をつくるための土台へと変容するのである。(『絶望する勇気』)

 

 重要なのは、選挙においては、このテロという透明性が露呈する瞬間、と同時にすぐさまそれが不透明性、不合理性で覆われることだ。選挙とは、「透明なふた」とでもいうべき、透明でかつ不透明なものである。刻一刻と計量化され、透明化=見える化される世論調査とは異質なのだ。「…民主主義が仮にたんなる世論調査になってしまったら――機械的で計量的なものになって、その「行為遂行的な」性格を奪われたら――民主主義は機能しなくなるだろう。ルフォールが指摘したように、投票は(いけにえの)儀式、すなわち社会の自己破壊と再生の儀式であり続けねばならない」。

 

 この選挙と世論調査とを分ける「行為遂行」性の有無が、革命か否かを分けている。この社会を完全平等のゼロ・ポイントへと、いったん自己破壊させようと現れる不透明な意志こそが「人民の意志」である。これは、透明性、偶然性、合理性にさらされる世論調査では形成され得ない。

 

 したがって、ランシエールが言ったように、最も民主主義的な方法は、選挙ではなく古代ギリシャのようなくじ引きというべきだろう(『民主主義への憎悪』)。そこでは、平等であるがゆえのまったき偶然性が貫かれる。だが、確かに、くじ引き民主主義は、全体主義への誘惑から免れるものの、同時に普遍性からも免れてしまう。人は、くじによって全くの偶然で選ばれた者を、ふさわしい候補として受け入れられるほど近代人ではないのだ。「人民の意志」という普遍性が立ち上がるには、ある種の不透明性や不合理性、ザインではなくゾルレンが必要なのである。

 

 近代社会とは、自らが自らを律する自律的な社会である。ここでは、外的で超越的な「権威」にはもはや頼ることができない。だが、先のように出現する「人民の意志」は、近代においてはもはや存在しないことになっている、外的で超越的な権威、すなわち「古代人が不可能な神の意志あるいは〈運命〉の手としてとらえていたものに相当する」のである。いわば、超越性の残滓のように。

 

 つまり、民主主義とは、超越的な王位の「空白」というテロ=ゼロ・ポイントの危機を、不透明で不完全な「選挙」によって瞬時に生成される「人民の意志」という運命の手=赤い糸をもって、これまた瞬時に蓋をするシステムなのである。選挙においては、つねにすでに最もふさわしい候補が選ばれるわけではなく、意外としか言いようのない結果になる。だが、「人民」が「選挙」を受け入れられるのは、まさにそのためなのだ。選挙が、合理的で透明な選択だったなら、誰も受け入れないだろう。

 

 民主主義は、確かにあらゆる社会的ヒエラルキーを一掃し、すべてを平等に均すテロ=ゼロ・ポイントを内在させている。だが、逆にいえば、民主主義が登場する以前は、ヒエラルキーを一掃させるには、実際にテロに頼らざるを得なかったわけだ。それを民主主義は、選挙というシステムによって、定期的にゼロ・ポイントをもたらしながら、すぐさまその崩壊の危機を「人民の意志」でふさぎ、ふさわしく「ない」仮初の「代表」者を、権力の空白に据えるのである。民主主義は王位が「空白」なのだから、原理的に権力の位置を占める代表者はそれだけで「罪」であるはずだ。サン=ジュストの格言のように「誰も罪を犯すことなしには支配できない」のである。だから、ふさわしく「ない」者がしかも期限付きでその座を占めることによってのみ、かろうじて「人民の意志」は溜飲を下げるのだ。

 

 このように、民主主義とは、テロ=恐怖政治を暴発させないよう適度に散らしながら、いかに飼い慣らすかという知恵にほかならない(だが、いったい誰の?)。ならば、民主主義は、ヘーゲル君主制とどう違うのか。両者とも、テロ=ゼロ・ポイントの恐怖をいかに散らすかという知恵だからだ。

 

 日本では天皇制という君主制(くどいようだが、ヘーゲルのいう意味における)によって、「人民の意志」が噴き出す恐怖が重ねて飼い慣らされている。選挙+(戦後)天皇制とは、「人民の意志」に対する二重のふたなのだ。

 

中島一夫