江藤淳と「開かれた皇室」論

 江藤淳が、いわゆる「開かれた皇室」論に否定的だったのは当然だが、それはそれによって「共和制に近づく」と考えていたからであった。

大原康男 歯止めを失った“開かれた皇室”とは何か。そのゆきつく先は、皇室の本来もっている尊貴性を失って大衆社会に埋没してしまうニューファミリーのモデルとしての皇室です。これは共産党のようなあからさまな反天皇論よりも一般の人たちの耳に馴染みやすい囁きですから、時間をかけてじわじわと毒が回ってくるたいへん問題の多いキャンペーンではないでしょうか。
江藤 おっしゃるとおりだと思います。待ってましたとばかりにね。
大原 新帝陛下に対しては戦争責任を追及することはできない。そこでマスコミは、“開かれた皇室”という別の手法で、意識的か無意識的か定かではないが、皇室の伝統的な存立基盤を脆弱化させようとしているように思えるのです。
江藤 “象徴天皇制”とか“戦後民主主義”という言葉でくくっているところが、いまのマスコミの浅はかなところです。“象徴天皇制”なるものが実体として存在しているかのようにマスコミではいわれていますが、因数分解すると、一方では共和制に無限に近づき、一方ではあたかも立憲君主制であるかのような分裂構造になる。開かれた皇室、国際化の先頭に立つ皇室云々というのは、共和制に近づけたいという議論でしょう。
大原 そうです。つまり国民統合の聖なるシンボルではなく、最終的には大衆社会の俗なるモデル・ファミリーに皇室を堕さしめようという方向ですね。
(「昭和史を貫くお心」1989年3月。『天皇とその時代』)

 大原が「これは共産党のようなあからさまな反天皇論よりも一般の人たちの耳に馴染みやすい囁きですから、時間をかけてじわじわと毒が回ってくるたいへん問題の多いキャンペーンではないでしょうか」と言っているように、明らかに江藤と大原は、「開かれた皇室」論を講座派的な「キャンペーン=戦略」と見なしている。

 天皇制を「半封建」と見なした講座派の天皇制論は、しかし大衆社会化にともなって「半封建」という概念のリアリティが喪失されたとき、市民社会論=構造改革論へと転回した。それは、「機動戦」をともなう「二段階革命論」から、グラムシ的な陣地戦論へという革命戦略の変更であった。その文脈で登場してきたのが、「開かれた皇室」論の元祖たる松下圭一の「大衆天皇制論」(1959年)である。

 以前の記事でも書いたように、
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/searchdiary?word=%BE%BE%B2%BC%B7%BD%B0%EC&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail
松下「大衆天皇制論」は、共和制への志向を内包させていた。市民社会の成熟にともなって、やがて大衆天皇制は陣地戦的に自然消滅していくだろう――。まさに「時間をかけてじわじわ毒が回ってくる」ように、なし崩し的に天皇制を「脆弱化させ」、その結果「共和制に無限に近づけ」ていくことが目論まれていたわけである(「子午線」vol6の拙稿で論じたように、私見では江藤の「フォニイ論争」もこの文脈にある)。

 江藤は、こうした「開かれた皇室」論に抵抗すべく、逆に「閉された」皇室を思考した。福澤諭吉の「帝室論」(1882年)と「尊王論」(1888年)である。このこともすでに拙稿で論じたので繰り返さないが、福澤「帝室論」が、天皇による国会開設の詔書を受けて、いずれ国会が開設されることを見越して書かれ、「尊王論」が憲法発布直前に書かれたことが重要だろう。国会と憲法によって、「日本は共和制でなければならない」という「自由民権運動の青書生ども」(大原)が勢いを得るのを、福澤は先手を打って抑圧しようとしたのだ、と。

 福澤の「帝室」は、政争の局外、政治の葛藤の外にあるという、ヘーゲル的な「君主」である。そして、それは大原が言うように、これが「統帥権の独立を主張している」ということが重要だろう。前回の記事でも書いたように、江藤は(大原も)、天皇制とは君主制であり、したがってそこでの主権は、例外状況における「独立」した君主の「統帥権」にほかならないと考えていた。(立憲)君主制も共和制も民主制だ、などという「ごっこの世界」(江藤)がまかり通ってきたのが「戦後」だったのだ、と。

 もちろん、江藤や大原の共和制への「怯え」は杞憂だった。大衆天皇制=開かれた皇室論は、その後も天皇制を自然消滅させることはなかった。むしろ、天皇制は時代にフィットして変化する融通無碍のシステムであり、「開かれた皇室」は大衆社会化に即応した一形態であることがますます明らかとなった。そして現在は、リベラルの「象徴」と化している。

中島一夫