革命の狂気を生き延びる道を教えよ その2

 その大江の狂気は、PCをこえたものとして見出される。

 

それがどのような意味で逸脱であり狂気であるかと言えば、今日のブルジョア道徳であるポリティカル・コレクトネスの水準に照らして大江作品を読んでみれば、明らかである。いちいち例をあげるまでもなく、人種差別や動物虐待(差別)、女性差別学歴差別、同性愛差別、階級差別、姦通、男根中心主義等々の表現を、そこに見いだすことは、今日ではたやすい。しかし問題は、大江が差別主義者だったと糾弾することでも、あるいは、それを――小説作品内においても――ヒューマニズム戦後民主主義!)によって克服したと主張することでもないだろう。そうではなく、差別主義や男根中心主義であるかのごとく表現されてしまう「狂気」だからこそ、大江は問題的な作家なのである。(すが秀実「小説家・大江健三郎」)

 

 『われらの時代』以降、大江が「男根中心主義」の「性的人間」を次々と描いていったことは言うまでもない。「性的人間」とは、「「勃起しない、爆発しない」男根が、政治的な意味でも恥辱であり停滞であることを含意」している(以降、特に言及のない「  」は、すが論による)。

 

 『われらの時代』の靖男は、その「停滞」が、天皇という「いかにも消耗や衰弱の象徴」をいただいている、この国の戦後天皇制に起因していると考える。一方には、コミュニストの純潔を保とうとする「民学同」(社学同(ブント)に改組される反戦学同がモデルといわれる)のコミュニスト八木沢がいる。八木沢は、戦後天皇制ではなく、第三世界の英雄ナセルを本来性として見出す「政治的人間」なのである。この靖男=戦後天皇制=性的人間が、八木沢=コミュニズム(党)=政治的人間と二項対立をなすとともに、両者の間のいかんともしがたいズレや断絶が、大江作品を駆動させてきた。

 

 すがも言うように、党のリンチに対する懐疑を共有するという意味において、初期の大江は、「正しく戦後派文学(「近代文学」派)の後継者の枠内にあ」り、ゆえに荒正人平野謙も大江を高く評価していた(平野にとって、党のリンチや粛清がいかに大きかったかということについては、以下の記事を参照)

 

 

knakajii.hatenablog.com

                   

 だが、おそらく大江は、平野の「政治と文学」という文学史観においては、「文学」の側が、「政治」に対する劣等感に永遠に支配されるほかないことを看取し、そこに「性的人間」というファクターを導入することで、「政治と文学」からの突破をはかったのである。

 

 それは、どのような突破だったのか。前回述べたように、それが「性的人間」によって可能になる天皇制批判だったということだろう。「政治と文学」の「政治」とは共産党を意味するので、リンチや粛清とともに政治=共産党から離反して「文学」の側につくことは、共産党=講座派史観が可能にした天皇制批判も、同時に手放すことになるのだ。これまた前回述べたように、それはまた新左翼が陥った問題でもあった。

 

大江の独自性は、まず、疎外論と労農派のアマルガムである新左翼的なもの(「民学同」→ブント)と磁場を共有しながら、そこに天皇制批判を可能にする「性的人間」というファクターを導入したところにある。

 

 それは具体的には、『万延元年』の鷹四が、天皇制を不問に付したブントではなく、それを保持し得た講座派史観=共産党系の活動家として描かれたところに見出される。すなわち鷹四は、『われらの時代』のラストで分離を余儀なくされた政治的人間(八木沢)と性的人間(靖男)とが、同一人格のもとに連帯した人物として設定されているのだ。「政治的人間と性的人間」の対照とは、大江が、自らの出発を規定していた「政治と文学」という対立を乗り越えるとともに、かといって政治=党と言って済ませるわけにはいかなくなった時代(=スターリン批判以降の「われらの時代」)に導入されたパースペクティヴであるということが、この『万延元年』において明確になるのである。

 

 では、なぜ天皇制批判は、「性的人間」によって可能になるのか。それは、戦後の天皇制―民主主義とは、端的に「性的」なものだからであろう。民主主義の平等を担保するインフラたる一夫一婦制という「性的」(ヘテロセクシャル)な規範は、戦後天皇制(戦後憲法下における天皇家)という模範的な家族によって体現されている。そして、一夫一婦制=民主主義とは、共同体内で女を独占していた「原父」を全員一致で殺すことで、近親相姦のタブーという法が導入され、それと引き換えにもたらされた共同体内(兄弟間)の平等と平和にほかならない、と。

 

 民主主義の平等とは、原父が独占していた性的享楽の分配によってもたらされる。戦後天皇制が王制ではなく民主制ならば、どこかの時点で王殺しが起こったはずだ。むろん、フレイザー金枝篇』――フロイト「トーテムとタブー」が論じる王(=原父)殺しの問題である。

 

 おそらく、これをほら話=フィクションとして退けるか否かで、大江の「性的人間」が作家の目論見として見えてくるか、あるいは単なる狂気にしか見えないかが分かれるのだろう。だが、すがが論じるように、戦後憲法=八月革命の成立自体にフロイトーケルゼンの「フィクション」が作動しているとしたらどうか。好むと好まないにかかわらず、われわれは、この歴史貫通的なフィクションを免れないことになる。このフィクションを「ごっこ」として終わらせようと苦闘したのが江藤淳だった。

 

 大江も、「セブンティーン」二部作などでこだわる、皇太子と正田美智子の結婚(一九五九年)は、「外婚制-近親相姦の禁止」の完成だった。すがの言う「戦後における法=「父の名」」である。なおかつ、民間の女性との結婚によって、戦後天皇制は「大衆天皇制」(松下圭一)へと、大衆社会化にアダプテーション=適者生存していった。現在、大衆天皇制の補完装置となっている芸能界(推し、燃ゆ!)における不倫へのバッシングも、天皇制―民主主義のバックボーンたる一夫一婦制を乱す者らに対する、平等共同体からの監視と処罰である。

 

 もちろん、『上級国民』(二〇一九年)の橘玲が言うように、先進国の「上級国民」は、財力にまかせて結婚と離婚を繰り返す「事実上の一夫多妻」である。今後、そうした「上級国民」と、一夫一婦制からはみ出す「下級国民=非モテ」との格差はますます拡大するだろう。そして、「性愛から排除され、女性から抑圧されていると考えている」非モテは、したがってフェミニズムと敵対し、ミソジニーを層として形成していくだろう。彼らを放置しておけば、アメリカの「インセル」のようにテロリズムを誘発しないとも限らない。したがって、今度はそれにアダプトしようと、大衆天皇制は、女性天皇女系天皇をも容認し拡張をはかることで、「下級国民」の受け皿=鏡像となるべく延命をはかっていくのではないか(女系天皇制が男女平等の顔をしながらネオリベ天皇制になっていく可能性については、すがの別稿「下流文学論序説」『天皇制の隠語』を参照)。

 

 だがその時も、いやその時はなおさら一層、一夫一婦制という「性的」な規範は維持されなければならないのである。繰り返せば、それこそが民主主義の男女平等のインフラだからだ。「インセル」が、一夫多妻につながりかねない自由恋愛を否定し、「道徳」的に一夫一婦制を強く求めるゆえんである。民主主義は、かくも性的なルサンチマンに覆われている。

 

 このように見てくれば、姦通、レイプ、近親相姦、肛門性交、痴漢、自慰、アルコール中毒、スカトロジー等々、すがの言う「「父の名」の排除」(ラカン)を思わせる狂気をもって、何度も回帰するように性的な倒錯が描かれる大江作品が、一夫一婦制の大衆天皇制において容認されないだろうことは容易に想像がつく。おそらく、大衆天皇制は、もう大江を読めないのではないか。もはやそれは、PCに支配された「教室」では忌避されるほかはない。そこでは、逆立ちしても「政治的人間」にはなり得ない谷崎の美的な性やフェティシズムはいくらでも受容されるものの、ともすると「政治的人間」に転化するかもしれぬ大江の「性的人間」は無理なのである。

 

 大江は、『われらの時代』の時点で、すでにそのこと――性的な次元で揺さぶりをかけられることが、大衆天皇制にとって最も嫌なこと――に自覚的だった。有名な一節だが引用しておこう。

 

ぼくはこの小説を書きはじめるまえまで、いわば牧歌的な少年たちの作家だった。ところがぼくはこの小説から、反・牧歌的な現実生活の作家になることを望んだのだった。また、ぼくはぼく自身のもっとも主要な方法として、性的なるものを採用することに、この小説をつうじて、はっきり決定したのだった。(『われらの時代』文庫版あとがき)

 

 そして、大江は、性を美的に表現する作家たちを「老人文学」と批判し、自らの方法を「その逆方向にむかって」いるとして、次のように主張する。

 

A ぼく自身は、性的なるものを表現するにあたって、直接的、具体的な性用語を頻発する、むしろ濫用するくらいだ。ぼくは性的なるものを暗示するかわりにそれを暴露し、読者に性的なものへの反撥心を喚起しようとさえする。

B ぼく自身にとって性的なるものは、外にむかってひらき、外の段階へ発展する、ひとつの突破口であって、それはそれ自体としては美的価値をもつ《存在》ではない。別の《存在》へいたるためのパイプとしての《反・存在》として小説の要素となっているものであって、ぼくはぼく自身の目的へ到るためにそれをつうじて出発する。

 

ぼくは読者を荒あらしく刺激し、憤らせ、眼ざめさせ、揺さぶりたてたいのである。そしてこの平穏な日常生活のなかで生きる人間の奥底の異常へとみちびきたいと思う。〔…〕そして、現実生活の二十世紀後半タイプの平穏なうわずみをかきたて、なめらかな表層をうちくずすために、性的なるものがもっとも有効な攪拌機あるいはドリルだと信じるからである。

 

 「性的人間」を描き続けることで、一夫一婦制=天皇制―民主主義という「平穏な日常生活のなかで生きる」「読者に性的なものへの反撥心を喚起しよう」とすること。「性的なるものがもっとも有効な撹拌機あるいはドリルだと信じる」こと。

 

 大江の狂気に満ちた「性的人間」とは、「別の《存在》へといたる」革命のための「パイプ」だった。「性的人間」に対する「反撥心」が、その不快や不穏や危険に耐えきれずPC的に排除されるとき、われわれは、平等で平和な天皇制―民主主義に、より一層包摂されるだろう。

 

(続く)