握り飯をむりやり食わせる――アンチ・オイディプスはまだ早い その5

 一方、「楯の会」を「ごっこ=戦後」の枠組で捉えた江藤淳は、三島の意図を全く理解しなかったといえる。

 

したがって今日いわゆる「自主防衛」とは、正確には「自主防衛ごっこ」あるいはmake-believeの世界における「自主防衛」だといわざるを得ない。そうだとすれば、このような位置におかれている自衛隊を国民に近づけるという理由で、「楯の会」なるものを組織して軍事教練を受けている人々は、いわば「ごっこ」のなかでさらに「ごっこ」に憂身をやつしているようなものである。ここでは現実の世界から二重の転位がおこなわれているために、現実感は二重に稀薄になり、禁忌は二重に緩和されて、当然「ごっこ」の面白さは絶妙の域に近づく。しかしこの自由さ、身軽さのなかで経験されるものは、いわば真の経験から二目盛だけずらされた経験である。その点でこれは現代小説を読む経験によく似ているかも知れない。現代日本の社会が「ごっこ」の世界のモザイクで成立している以上、そのなかでの経験の小説的表現は、大部分仮構の上に仮構を重ねたようなものとならざるを得ないからである。ここでも真の経験を求めておこなわれる行為が、いつの間にかもうひとつの「ごっこ」に変質されるという背理を認めないわけにはいかない。(江藤淳「「ごっこ」の世界が終ったとき」一九七〇年)

 

 江藤が言うように、現代日本の社会は「ごっこ」の世界であり、現代小説は「仮構の上に仮構を重ねたようなものとならざるを得ない」。だが、そのことを、三島はいやというほど知っており、まさに「ごっこ」の世界を粉砕し「真の経験」に到達するために、「楯の会」という演劇実践の訓練に踏み出したのだ。江藤はそれを捉え損なっている。江藤にとっては、たとえそれは演劇であったとしても、「芝居=ごっこ」でしかなかった。江藤は、基本的に「楯の会」を「おもちゃの兵隊」としか見なかった。三島が、エウリピデスの『メーデア』をベースにした「獅子」(一九五八年)以来、ずっとギリシア悲劇に魅かれ続け、「楯の会」の実践がその一帰結であることに、江藤は全く無理解であった。

 

 三島が見ていたのは、ギリシア悲劇の内容ではなく「大義」であった。

 

ぼくはラシーヌからだんだんコルネイユが好きになり、エウリピデスからだんだんソポクレスやアイスキュロスが好きになりという段階でしょうね。惚れたのはれたのという筋のほかにもうひとつ何かがほしい。そうするとどうしてもコルネイユ、ソポクレスが好きになる。そこにはもう一つの何か、一種の「大義」があるから。(中村光夫との対談『人間と文学』一九六八年)

 

 それは、天皇に対する「忠義」が、本来ヒューマニズムを超えるものだということ、「一人の人間が自分のまことを発揮するためにはまわりの人間を滅しちゃう」という次元を露呈させるための実践だった。三島は、「楯の会」は「百人が群なんじゃないんだ、一人一人なんだということをしきりにいうんです」(堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」一九七〇年)と言い続けた。三島の「劇場」とは、「一人一人」を「自分のまことを発揮する」人間に変革する場であり、だからこそ、そのための「稽古=訓練」が重視された。

 

 三島が『近代能楽集』や『鹿鳴館』の上演など、演劇や戯曲に関わっていくのは、一九五六年、スターリン批判の年である。期せずして、政治的、歴史的な意味において、アンダーグラウンド演劇の先駆的存在(イデオローグ?)となったといえる。その後、福田恒存との分裂騒動があり、十七名で文学座を脱退(一九六三年)し「トスカ」を上演するが、その頃から「シアトリカル(劇場的)」な演劇という理念を前面に出し始める。もちろん、これはスターリン批判を受けた新劇のスタニラフスキー・システムの(社会主義)リアリズムに対抗する方法論であったことは言うまでもないが、後の三島がことのほか「アンチ・テアトル」に批判的だったことを考え合わせると、まずもって「劇場」的=シアトリカルであることが三島の演劇にとっては重要だったということだろう。それが先の「シアトリカルな天皇」にもつながっていく。

 

 三島との対談における中村光夫の発言から引いておこう。

 

大正時代の作品というのは、文士がいろいろ戯曲を書いたでしょう。菊池寛とか山本有三は別だけれども、あと正宗白鳥とか豊島与志雄とか、ああいうのをいまでも喜んでやっている劇団もあるが、あれはやっぱりアンチ・テアトルです。劇場を無視することが文学的だと思った。それは一理あるけれど、それだけでやっていたからああいうことになった。ああいう人たちに比べれば、イオネスコとかベケットとかいうのはよほど色気があるよ。日本の場合には舞台にならないのをアンチ・テアトルだと思った。バカ正直です。(『対談・人間と文学』一九六八年)

 

 まさに、「劇場=法措定的暴力」を「無視した」、大逆事件以降=「大正時代」に対する批判としての「シアトリカル」であり「アンチ・テアトル」批判だったということだ。三島は「アンチ・テアトル」が日本に入ってきて、それが日本の伝統を払拭するための「政治」になっているという。

 

三島 どうも日本におけるヨーロッパの輸入はそういう点で広い意味の政治的なような気がしてしようがない。チェーホフを何度もやっているうちに何を発見するか。チェーホフから発見するのは「……」です。セリフのあいだの間(ま)です。そうすると、やっぱりアンチ・テアトルを政治的に輸入しながら日本人は伝統的なテアトルの技術を消化していて、しかも自分は無意識なんですね。あれは新劇の場合にじつに愚かな形で出ているが、文学の場合でもまったく同じだ。自然主義の入れ方もそうだし、実存主義もそうかもしれない。何でもそうだ。

中村 それはそうだ。だけど、それじゃどうしたらいいかということになるわね。

三島 古典へかえれ。

中村 そのとおりだよ。(前掲対談)

 

 三島の「古典へかえれ」が、小林秀雄のいう「ほんとうの伝統」などとは百八十度正反対の意味であることは、もはや言うまでもないだろう。いわば三島は、「劇場へかえれ」、神話批判の古典=ギリシア悲劇にかえれと言ったのだ。劇場を無視し、「テアトル」もきちんと通過していないのに、表面的に「アンチ・テアトル」と言っても始まるまい。オイディプスも通過していないのに、アンチ・オイディプスとばかり言っていても仕方がないように。

 

 「その3」で見たように、三島の「天皇」は、ヘーゲルの「君主」同様、あらゆる「言論の自由」に対して「みやびじゃ」と言ってすべてを許容する天皇だった。三島は、二・二六事件ヒューマニズムを超える「まこと=忠義」(それはテロリズムにすらなり得る)を理解できず、「みやびじゃ」と言って、それを受容できなかった天皇に失望していた。「まこと」の「忠義」は相手の気持ちなど忖度しない。だから、それはヒューマニズムを易々と超える「暴力」になる。

 

 それはベンヤミンが言った、あのギリシア悲劇における「異教的人間」が「自分は自分の神々より善いのだ」と、あるいは三島流に言い換えれば「自分は天皇よりまことなのだ」と自覚する瞬間でもあろう。二・二六事件青年将校たちは、「自分たちは天皇より善い=まことなのだ」と考えたといえる。この瞬間、「この認識は、みずから(の内実)を(言語的に)明らかにすることなく、密かに己れの力(暴力、ゲヴァルト)を集めようとする」(「運命と性格」一九一九年)のである。それは、「言語的に明らかに」できることではないからだ。王の「法措定的暴力」に匹敵する、ヒューマニズムを超える「まこと」の「暴力」である。そして、その「暴力」をも「みやびじゃ」と肯定し受容する姿に、王の「悲劇」があるのだ。

 

三島 でも、忠義は相手の気持ちをわかる必要はないよ。臣下として、相手の気持ちを予測したというのは、既に不忠だよ。握り飯の熱いのを握って、天皇陛下にむりやり差上げるのが、忠義だと思うんだ。

福田 召上がらなかったらどうする。

三島 お解りでしょう(笑)、でも、僕は、君主というものの悲劇はそれだと思う。覚悟しない君主というのは君主じゃないと思う。前にも、皇太子の結婚式のときに、石を投げたやつがいる。あのときの皇太子の顔というのをテレビで見たわけだ。つまり王侯が人間的表現を見せるのは、恐怖の瞬間だけで、王侯というものの持っている悲劇を見たね。だけど、しかたのないことでしょう。(福田恒存三島由紀夫「文武両道と死の哲学」一九六七年)

 

 握り飯を「むりやり」食わせる「暴力」、それを君主が「しかたのないこと=みやび」と言って受け入れていく「悲劇」。三島の創設したかった「テアトル」は、このような「暴力」と「悲劇」を上演する「劇場」だった。

 

福田 吐き出しちゃ、天皇になれないよ(笑)。だけど、ある意味で、ある思想のリーダーになったり、政治運動のリーダーになったりしたら、握り飯を食わなきゃだめですよ。

 

 いざ、その時に至って、三島を超えて最も過激にことの遂行に及ぼうとしたのは、「楯の会」の森田必勝だったとも言われる。(もしそうだったとして)この瞬間、三島は、森田に「むりやり」握り飯を食わされたといえる。そして、人間の覚悟は、「最後の五秒か十秒の間に勝負が決まる」と言って、それを「仕方なく」吐き出さずに飲み込み、「悲劇」を演じきったのだろう。

 

 繰り返せば、フロランス・デュポンが述べたように、ギリシア悲劇の内容やテクストに政治性があるわけではない。ギリシア悲劇の政治性は、それが共同体=ポリスを創設すること自体にあるのだ。三島が自らの「悲劇」で示そうとしたのも、内容ではなかった。それは内容として見たら、目も当てられない「喜劇」であったろう。だが、このとき三島は、小説による「想像の共同体」(アンダーソン)とは別なる政治を、別なる「共同体=ポリス」を、演劇実践によって創設しようとしたのではなかったか。

 

 それは、小説による「内面=想像」の共同体の枠内に収まるヒューマニズムを「暴力」的に超え得る、「まこと=大義」の共同体だった(小説による「想像の共同体」と、演劇による「共同体=ポリス」とがいかに異質であるか、文学専攻の学生同士の共同性と演劇専攻のそれとの違いとして、体感的に瞭然としている)。三島が羨望した、あの末松太平『私の昭和史』に書かれてあるような、挫折した二・二六事件青年将校の同志的結合のように。小説による「想像の共同体」がナショナリズムを形成したとしたら、演劇による「共同体」は常にそこからはみ出す。前者が国家の軍隊を要請するとしたら、後者は国家に抗する「戦争機械」を形成する。ナショナリズムが「想像」させた、そのために死に得る「国家」はもはや機能不全だが(ウクライナがそうではないらしいことに驚いたが)、後者の「同志的結合」は、常にそのために死に得る「共同体」である。

 

 三島は、このような同志的結合=「戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒の飯を喰い、死の機会は等分に見舞うところの、上長と兵士の間の倫理」を、たちまち仮構化してしまう芸術にも、現実権力にも飽き飽きしていた。現実の仮構化=リアリズム自体がすでに「腐敗=ごっこ」なのだ。

 

真に死に直面している戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構えと、死を前にした人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の権力のもっとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このような、死に直面した戦闘集団に他ならない。それさえ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに自分も亦、こっそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。

 私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。(「団蔵・芸道・再軍備」一九六六年)

 

 そして天皇の「統帥大権」の本質をここに見たのである。「統帥大権の根本精神は、もっと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に直属せしめるところにあったと思われる」。誤解を恐れずに言えば、三島にとって真に重要だったのは「天皇」ですらない。別なる「共同体=同志的結合」を「法措定的暴力」的に立ち上げ得る、この「統帥大権」なのだ。それを「文化概念としての」と呼んだのである。

 

 三島の死とは、いわば演劇実践によって文学の「外」に出ることだった。「死なないですむ」芸道=文学=仮構の「外」にしか、「現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との真の対決闘争もな」いのである。「外」がクリシェで気になるというなら、上でも下でも何でもよい。重要なのは、その1から述べてきたように、文学が「現実の権力=天皇制」と「真の対決闘争」することは、歴史的にも論理的にもないということだ。文学が、法措定的暴力の主体となる可能性はないのである。それは演劇実践をもってしか、脅かすことができない。繰り返せば、憲法改正が日程にのぼったとして、憲法改正が問題なのではない。「憲法改正」は、すでに憲法制定権力=法措定的暴力の主体を、不問に付すための議論なのだ。

 

 まずもって、そのことを露呈させるのが、三島の「劇場」のねらいだった。そこは、「現実の権力=天皇制」と「仮構の権力=演劇実践」とが、法措定的暴力の主体をめぐって「真の対決闘争」を行う、ヒューマニズムを超えたシアターであった。

 

中島一夫