長谷川宏『日本精神史 近代篇 上・下』

日本精神史 近代篇 上 (講談社選書メチエ) 作者:長谷川宏 講談社 Amazon 日本精神史(下) (講談社学術文庫) 作者:長谷川宏 講談社 Amazon 上記の書評が、『週刊読書人』12月15日号に掲載されています。

批評としてのアダプテーション――『ドライブ・マイ・カー』の「演技」について

www.youtube.com 濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』について、これは村上春樹の原作とまったく別物だ、アダプテーションとも言いがたいという声が聞かれた。その一方で、それでいて妙に村上(の文体)っぽいとも言われた。作品そのものについては…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その9

小柳もまた、石原の「のちの散文の仕事はあくまで詩の付録だと思っている」と言ったが、小柳の「付録」は、吉本の「虚偽=余計」とは決定的に異なっている。小柳は最初から、石原の詩の言葉は「地下に測り知れない泥沼を抱えて」おり、「言葉たちは地底の闇…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その8

石原は自分にしか関心がなく、自閉的で内向的な詩を書いたのではない。石原においては、はなから他者を「表現=代弁」などできないというところから言葉が発されているのである。だから、石原は別に、自己と他者を、表現可能か不可能かで区別していなかった…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その7

「棒をのんだ話」に戻れば、夕方六時に棒を抜かれた「僕」は、さんざん泣きはらした後、それが「僕にとっては自由というもののはじまりかもしれない」と思いつつ、「おもてへとび出して行く」。そして「奇妙に動物的なものの気配が、僕のからだのどこかでか…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その6

繰り返せば、石原にとって、詩とは「沈黙」するための言葉だった。 そこにあるものは/そこにそうして/あるものだ 見ろ/手がある/足がある/うすらわらいさえしている 見たものは/見たといえ〔…〕(「事実」) 明らかに「事実」について、はなから記述す…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その5

石原は、選んで「断念」したのではない。「形式」の輪郭でもって性や情動を「断念」しなければ言葉を発し得なかったのである。 花であることでしか/拮抗できない外部というものが/なければならぬ〔…〕 そのとき花であることは/もはや ひとつの宣言である…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その4

そして、小柳は、この石原の「形式=定型=枠」へのこだわりが、「性」の問題とも関わっていると見ていた。小柳はアトリエや画廊を経営し主宰する人間だったので、「大体石原吉郎の絵画の好みは幻想派のものであり、文学臭の強いものである」とその偏りを評…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その3

石原吉郎は己をサンチョ・パンサである、と思う意識が強かった。強大な敵に向かってガムシャラにつっこんでいく日本というドン・キホーテは、多くのサンチョに「わしに従いてくれば、やがて島を一つ与え、そこの王様にしてやる」といったわけなのだ。揚句、…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その2

まずは、小柳玲子が詩を読んでいた頃に持っていた石原吉郎への尊敬を失っていった、いくつかの「断片」を見てみよう。石原の死の三年前にあたる一九七四年、石原は詩人・杉克彦の三回忌を行わなかったと言って、なぜか小柳を非難する。 「杉君の三回忌、とう…

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎

サンチョ・パンサの行方―私の愛した詩人たちの思い出 作者:小柳 玲子 詩学社 Amazon 人は詩人に詩の中で会うのか、それとも詩の外で会うのか、詩に内と外はあるのか。 小柳玲子の『サンチョ・パンサの行方――私の愛した詩人たちの思い出』(二〇〇四年)を読…

平和憲法の「門前」――デリダ、カフカ、鷗外 その2

残念ながら、われわれの掟はあまりよく知られていない。支配者である小さな貴族間の秘密であるからだ。古い掟はきちんと守られているとみていいのだが、自分の知らない掟によって支配されるのは、けっこう苦痛なものである。だからといって、掟に対するさま…

平和憲法の「門前」――デリダ、カフカ、鷗外

戦後の平和憲法が、いわゆる「八月革命」(宮沢俊義)による「王殺し」によってもたらされた共同体の「平和」とその憲「法」への書き込みという、フロイト『トーテムとタブー』のような「出来事」だったとして、重要なのは、デリダが分析したように、われわ…

大杉重男氏の批判に触れて

ブログの拙稿(最近の中上健次についての記事)に対する大杉重男氏の批判 franzjoseph.blog134.fc2.com を読んだ。 大杉氏が言うように、氏と私との違いのひとつは「王殺し」の捉え方だろう。大杉氏は、実際に(リアルに)王が殺されていないならば「王殺し…

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その6

見てきたように、中上は、「父」になろうとする者がいない日本近代文学が、いったい何を「抑圧」し「排除」してきたのかを明らかにすべく、「物語の系譜」へと向かった。「父」になろうとする者がいないのは、「父」がやがて自壊に追い込まれていくほど劣化…

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その5

「性、生殖、それが人を拝跪させる」のは、性と生殖こそが、親―子の垂直的な「ズレ」を不可避的に生じさせるからだ。そして親―子の「ズレ」が名づけを招き寄せることで、差別—被差別の「ズレ」をもあらしめるのである。だから、差別とは、この「ズレ」に「ロ…

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その4

述べてきたように、近代の啓蒙的理性からすれば、「王殺し」は不可避的で「自然」の出来事であり、言うなればむしろ「善」ではないのか。にもかかわらず、それを「悪」にしたてあげていき、デッチあげていくのが「物語」という「法・制度」である。「大逆」…

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その3

これはもう、被差別部落出身の人間の条件かもしれないんですけど、それがなぜ物語の主人公となって、いわゆる王子としか言いようのないような響きを持ってくるのか。単にそれは、みなし児であったり、私生児であったりすることが、読者にかわいそうだと思わ…

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その2

「神の死」以降の近代においては、「王殺し」は不可避的な帰結である。王は、神を担保にしてのみ王なのだから(その意味で「王権」とは本来的に「神授」である)、背後を支える神(大文字の他者)が不在ならば、王の根拠も不在であり、王には常にすでにスラ…

物語と悪――王殺し「後」の中上健次

三島由紀夫も中上健次も、父(親)の文学がないこと、子の文学しかないことに愚直にぶつかった。 三島 動物的な家父長、そうなったら文学など要らない。父親になろうという欲求があるのは当たりまえで、どんなサラリーマンでもそういう欲求を持っている。左…

安藤礼二『縄文論』

上記の書評が、「週刊読書人」12月16日号に掲載されています。

握り飯をむりやり食わせる――アンチ・オイディプスはまだ早い その5

一方、「楯の会」を「ごっこ=戦後」の枠組で捉えた江藤淳は、三島の意図を全く理解しなかったといえる。 したがって今日いわゆる「自主防衛」とは、正確には「自主防衛ごっこ」あるいはmake-believeの世界における「自主防衛」だといわざるを得ない。そうだ…

劇場を再起動する暴力――アンチ・オイディプスはまだ早い その4

繰り返せば、ベンヤミンは、バロック悲劇の「根源」を思考するために、同時にギリシア悲劇を見る必要があった。それは、近代=バロックの演劇が「法維持的暴力」の「反復」たらざるを得ないとしても、それがどこかで(例外状況において)ギリシア悲劇の反神…

ベンヤミンのシュミット批判――アンチ・オイディプスはまだ早い その3

シュミットが、近代の「政治」とはまさに「政治神学」であり、世俗化された「神学」だと言ったのもそうした意味においてである。「例外状況」とは、神学おける「奇蹟」に相当するわけだ。したがって、ここでは不可避的に神(話)との再結託が起こるのである…

アンチ・オイディプスはまだ早い その2

では、一方バロック悲劇はどうか。おそらく、ベンヤミンのいう、ギリシア悲劇とバロック悲劇の違いが最も端的に現れるのが、「王」の捉え方においてであろう。 バロック悲劇の王は「被造物の頂点たる者」としての専制君主であり、「君主は歴史を代表する」。…

アンチ・オイディプスはまだ早い

前のエントリーでも述べたように、国会開設と憲法発布に向けた自由民権運動の「欲望」を、天皇が上からの詔勅という形で取り上げてしまったとき、自由民権運動はあらかじめの挫折を余儀なくされた。その時、天皇は、主権者として「法措定的暴力」(ベンヤミ…

文学は故郷を失ったことなどない その2

日本近代文学の「内面」という制度が、実はメランコリックな「欲望」だとして、その欲望が満たされることはあり得ない。なぜなら、その欲望の対象は、はじめから「欠如」しており、本当は「喪失=メランコリー」ではないからだ。メランコリー自体が捏造され…

文学は故郷を失ったことなどない

すが秀実の「「鬱」とナショナリズム」(「ユリイカ」二〇〇四年五月)は、確か単行本未収録だが、天皇制と民主主義とが――すなわち日本近代文学の起源において創設された「国民」(ネーション)が――矛盾なく受け取られている今日、ますます重要な批評として…

杉田俊介『橋川文三とその浪漫』

上記の書評が、「週刊読書人」7月1日号に掲載されています。

「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その5

井上良雄が、志賀直哉と近代プロレタリアートを結合しようとしたことは、有島武郎『宣言一つ』以来の、インテリゲンツィアのプロレタリアートへの(不可能な)階級移行の問題に関わっていた。だからこそ、あたかも志賀直哉が、共産主義者とリベラルなプティ…