物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その5

 「性、生殖、それが人を拝跪させる」のは、性と生殖こそが、親―子の垂直的な「ズレ」を不可避的に生じさせるからだ。そして親―子の「ズレ」が名づけを招き寄せることで、差別—被差別の「ズレ」をもあらしめるのである。だから、差別とは、この「ズレ」に「ロジックとして最初から組み込まれている」「機構」としてある。人はただ、これに「拝跪」するしかない(その3で見たように、これを消滅させるには、人工子宮や養育のためのデバイスによって、親―子の「ズレ」そのものを生じさせないようにするほかない)。中上以降のわれわれは、「差別」についてせめてこのことをふまえておくべきだろう。

 

 「被差別部落を訪ねるたびに、私が思い描いた「戦争」とはこの敗れた者らと勝利した者らの戦の事である」(『紀州』)。なるほど、中上は紀州を「敗れた者らの棲む国」=「闇の国家」と呼んだ。だが、見てきたように、決して「被害者」(被差別者)として紀州を語ったのではない。中上が見ようとしたのは、あくまで「敗れた者らと勝利した者ら」の「ズレ=戦」であり、したがって「輝くほど明るい」と同時に「闇の国家」なのだ。だが、この「ズレ=戦」は必ずや「去勢」され「機構」として「差別」を生み出してしまう。いつだって戦争は、「ズレ」を「敗れた者らと勝利した者ら」に分断させる。「差別」はそこから生じる。だから中上は、「戦、戦争に勝利する事があるのだろうか」と言ったのである。それは、紀州が常に「敗れた者らの棲む国」だった、必敗だったという意味ではない。それは、われわれが「戦争—差別」という「機構」自体に「勝利する事があるのだろうか」という意味だ。

 

 だからこそ、中上には、藤村『破戒』の「瀬川丑松」の「懺悔=告白」が許せなかったのである。「告白」することで、たちまち「被差別者=被害者」の立場の文学へと自ら進んで「去勢」され、あの「機構」へと身を任せることになってしまうからだ。

 

『破戒』が、何故、穢多であるという告白をもって終らねばならなかったのか? 私は世の文学研究家や批評家と違い、瀬川丑松のその告白を作家島崎藤村の衰弱であると思うし、穢多とは社会の法や制度であり瀬川丑松が背負う差別=物語である事を考えると、つまりそこで藤村がやった事は、法や制度、物語を人間中心主義、「文学」主義におとし入れたのである。

 物語、法、制度から、階級をかくし差別をかくしたのはこの時からである。物語、法や制度の持っている機能とはまったく逆の人間中心主義、人道主義が小説であり文学であると言われて来たのはこの時からで、プロレタリア文学から新感覚派まで人道主義である事には変りない。看板に偽りがあるのである。たとえばプロレタリア文学を好意的に解釈すれば小林多喜二宮本百合子を頂点とする人道主義文学であるだけで、そこでマルクスの発見したプロレタリアートと匹敵する物語のプロレタリアートつまり主人公に関しても無自覚であってもよかったし、労働に関するつきつめた考えも必要なかったのである。(「物語の系譜 谷崎潤一郎」)

 

この差別が露呈し、階級が露呈した時代で、島崎藤村の『破戒』のように、階級である穢多を人間の問題として個人の問題としてすりかえ涙を流すようなセンチメンタリズムは許されないのである。藤村は丑松を差別という物語の餌食にしたが、丑松の穢多としての差異性に一言も触れず口をつぐんだのである。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

 「丑松の穢多としての差異性」とは、「被差別」として「去勢」される以前の「差別—被差別」(親―子)の「ズレ=差異」のことだ。差別は、この「ズレ」が、「丑松」と名付けられた「個人の問題」として名指された瞬間に生起する。この時、「ズレ=階級」の問題は、「個人」の「人間」の問題へと還元されてしまうだろう。中上の言う「人間中心主義」や「人道主義」という「センチメンタリズム」の発動である。

 

 知られるように、中村光夫は、プロレタリア文学者らが転向すると私小説を書き始めることを批判した。したがって中村は、のちにプロレタリア文学自体を評価しなくなる。中上は、それを言うなら、プロレタリア文学は最初から人間中心主義や文学主義に転向していると言いたいのだ。つまりプロレタリア文学は最初から私小説ではないのか、と。プロレタリアートが「被差別者=被害者」として「告白=告発」するという「人間中心主義」が、すでに「差別」だからだ(例えば石原吉郎は、そうした「差別」を回避するために、ラーゲリの「囚人」でありながら、被害者として「告発せず」を貫いたのである。それは「告発」できない「弱者」などではない、いわば「ペシミストの勇気」(石原)である)。

 

 中上の言う「転向」はもっと手前にある。

 

春夫の故郷が紀州新宮であったゆえに、文学者としての最初の出発点で、転向せざるを得なくなるのである。転向、と私は言ったが、これも、世間で言うところのマルクス主義という思想を棄てるというものとは違う。紀州新宮出身をひとまず身の内側にかくす事である。文学者のまだ経験が蓄積されていない年齢に、出郷して来たばかりの郷里紀州新宮で、天皇暗殺謀議があり何人かが逮捕されたのである。春夫は、神武東征以来の紀州を知っていたはずだった。大津皇子以来流れる、敗れおとしめられた紀州というもうひとつの共同幻想を知っていたはずである。その物語といまひとつ、現存する国家という物語を前にして、春夫は、紀州という物語を、それ以降、黙したはずである。あえて言ってみるなら、春夫は、紀州に関して、『破戒』の丑松の状態にいた。紀州について口をひらけば、あの物語とこの物語が、身を滅びさす。転向とは、この発見の事である。(「物語の系譜 佐藤春夫」)

 

 「春夫は、紀州に関して、『破戒』の丑松の状態にいた」と中上は言う。だが、ここから両者は分岐する。素知らぬ顔でパスしきらず、結局丑松に戒めを破らせ「穢多」であることを「告白=懺悔」させてしまう藤村の「衰弱」とは違って、春夫は「紀州について口をひらけば、あの物語とこの物語が、身を滅びさす」(中上の言う「切って血の出る物語」)ので、「紀州新宮出身をひとまず身の内側にかくす」のである。「現存する国家」が「物語」なら、「神武東征以来の紀州」「天皇暗殺謀議があり何人かが逮捕された」「敗れおとしめられた紀州」もまた「もうひとつの共同幻想」=「物語」なのだ。どちらに身を寄せても、「物語」の餌食になるだけだ。まずもって、中上の言う「転向とは、この発見の事である」。

 

 中上は、谷崎のように、隷属する「物語のブタ」になり下がるのではなく、紀州に身を隠し、紀州について口をつぐんで「物語」を回避しようとした春夫の「転向」を、ひとまず肯定する。紀州に生まれ落ちた以上、「転向」は不可避なのだ。いやでも「紀州」の「物語」を「発見」してしまうからである。

 

 だが、中上は、藤村よりも春夫よりも一歩進み出ようとした。被差別者が戒めを破って被害者として「告白」するのでもなく、被差別者が被差別者であることを口をつぐんで「身元隠し(パッシング)」するのでもない形で、誰もに取り憑き容易に「法・制度」と化す「物語」に対して抵抗はできないものか。

 

秋成はまず先にあげた二つの差異性により差別にさらされているのである。この作家論の中でことさら言うまでもないが、様々な差別が今なお現存しているし、それが差別語隠しや差別隠しで解消されるものではないが、この秋成の時代が、穢多解放令の出た時代でも水平社宣言のなされた時代でもないのである。まだ差別の隠蔽は進んではいない。という事は、出生の謎は容易に噂されたし、手の指の不具も人の視線にさらされた。

 秋成の過激さや、怪異の持つどこかやるせないような味のするグロテスクさ、血のにおい、性のにおいは、この社会に向かって秋成が打ち返した被差別者の差別ではなかったろうかと言う事である。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

 中上は、「秋成の時代が、穢多の解放令の出た時代でも水平社宣言のなされた時代でもない」ことを重視する。それは、見てきたような、王殺し「後」の市民社会やその近代文学ディスクールたる象徴界参入以前の言説空間である。中上の言うように、「穢多解放令」が出される以前においては、「穢多」や「部落民」がタブーではなく「自然」のまま露呈しており、それらに対する「差別の隠蔽は進んではいない」のだ。中上にとって、日本近代文学ディスクールは、「穢多解放令」の発令と密接に結びついていた。

 

「穢多非人等之称ヲ被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」とした、一八七一年(明治四年)のいわゆる太政官布告による「解放令」以後も、「穢多」や「非人」といった蔑称は存続し、「新平民」、「特殊部落民」といった造語さえ誕生したとしても、論理的には部落民は存在しないはずである。「解放令」によって、部落民は過去の遺制から「解放」された自由な「市民」として措定され、新たに「国民」に包摂されたはずなのだ。〔…〕

 

 部落民は存在しない。それは『オリエンタリズム』の著者サイードが、「東洋(オリエント)」とは西欧の眼差しによって形成され、表象=支配(マスター)されたイメージとしてのみ存在すると言い、多くのフェミニズム流派が「女」は男の眼差しに捉えられたイメージにすぎないと言うのと同様である。それゆえ、オリエンタリズムへの批判は、不断に東洋は存在しないというイメージを発することであるし、フェミニズムは「女」は存在しないと言い続けなければならない(ジジェク『斜めから見る』参照)。

同様に、「解放令」以降にあっては、「部落民は存在しない」と言い続ける戦略こそ、最も合理的かつラディカルなものであったはずだ。「我は穢多なり」と宣言する猪子蓮太郎は、まさしく、そのことを言っている。「我は穢多なり」とは、自分は「穢多」と呼ばれているが、どこに「他者性のスティグマ」があるのかと問い返しているからである。(絓秀実『「帝国」の文学』二〇〇一年)

 

 西洋の啓蒙的理性は、「部落民」という「被差別」を認めるわけにはいかない。したがって、そこでは「部落民は存在しない」が全てだ。だから、もし「部落民」が「存在」するとしたら、それは「市民=平民」による「イメージ」にすぎない。よく誤解されるが、「女は存在しない」とは、「女」として区別するなどということは、啓蒙的理性においてはあってはならないのでは?という問い返しなのである。すると「部落民は存在しない」は、その2で見たような、王殺し「後」の市民社会においては、「罪」も「悪」も「存在しない」というのと同義と見なせよう。「部落民は存在しない」ことは、「罪」や「悪」が「存在しない」のと同様、啓蒙的理性の「勝利」であり「解放」(解放令!)なのだ。したがって、そこにおいては、「「解放令」以降にあっては、「部落民は存在しない」と言い続ける戦略こそ、最も合理的かつラディカルなものであったはずだ」。にもかかわらず、「問題は、「部落民は存在しない」と言い続ける猪子が部落民として殺され、猪子に私淑する丑松が部落民として「放逐」されるということにある」。

 

 重要なのは、この王殺し「後」=啓蒙的理性以降の「部落民は存在しない」、「悪は存在しない」が、見てきたように自然なものではなく、「物語」という「法・制度」による作為=擬制だということだ。そこにおける「部落民」や「悪」は、その3で見たように、すでに市民社会の「法・制度」へのつつしみを欠いた状態として、解毒されつつ市民社会に回収されている。それは上の引用の「東洋」や「女」が、「西洋」や「男」の「眼差し」によって「表象=支配されたイメージ」にすぎないことと別のことではない。そこでは、すでに「部落民」は「市民」(平民)の、「悪」は「善」の「前期的状態」なのだ。「眼差し」とは、「東洋」や「女」を区別しながらも、「前期的状態」として回収しようとする「表象=支配(マスター)」の権力である。

 

 中上が嗅ぎつけたのは、解放令以降の「部落民は存在しない」にこそ「差別」が存在するということである。それは、啓蒙的理性(西欧の眼差し)が、「部落民」をほどよく飼い慣らすための「物語」であり、つまりは統治のイデオロギーなのだということだ。ラカンジジェクなら、「部落民は存在しない」が(ゆえに)、それは「もの」として存在すると言うだろう。それに対して中上が思考しようとしたのは、いわば真に「部落民」や「悪」が「存在しない」位相であった。それは、「部落民」や「悪」がそう名指され、概念としてアイデンティティをもつ以前の「ズレ=階級」としてしか存在しない言説空間である。

 

 繰り返せば、中上にすれば、「階級である穢多を人間の問題として個人の問題としてすりかえ涙を流すようなセンチメンタリズムは許されないのである」。中上が試みようとしたのは、差別を「人間」や「個人」ではなく、あくまで「階級」という「ズレ」として露呈させることだった。あの「親(王)―子(王子)」の「ズレ」としてである。そのためには、市民社会象徴界においては「存在しない」はずの「親(王)殺し」の「罪」や「悪」を、まずもって存在せしめる必要があった。言い換えれば、「王=親殺し」を思考し得ないということは、「階級」を思考し得ないということなのである。もちろん、その時、「被差別者」という「被害者」の立場からそれを行ってしまえば、差別の実体化や固定化に終わる(「明治政府による「解放令」の欺瞞性を言い立てることは容易であり、そのような批判は、全国水平社から現代にいたるまで、繰り返されている。批判自体は重要である。しかしそれは往々にして、想像的=鏡像的にしか存在しえない部落民を、実体化してしまう反動に帰結する」絓秀実『「帝国」の文学』)。何度も述べてきたように、中上に言わせれば、それもまた「物語」なのだ。

 

 むろん、「部落民(東洋、女)は存在しない」に対して、「否、それは存在する」と反論するのが重要なのではない。「親(王)殺し」は「存在しない」に対して、「存在する」と言ってもはじまらない。あくまで問題は、「親(王)殺し」など「存在しない」ことになっている市民社会の形成に貢献してきた日本近代文学象徴界において、なぜいかにしてそれが「存在しない」こととなったのかということだ。「市民社会象徴界」が「親(王)殺し」を「差別」(排除、去勢)することで自らを生成させていく過程を、市民社会の「物語」の核として浮き彫りにすることである。マルクス資本論』の「価値形態論」が、なぜいかにして商品世界(市民社会)から「貨幣」が「差別」(排除)されていくのを明らかにしたように。中上が、「『資本論』としての物語論」(「物語の系譜 佐藤春夫」)を書く必要を説いたゆえんである。

 

 小説や物語を書くのみならず、それらが何によって成立してきたかを「系譜」学的に吟味すること。そうした思考によってはじめて、「被差別者が差別者=市民社会を差別する」ことが可能になるだろう。繰り返せば、それは「存在しない」「被差別者」を「存在する」という単なる反動ではあり得ない。「差別者」「被差別者」もろともからめとっては「差別」しにかかる「物語の核」を押さえることだ。「被差別者が差別者を差別する事とは、被差別者が差別被差別という物語の核を押さえているという条件がいる」(「物語の系譜 上田秋成」)。

 

 中上にとって、秋成とは、ほとんど「人間の名」ではない。それは、まずは第一段階として「存在しない」「物語」をあらしめ「物語の機能を見定め」たうえで、次に第二段階として「物語」を破壊しようとする一個の「意志」の名だ。中上にとって「秋成」とは、市民社会という王殺し「後」の統治(現存する国家)に対する、二段階革命=戦争への「邪悪な意志」の名である。

 

秋成とは単なる人間の名ではない。なにもかも抑圧下に繰り込み、その抑圧に異和を唱える者や齟齬を起すものを排除し、さらに排除した者にも新たな抑圧を加える作用を持つ物語への、邪悪な意志そのものだと言った方がよい。秋成とは、物語の機能を見定め、物語を破壊し名づけようのない十全な作品(?)や存在たらんとする者の意志そのものである。現代作家の我われは秋成を読むことによって、秋成の邪悪な意志を自分の中に確認する事でしか、迷妄の破壊、通俗の破壊、「文学」主義への破壊、人間中心主義の破壊は起り得ないのである。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

(続く)