物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その2

 「神の死」以降の近代においては、「王殺し」は不可避的な帰結である。王は、神を担保にしてのみ王なのだから(その意味で「王権」とは本来的に「神授」である)、背後を支える神(大文字の他者)が不在ならば、王の根拠も不在であり、王には常にすでにスラッシュが引かれていることになる。近代とは、基本的に脱神話化の啓蒙的理性の時代である。神=金を殺し、そのことで資本主義を先へ先へと駆動させていく近代の啓蒙的理性は、それ自体「王」を殺しているといってよい。

 

 大逆事件という「王殺し」は、その意味で不可避的だった。実際に王が殺されようといまいと、すでに「王殺し」は論理的に起こってしまっているのだ。したがって、近代国家の権力構造とは、王殺し「後」の空席を、いかに「空席」のまま守るかという形態をとらざるを得ない。空席が埋まっているとしてしまえば、近代の啓蒙的理性によって、たちまち「王殺し」が作動するだろうからだ。近代の国家権力とは、すでに王はいないのに、いる「かのように」ふるまうことにほかならない。あるいは逆に、まだ王がいる「かのように」空席を守ると言ってもよい。「空席」とは、国家の主権にほかならない。

 

 このことを一番わかっていたのは、「かのように」の森鴎外だった。その1で見た三島が、日本文学には鷗外しか父になろうとした者がいないと言ったのは、この意味においてである。そして、繰り返せば、三島や中上は、だからこそ鷗外の水準で「父=権力」の問題を考えねばならないと考えたのだ。

 

 言うまでもなく、これは王殺し「後」のヘーゲルの問題でもあった。神学生時代のヘーゲルフランス革命=王殺しに出会い、革命に新しい時代の始まりを見た。『精神現象学』(一八〇七年)にはフランス革命への熱い期待が濃厚にみられる。そこでは人間の歴史とは、自己の生存を賭して繰り広げられる「相互承認のための闘争」(言うまでもなくホッブズ「万人の万人に対する闘争」の影響を受けている)を経て初めて獲得される「自由な意識」の発展の歴史である。この闘争においては、死を恐れず自らの尊厳を相手に認めさせ、「自由な意識」の発展に貢献した者が「主」の側に立ち、死を恐れ「自由な意識」において消極的、受動的だった者が「奴」の側に立たされる。市民社会とは、「自由な意識」という価値を軸に構成される社会である。

 

 だが、ここから「奴」が「主」のために行う「労働」を媒介として、「主」と「奴」が逆転していくという「主と奴の弁証法」が作動していくことで、人間の「自由な意識」はより発展していくのである。さながら、もはや「金」という王座に安住し得ない「貨幣」が、メタレベル(主=貨幣)とオブジェクトレベル(奴=商品)を盛んに往還しながら資本主義システムを発展させていくように。

 

 だが、このように「自由な意識」の発展によって形成されていく「市民社会」に、ヘーゲルは幻滅を覚えていくことになる。そこは人間が人間を手段化する功利主義が蔓延る倫理的精神の分裂態にすぎなかったからだ。もちろん、ジャコバン派テロリズムの連続も大きかっただろう。カントの裏のサドの問題である。

 

 したがってヘーゲルは、一八二〇年代に展開された『法哲学講義』においては、家族―市民社会―国家と高次に移行していくにしたがって倫理の分裂を乗り越え、「国家」に至って社会的有機体としての普遍性が露わになるというビジョンを打ち出すことになるだろう。そして「国家」においてはじめて人間は、「公民」として倫理的な存在となるのである。フランス革命=王殺し「後」の世界を見てしまったヘーゲルにとって、倫理が分裂した市民社会の成員が、国家権力の中枢へと進み出て政治化することが、そしてあの「空席=主権」を占拠してしまうことが、すなわち「大逆事件」が生起することが、何よりも頭痛の種だった。「自由な意識」の発展とは、同時にジャコバンテロリズム市民社会全体に浸透するということでもあるのだ。神学校で同じ寮にいたヘルダーリンは、狂気に陥ってしまったではないか。

 

 王殺し「後」の世界とは、市民社会が衰退し危機に陥る世界ではない。市民社会自体が危機なのだ。倫理を喪失した市民社会に、お互いを調停する「見えざる手」は作動していない。王殺し「後」に「悪」を解決する「探偵」は存在しないのだ(だからこそ「探偵小説」というフィクションが、「国家」のイデオロギー装置として不断に要請される。その1で見たように、大逆事件「後」の「大正」期は探偵小説の温床となった)。ヘーゲルが共和制ではなく君主制を志向したゆえんである。市民社会=危機に対して、いかに「空席」を「空席」のまま保守するのか――。山之内靖も言うように、「ヘーゲルは最初のシステム論者なのだ」(『総力戦体制』二〇一五年)。

 

 今や資本主義の運動やそれによる市民社会=自由な意識の拡大に、希望や解放を見ている者は誰もいまい。「悪」は蔓延し体感治安は悪化の一途である。「カルト」化した神の「代わりに」「手製」の銃で襲われたという「元」首相へのテロは、ジャコバンテロリズムが何重にも歪曲化されたそれではなかったのかどうか。資本の拡大の裏面としての監視・管理や自粛(警察)による「市民社会の衰退」は、今後もますます進行するだろう。もはやカントの裏側のサドではなく、カントなきサドといってもよい(だがそれは可能なのか)。中上「物語の系譜」が、「探偵小説」の「起源」たる佐藤春夫谷崎潤一郎を入り口に、続けて上田秋成「樊噲」の「それ何事かは」という「悪漢小説」に向ったゆえんだ。実際中上は、秋成とサドを並べてみせる。

 

「それ何事かは」とは、つまり、てやんでえ、という言葉である。いや、江戸や東京の言葉の語感より、それが何だと言うのだ、と素直に口語訳した方が、法や制度を侵犯し抵触することの主人公らの行動のダイナミズムを喚起しうる。

「それ何事かは」とはつまり自己の肯定の衝動である。それは法・制度を侵犯し、抵触する人間の共通の気持ちであり、それが書かれたものであるなら定理定型でもある。悪漢小説、主人公が悪を次々起していくという小説の原基が、この「それ何事かは」である。

〔…〕前回、私は谷崎潤一郎の項で、法・制度上において悪は善の前期的状態であり悪とは法・制度への慎しさを欠いた事にすぎないと言ったが、法・制度上において表れた悪がもし悪として貫徹されるならそれは実に幼児的な意匠をまとってあらわれるだろうという事である。ここでも、マルキ・ド・サドを思い出して頂きたい。物語の舞台はいかなる権力も法・制度が及ばないところで、サドの登場人物は、考えつく限りのありとあらゆる快楽をなるたけ純粋抽出しようとする。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

 探偵小説から悪漢小説へ。このような文脈で見てくれば、中上にとって「物語」とは、王殺し「後」の問題であったことが、より鮮明になってくるだろう。中上は、例えば『オイディプス王』に「物語」の構造を見た。

 

ギリシア悲劇の舞台装置がどんな形をとってたのか、はっきり分からないみたいなんですが、ひょっとすると、こういう丸い舞台だったんじゃないかと思うんですよ。それでこう、上に神々がいて、その円陣を見てるっていう、そういう構造をとってたんじゃないかと思うんです。つまり、王様をずうっとはるか天の方から神々が見てるみたいな。つまりそれは、王の位置から転がり落ちてる王、ずうっと上の方に神様がいて、その神様に一等近いところに王がいるんですが、この位置から転がり落ちて、子供の王子の位置に落ちてしまう。

〔…〕オイディプスというのは、王様のずうっとはるか上にあった神の位置から落ちちゃった。王子としてあった自分の昔の罪を探り明かし、自分がその罪の張本人であるってことを分かった時に、一挙に落ちてしまったということだと思うんです。そういう具合に、出生の謎を持った王が子供であった時代の謎を暴かれると、一挙に落ちてしまうっていうのが僕、非常に面白い構造だと思うんです。その王子だった時に犯した罪というのは、王子が孤児、私生児であるっていう、そういう輝きの必然ではなかったのか、ということなんです。それがですね、孤児であったり、私生児であったりした王子が、ひとたび王になると、罪として甦ってきて、それが疫病の原因になってしまうというからくりなんですよね。これが、子と親というもののからくりですね。吉本隆明さんの言葉で言えば、対幻想の領域になってくるんですけど、つまり子供は親に追いつきませんね。親が十分活力がある時に、子供はまだ弱くて小さいんですよね。ところが、子供がいっぱしの大人になった時には、親が老衰していくみたいな、たえずそういうズレがある。そのズレこそ、つまり王子が犯した罪という形になるんじゃないか、という気がするわけなんです。

 ということは、その王子の犯した罪を、王子が知ってるっていうんじゃなしに、その罪を知らないわけなんですね。それを知るのは、後になってからなんだけど、つまり、子供の目から見れば、親はたえず出生が謎である。分からないものですよ。自分が間に合わないんですからね。親の目から見れば、子供は分かりますよね。親は子供を分かるのに、子供から言えば親はたえず謎であるわけなんですよ。こう追っていっても、先に行ってしまってるみたいな。(『中上健次と熊野』)

 

 「オイディプスというのは、王様のずうっとはるか上にあって神の位置から落ちちゃった」。先に述べたように、「神の死」以降、王は神を笠に着れなくなり、「神の位置」から「転がり落ちる」。何度も言うように、「王殺し」は不可避的なのだ。だが、「ギリシア悲劇ってのを一番意識した観客の位置っていうのは、要するに空の上にいる神様の視点だったんじゃないか」。そこにおいては、いまだ神―王―王子というズレ=亀裂をはらみながらの垂直性が形をとどめており、だからこそ王子の犯した王殺しを「罪」として認識できたのではないかと中上は考える。近代の資本主義的な啓蒙的理性が失ったのは、この「神の視点」による垂直性である。そこにおいては、「王殺し」はすでに潜在的な論理として働いており、したがって主体には「罪」も「悪」も不在なのだ。「王殺し」はつねにすでに起こってしまっており、したがってその「後」、市民社会が広がっていくことに「罪」も「悪」も見ることはできない。それどころか、それは啓蒙的理性の「勝利」であり、「希望」で「解放」と言われるわけだ。

 

 一方、オイディプスは、「王子としてあった自分の罪」、すなわち「王殺し」の罪の「張本人であるってことを分かった時に、一挙に落ちてしまった」という垂直性を生きてしまう。だが重要なのは、中上が言う「王子の犯した罪」は、王を殺したという出来事自体ではないということだ。中上のいう「罪」は、人間が「親」と「子」としてあるほかないという、もっと「原罪」的なものである。中上の「罪」は、つきつめれば「子供は親に追いつきませんね」「親は子供を分かるのに、子供から言えば、親はたえず謎であるわけなんですよ。こう追っていっても、先に行ってしまってる」という、「親」と「子」の「ズレ」そのものである。この「ズレ」が「原罪」であり、そこにはすでに王殺しも被差別部落の問題もすべて内包されてしまっているのだ。どういうことか。

 

(続く)