物語と悪――王殺し「後」の中上健次

 三島由紀夫中上健次も、父(親)の文学がないこと、子の文学しかないことに愚直にぶつかった。

 

三島 動物的な家父長、そうなったら文学など要らない。父親になろうという欲求があるのは当たりまえで、どんなサラリーマンでもそういう欲求を持っている。左翼文学もこんどは転向によってあとファーターになろうとした人はいない。戦後になってもまた再び息子の文学が復活して、安岡君の文学など典型的だと思うんですが、父親を「海辺の光景」みたいにあれだけ書いたら、あと残っているのは自分が父親になるより方法がない。だけど彼はどうしても父親になれないから「幕が下りてから」を書く。いまだにぼくの文学を含めて石原君でも大江君でも、みな息子の文学をずっとやってきている。そうすると、文学をやりながらどうして父親になれないのだろうかということは、露伴、鷗外は別として、実に不思議な問題で、自分の青春からどうして文学をひき離せないのかということですね。(『対談 人間と文学』一九六八年)

 

 一方中上は、「息子の文学しかない」ことを、「被害者の文学しかない」「加害者の文学は書けない」という「物語の定型」として考えた。

 

従って、こういう物語のコード、物語の定型から見ると、戦後文学、第一次戦後派の文学は非常に浅いところで書かれていた。例えば、軍隊批判を書いているわけなんですけど、たえずこう自分を弱者の立場、被害者の立場に置いている。すると、主人公は自動的に全て純潔になるわけなんですよ。しかしながら、彼らは徹底的に考えつめたことがなかったが故に、その純潔さがやっぱり薄い。それから、批判が中途半端になる。逆に物語の本当の悪っていうんですかね、僕が思い描いてる親という、非常に邪悪な自然、そういうものが主人公になりえない。つまり、結果的には戦後文学は、たえず被害者の文学で、ヒーローは純潔でいいわけなんですね。

 戦争に引っぱられて行って、私はいやいややられましたと。これもつまり、純潔でいいわけなんです。日本は様々な所へ出かけて行ったんですが、その小説の中には朝鮮に行って、あるいは中国に行ってやったその本当の加害の戦争ですか、そういう加害者の文学はないわけなんですね。これはけして、文学者が怠慢であるとかじゃなしに、物語の定型として、加害者の文学は書けないという定型があるわけなんです。そして、今までの人はその定型が分からなかった。物語をあんまり一生懸命に考えなかったわけなんです。それ故に、戦後文学、第一次戦後派の描く文学が、要するにインテリの声だけで、そういう加害者としての文学にみたいな部分に口封じしちゃっているという、やっぱり狭さ、浅さがあるんです。(『中上健次と熊野』二〇〇〇年)

 

 またぞろマッチョな「父と子」と思われるだろうが、そうは言っても、三島や中上が躓いた「父と子」の問題は何一つ片付いていない。それは、端的に天皇制と権力の問題だからだ。中上は、「私と三島由紀夫との違いは、言葉として「天皇」と言わぬことである」(『紀州』一九七八年)と言った。中上には、三島が、アプローチこそ違いあれ、自分と同様に「父」の権力構造に手を突っ込もうとしていたことがよく分かっていた。

 

三島 しかしセンチメンタルの通路をくぐって権力構造に入れるという別のメトーデがあると思っていて、それがぼくが右翼とかいったりする理由なんです。忠義とか、恋闕の情とか……。〔…〕ああいう入り口があって向う側に行けるのじゃないかと考えた。それは間違っているかもしれないし、虎穴に入らずんば虎子を得ずというつもりでも、案外虎子を得ずして虎穴で死んじゃうかもしれないが、そういう入り口しかないような気がする。(『対談 人間と文学』)

 

 確かに三島は、中上が言うように「天皇」と言ったり「右翼とかいったり」したが、それらは「権力構造=虎穴」に入るための「入り口」だった。新左翼は「天皇」と言わず天皇制を思考し得なくなっていた。だから三島は、東大全共闘に「天皇天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」と例の挑発を繰り出した。だが、これについては今は措こう。三島や中上の前には、まだ日本近代文学史が、誰も父親になろうとしない、いやなることができない日本近代文学史が、厳然と生きていた。その構造にぶつからなければ、いつまでたっても文学は、権力(もはや「政治」とは言うまい。「政治」と言えば問題がぼやけてしまう)を描けないだろうという虚無感を共有していた。なぜなら権力を描けないということは、いつまでも文学は人畜無害な「文化」の域を出ないということだからだ。

 

 三島は、誰も父親になれない日本近代文学史を、次のように概観する。

 

ファーター・ウント・ゾーン・プロブレムというのが明治のどのへんで胚胎して、どのへんで主流になって、戦後にまで及んで安岡章太郎などにあらわれるか。ぼくはあれはドイツの浪漫派の名残りだと思いますけれども、ああいうものがずっと十九世紀文学を支配した。日本ではおそらく「白樺」があの絶頂でしょうね。そのファーターが家父長から国家権力に移ってゆくと、それに応じてプロレタリア文学がだんだん盛んになりますね。つまり、明治時代に父によって代表されていた国家権力が大正になって、一寸隙間を見せると、父だけが前面に出て来て、又、昭和以後、国家権力絶対になるまでの過渡的な時期があるのですね。転向時代でファーター・ウント・ゾーン・プロブレムが志賀直哉の「和解」のごとく一応和解しますね。また戦後になって、死んだファーターあるいは衰えたファーターへのパロディがはじまる。そのモティーフを興味があってちょっと考えているのですけども。

〔…〕ぼくは、日本でおれは父親になろうと思った人がやっぱり明治でおしまいだというふうに感じられる。それは中村(光夫)さんがずっと追及しておられる青春の問題と関連が出てくるのですけれども、永井荷風は一生息子でした。社会に対し国家権力に対し放蕩息子でした。鷗外はレジグナチオン(注―かのように)ということを言いだしたときにファーターで、あそこでいわゆる自然主義的な意味における人間の誠実さというものを脱却する。それが普通の近代文学観からいうと後退であり、体制べったりであり、国家権力の追随であるかもしれないだ、とにかく父親になる。ところが、それからあとの近代文学では父親になろうという意識がだれもない。

 

 父親にならないということは、権力を目指さないということだ。日本近代文学史においては、権力は思考するものではなく反抗(し和解)するものだった。だが、三島の対談相手の中村光夫が言うように、「そう考えるのはおかしいんだよ。何か自分の考えることを行おうとすれば、やっぱり権力を持たねばならない。権力を持つには政府に入らなければならぬでしょう、あの時代では」ということではないか。日本近代文学においては、この当たり前のことがあまりに忌避されてきた。

 

 問題を共有していた中上は、三島のいう「普通の近代文学観からいうと後退」である「父親になる」という問題を思考すべく、一九七九年から「物語の系譜」の連載を開始する。ある意味で「国文学史」の本丸ともいえる雑誌『国文学 解釈と教材の研究』で連載を始めたとき、中上は、三島のいう日本近代文学史における「ファーター・ウント・ゾーン・プロブレム」の不在を、「物語」の「系譜」として思考しようとしたといえる。

 

 当初、連載タイトルは「物語の系譜 八人の作家」となっていたが、結局書かれたのは、佐藤春夫谷崎潤一郎上田秋成折口信夫円地文子の五人だけだった。講談社文芸文庫版『風景の向こうへ 物語の系譜』(二〇〇四年)の井口時男の「解説」によれば、あとの三人のうち「三島由紀夫はすぐにも論じるつもりだったようだ」ということだから、やはり中上のいう「物語」は、まぎれもなく先の文脈にあったといえよう。いや、より明確にいえば、中上のいう「物語」は、「父」の権力構造に手を突っ込むこと、すなわち「大逆事件」に関わっていた。

 

彼が「物語」と呼んだのは、一言でいえば、国木田独歩に始まる「近代文学」の装置をディコンストラクトするものです。しかも、中上は最初からそれを意識していました。なぜなら、彼は明治の大逆事件を意識していたからです。」(柄谷行人「秋幸または幸徳秋水」「文學界」二〇一二年十月)

 

 中上が、「物語の系譜」を、佐藤春夫谷崎潤一郎耽美派からスタートさせたことから明らかだが、中上は「王殺し」後の「探偵小説」の文脈で「物語」の「系譜」を捉えようとしていた。

 

大正期、江戸川乱歩によって日本で初めて探偵なるイメージが確立されたとすれば、その前史的背景となったのが谷崎潤一郎佐藤春夫耽美派の初期作品であったことも、知られている。それは「自然主義的」な象徴秩序に収まるディスクールに対して、「耽美的」想像界復権として登場したのである。言うまでもなく、耽美的な世界は探究されるべき「謎」であり、主客未分の状態へ追いやる鏡像的(想像的)な世界でもあるという意味で、探偵小説の温床にほかならない。(絓秀実「探偵=国家のイデオロギー装置」一九九九年『JUNKの逆襲』所収)

 

 先の柄谷の「国木田独歩に始まる「近代文学」の装置をディコンストラクトするもの」という言葉と、絓の「それは「自然主義的」な象徴秩序に収まるディスクールに対して、「耽美的」想像界復権として登場した」という言葉とは、実は似て非なるものだが、これも今は問わない。中上が、日本近代文学の「装置」や主流のディスクールでは、大逆事件を思考し得ず、そのためには別の「装置」、ディスクール文学史が必要だと考えていたことが重要だろう。中上が「物語」を、あくまで「系譜」として問わねばならなかったゆえんである。

 

 誤解してはならないのは、中上が大逆事件を思考しようとしたのは、王殺しそのものを思考するためではないということだ。中上が思考しようとしたのは、王殺しの「後」の問題である。権力(構造)とは王殺し「後」の問題にほかならず、また中上がこだわった被差別部落も、論理的には王殺し「後」の問題だからだ。三島が「天皇」と言って、王(殺し)そのものに吸引され向かっていったとしたら、中上は「天皇」と言わずに、いわば王殺し「後」に踏みとどまろうとしたのである。

 

(続く)