物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その6

 見てきたように、中上は、「父」になろうとする者がいない日本近代文学が、いったい何を「抑圧」し「排除」してきたのかを明らかにすべく、「物語の系譜」へと向かった。「父」になろうとする者がいないのは、「父」がやがて自壊に追い込まれていくほど劣化の過程にあったからではない。戦後について言えば、それは戦後民主主義(革命)以降、すでに「父(王)殺し」は成就したという父(王)殺し「後」の「物語」が共有されてきたからだろう。フロイト『トーテムとタブー』を待つまでもなく、父(王)殺し「後」においては、全員が「父」になることの断念(去勢)を共有した「子」の共同体にほかならないからだ(言うまでもなく、フロイトは『トーテムとタブー』において、個体発生は系統発生を反復すると考えるゆえに、人類の文明の発達の歴史を個人の成長の歴史から読み解こうとした)。その1で見たように、中上も三島も、この「子」の共同体に苛立っていたといえる。

 

 「子」らは、原初に殺された、死せる「父」のもとで永遠に「子」なのである。フロイトは原初の「原」父殺しは「想像的」なものだと言った。つまりはフィクションだ、と。「現実的」には「死せる父」しか存在しないのだ。中上が批判した、誰も「父」になれず、子=被害者の視点からしか書かれない戦後文学とは、まさに「死せる父」のもとにある「子」たちの共同体の「表象」である。

 

 そのことは、「内向の世代」や「戦後派」、「第三の新人」など、戦後の「文学史」が「世代」にちなんだ命名による歴史の偽造であることをも暴露していよう。「世代」という「文学史」的言説は、端的に「親―子」の関係である「世代」を、「父」の審級に立って擬制するものだからだ。それは、「子」しかいない共同体に、あくまで言説として導入されたメタレベルとしての「父」にすぎない。中上が、そのような実際には「父」がいないのに、いる「かのように」捏造される「文学史」を無効化する作家であったことは論を俟たない(絓秀実『文藝時評というモード』一九九三年)。その意味で、中上とともに「文学史」は終焉したのだ。

 

 「子」しかいない戦後の共同体は、その1で見た三島も言うように、大逆事件という「王殺し」以降、「王は存在しない」「かのように」という、戦前の鷗外=父による統治のデザインが、基本的に踏襲された空間である。「王=父殺し」を前提とした近代の啓蒙的理性の進展が、その空間の再生産を担保してきたのである。この空間をそのまま「表象」してきた(リアリズム!)日本近代文学が、父(親)殺し、王殺しを抑圧し排除してきた、それ自体ひとつの「物語」であることも見てきたとおりだ。

 

老人は黙ったまま浜村龍造を見る。その老人は浜村龍造を見ているが何も視ていないように虚ろな表情をしていた。モンはその佐倉の姿を思い浮かべ、天子様暗殺謀議を企てた血筋の者が虚ろな表情のまま何を考えていたのだろうかと想像した。その男は自分で自分の命を絶つ激しい昂ぶりなど生涯を通して一度も抱いた事などなかった。生れてすでに百歳も齢取っていて、人生はただ土壁がぼろぼろ崩れるのを見つめるだけだというように虚ろなままなお齢を取りつづける。他人から見れば男は齢取りすぎてなお人の生命の淵につめをたてて落ちていくまいとしがみついているように見えるが、元々齢取って生れ、百年も前の事件が無実で、薩摩、長州のデッチ上げだと言い続けている男には、しがみついて辛うじて生きている自覚もなく、ましてや、今、まさに生きている、という自覚などない。老人に、親を殺して擬装したと噂を立てられる秋幸はどんな風に映るだろうか。まさに秋幸は生きていた。(『地の果て 至上の時』)

 

 「佐倉」が、「天子様暗殺謀議を企てた血筋の者」でありながら、やがて「路地」のすべてを手に入れた「蠅の糞の王」に君臨したとしても、彼は、例えば革命の殉教者として自らを「例外」にせず「集団から除外」せずに死を恐れなかったロベスピエールのようには、「自分で自分の命を絶つ激しい昂ぶりなど生涯を通して一度も抱いた事などなかった」。

 

なぜロベスピエール自身は自分が告発されることなどないと確信できるのかという疑念を、じかに口にしているからである。彼は、集団から除外された主人(マスター)、つまり「われわれ」の外に在る「私」ではない――そもロベスピエールがいまや囚われの身にある大物ダントンの盟友だったことがある以上、ダントンとの親近性が自分に反する形で明日にでも利用されたらどうするのか? 要するに、どうしてロベスピエールは、自分が解き放ったこの過程が自分自身を吞み込んでしまうことなどないと確信できるのか? 彼の立場が一つの崇高な偉大にまで昂まるのは、まさにここである。いまダントンを脅かしている危険が明日にも自分を脅かすことを、彼は真っ向から引き受けているのである。ロベスピエールがかくも澄み切った平静を保っている理由、彼がこの命運を恐れない理由は、ダントンは反逆者だが、自分は純粋で、人民の〈意志〉を直接的に体現しているということにはない。それはロベスピエールその人が死を懼れていないからである。(スラヴォイ・ジジェクロベスピエール毛沢東長原豊松本潤一郎訳)

 

 そうである以上、「佐倉」は、たとえ「王=父殺し」を「企てた血筋の者」であったとしても、「王=父殺し」を本質的に思考したことなど一度もないといえる。そのような者が、たとえその後「王」になろうとも、「人生はただ土壁がぼろぼろ崩れるのを見つめるだけだというように虚ろなままなお齢を取りつづける」だけだ。たとえ「王」になっても、すでに彼は「王=父殺し」「後」においてそれを思考から排除した「子」のままだからである。「秋幸」の「違う」は、このように「王=父」が、いつまでも「子」の共同体の一員としての精神しか持ち合わせず、「佐倉」や「龍造」がそうした在り方を「路地」において自堕落に反復することに差し向けられていよう。

 

 そして、「トーテムとタブー」のように、もし「子」らが全員一致で「王=父」を殺したとすれば、王殺し「後」の「子」らは皆、もはや「王=父殺し」など「生涯を通じて一度も抱いた事などない」共同体の一員となるだろう。その意味で彼らは、「佐倉」同様、「天子様暗殺謀議を企てた血筋の者」=共同体の一員といえる。一方で、「佐倉」の家は「皇室の家系」ともいわれる。ここではまさに、死せる「王=父」も、「王=父殺し」を「企てた血筋の者」も、ひっくるめて「子」らの共同体の一員なのだ。とすれば、「子」らは、「佐倉」のごとき、死んだように「虚ろなままなお齢を取りつづける」人生を送るほかないだろう。「佐倉」は、「王=父殺し」を回避し続ける「民」という「死」の共同体を体現している(佐倉=桜?)。

 

 「佐倉」は「王殺し」が「デッチ上げだと言い続ける」ばかりだ。彼は、その4で見たように、「では何故デッチあげまでして、紀州新宮を舞台に選んで紀州グループを拘引、処刑したのか、あかす者はいないし、またその方法もない」(「物語の系譜 佐藤春夫」)ということを、ついに問い返そうとはしない。

 

 中上が志向したのは、大逆事件を「デッチ上げだと言い続ける」このような「被害者=被差別者」の精神ではない。むしろ、「親を殺して擬装したと噂を立てられる」ことを引き受け、王=父殺し「後」を「今、まさに生きているという自覚」とともに積極的に生きようとする「秋幸」を、真に生かしめる文学であった。『地の果て』の記述は、「秋幸」が父殺しをしたことを決して否定しない。「秋幸はさと子と姦した。弟の秀雄を石で打ち殺した。実の父親の浜村龍造を殺した」。

 

 それを否定することは、「王=父殺し」を「デッチ上げ」たうえで、王=父の座を「空席」のまま蓋をしようとする権力の「物語」に加担することでしかないからだ。以降、「王=父殺し」は、思考することもおぞましいタブーとして、「闇の国家=紀州」に葬り去られた。それは先に述べた、「王=父殺し」はすでになされた「かのように」永久に封印しようとする、戦前―戦後を貫く王=父殺し「後」の統治の形態にほかならない。「佐倉」は「デッチ上げだと言い続ける」ことで、自らはそんなことをしでかした者らの末裔ではないと自らの無垢を主張し続ける、「子=被害者」のメンタリティそのものだ。それに対して、「秋幸」は、たとえ「龍造」が自死しようとも、事態を「父殺し」した者の側で引き受けようとする。「デッチ上げ」だ「噂」だと言い続けるのではなく、「違う」と言うことで、むしろ引き受けようとするのである。あるいは、王=父殺し「後」の統治に逆らうように「違う」と言い続けるといってもよい。

 

 中上「物語の系譜」は、未完のまま最終回となった回で、「始終、演劇的想像力=演劇的知を創作上の核とし」た円地文子へと向かった。以前も述べたが、このとき中上が、それを通して「王=父」に漸近しようとした三島由紀夫を媒介として、演劇の「法措定的暴力」(ベンヤミン)を導入しようとしていたことは疑いない。

 

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 実際、ここで中上は、三島との「対話」ともいえる円地の「冬の旅―死者との対話」を冒頭から取り上げる。そこで円地は三島に、「私もあなたとは同郷」で「やっぱり故郷は劇場だと思いますね」と言わせるのだ。

 

では演劇に何があるのだろうか。俳優の肉体か、演戯か? われわれが今、目にしているのは、そんな小賢しいものではない。確かに演劇を観客の前で取りあえず実現するのは、俳優の肉体であり、肉体の演戯であるが、むしろそれより帯電状の熱い乱気流、一種宗教の祭儀空間のような、そこから言葉が派生し、音が派生する仮構された原初の場所が顕わになる点が肝腎なのである。もっと端的に言えば、演劇は交通の場所である。そこでたとえつまらない俳優が台本どおり科白を言ったとして、書かれてある言葉より舌に乗り唇で吐かれた言葉は何倍もの破壊力を持つ。それはひとえに交通の場所として演劇があり、台本に書かれてあった書き文字が、書く、印刷という抑圧を取り除いた事により、言語の重要な要素でありやっかい極りない音素的要素を回復したせいだが、何しろその音素的要素により、物語作者は一気に自分が神の僕としか言いようのない状態に引きずり込まれた事を自覚する。神と言うより、ここでは、日本語を使う者として、天皇と言ってよいだろう。

 音素的要素とは日本語、日本文において、さながら天皇の放つ統治的機構のように在る。

〔…〕さらに考えるなら演劇は、たとえ扱う物が現代であっても、人物は人間の後に神の時代の尻尾を付けているという事である。「セールスマンの死」以後の現代劇でも、それが演じられる劇である限り、神人の類型を抜け出た者らの新しさは尻尾の長さの問題であり、透けて見えるダブルの濃淡の違いにすぎない。男は女に、女は男に、神は人に、演劇はめまぐるしい変化を、それ自体でつくる。さらに物語作者を魅きつけてやまないのは、演劇では純粋の悪を主人公として提出する事が出来る磁場である。(「物語の系譜 円地文子」)

 

 ここで中上は、「演劇」によって「神の僕」となることで「天皇の放つ統治的機構」へと肉迫しようとしている。それは述べてきたように、「王=父」を、正確にいえば「王=父」と「王子=子」とのズレを露呈させるために、「王=父殺し」の「罪」や「悪」を存在させようと「物語」へと向かったのと同じだ。

 

 中上が、「演劇」はたとえ現代ものであっても、「人物は人間の後に神の時代の尻尾を付けている」というのは、その2で見たように、人間が神から落ちた王からさらに落ちた(王)「子」としてあるという、その垂直性の残滓が「演劇」にはあるということである。だからこそ、「物語」同様、「演劇では純粋の悪を主人公として提出する事が出来る」のだ。そこは、「悪」や「罪」がそれとして規定される以前の、いわば「それ何事かは」(秋成)の時空間=場所である。演劇は、「法措定的暴力」を行使することで、「突然の場所の出現」を垂直的に可能にする。中上が円地文子に認めた「演劇的知」とは、これ以外ではない。

 

先に円地文子が演劇的知を持った人であると言ったが、演劇を導入すれば、演劇に内在する力が小説の中に一挙になだれ込むと言う事をもうすこし詳しく言う必要があるだろう。演劇的知とは、何はともあれ、場所という事と強く結びついている。場所は演劇において、二種類を特定してまず進められる。と言うのは、これは、日本古来の文芸様式である歌とも重なる事であるが、演劇ではよほどの歌枕の場所でない限り、劇の進行する場所、つまり、演ずる者がいて観る者がいるというその場所は取りあえず宙空に吊るされ、演劇内に内包する場所が前面に出る。様々な演劇的な要素を持った催し物、ロックコンサートとか、女優のパフォーマンスとかだけでなく、われわれは、方々でこの突然の場所の出現に驚き、現を抜かし、興奮し、血管がふくらむ。

〔…〕聖空間と現実の場所は現代の新劇や小劇場でも基本的に変らない。小劇場の唐十郎はそれをテント小屋に移し、テントを聖空間にしたし、寺山修司の方は、聖空間そのものを変形させてみようと幾つかの実験劇を繰り返した。二つの場所の認識の仕方が、さらに、つかこうへいの芝居や野田秀樹の芝居の個性をつくり、さらに実験的な超現実主義的なセリフ術を生んだり、歌の多発、サーヴィス、笑い等様々なものをつくる大きな要素になったのであるが、円地文子においては場所は、たとえば源氏物語において突然、須磨明石が登場するように、土地をふらりと訪れるという筆の運び、絵巻き物のような手法に変容されるのである。(「物語の系譜 円地文子」)

 

 演劇は、「突然」ポリス=共同体を「出現」させることで、同時にその「暴力」の「主体=主権」としての「王=父」の存在を露わにする。中上は、この「演劇に内在する力が一挙に小説の中になだれ込むように」、自らの小説に「路地」なる「場所」を仮構として立ち上げたのだ。「闇の国家=紀州」という「現実の場所」に、「ポリス=共同体=聖空間」を、「暴力」的に「突然」「出現=措定」させたのである。三島を尻目に、小説に「演劇的知」を導入した円地文子のように。「路地」という舞台で、一見反時代的なギリシア悲劇的な世界が展開されたゆえんである。

 

 「秋幸」は「路地」の私生児として、すなわち述べてきたように、親/子ではなく、「親―子」を「ズレ=差異」のままはらんだ存在として紀州サーガを主人公として生きた。まさに「差異の産物」である。「秋幸」は、まるで以前見たベンヤミンが評価する「オイディプス」のように、「ゲーニアス=反神話的言語精神」、すなわち神の意思に逆らって行動をはじめた精神として存在する。

 

 このとき、中上=秋幸が抵抗しようとした「神話=神の意思」とは、端的に、紀州を「闇の国家」として貶めてきた「法=制度」たる天皇制だろう。そのために、「路地」という「ポリス」を措定し、大逆事件=王殺し「後」の世界をギリシア悲劇として「上演」する「劇場」が仮構的に立ち上げられたのだ。

 

 したがって、「路地」の消滅は経済的な再開発の問題ではすまない。それは、天皇制という「神話=神の意思」を破壊しようとする意志をもって「法措定的暴力」を行使しようとする「主体」(が頭にもたげてくる場所)の消滅を意味する。柄谷行人は、『枯木灘』がギリシア悲劇ならば『地の果て』は「マクベス」である、『地の果て』の「秋幸はいわば「悲劇」を拒絶してしまうのだから」と言った(「物語のエイズ」一九八三年『批評とポスト・モダン』所収)。「マクベス論」(一九七三年)の著者ならではの言葉であろう。

 

彼らはオイディプスのように「本質」を認識するのではなく、人間には「本質」などないのだという認識を得るのである。〔…〕マクベスは運命と闘ったかのようにみえる。だが、事実は運命を求めて挫折したにすぎない。〔…〕彼にとって世界はもはや意味もないが不条理でもない、たんにそこにあるだけだ。そして、彼の最後の闘いにも彼自身は何の意味も認めていない。それはそこにいる相手を一人でも多くこの世界から消去するという単純なほとんど物理的な作業にすぎないのである。彼の闘いは「不条理への反抗」ですらない。「不条理への反抗」とはそれ自体意味を回復しようとする行為、神なき世界で神の代理物としての他者を前提した倫理的な行為である。〔…〕不条理とは見せかけである。それは世界を総体的に意味あるものとするオプティミズムの産物であり、しかもたえずオプティミズムへと、最終的な和解へと自動的に導くのである。ひとびとはそこからただちに引返すか、逆に世界を「不条理」として意味づける。むしろ不条理とは、より一層意味を回復させるために不可欠な一手段である。君たちの生存は無意味だ、疎外されている、非本質的だ……信仰や革命の原動力はこういう訴えにある。魔女はいないが、人間が人間に対して魔女の役割を果すのである。(柄谷行人マクベス論」『意味という病』所収)

 

 これが、眼前の疎外=革命論への批判として書かれたことはよくわかる。だが、「運命」「本質」「不条理」はない、すなわち「悲劇」などない(悲劇の死)と「マクベス」を捉えること自体が、今読むと逆に「内面」的に見えるのも確かだ。まるで、「不条理」や「悲劇」などないという「意味という病」に逆に侵されてしまっているように。ここではすでに「演劇」と「小説」の差異、「演劇」の「法措定的暴力」がもたらす「悲劇」が、まさに殺されてしまっている。もちろんそれは、「おそらくシェイクスピアが存在しなければ大英帝国は存在しなかっただろう」(鴻英良)、あるいは「イギリスにナショナルシアターが出来なかったのはシェイクスピアがいたからだと言っていいと思うんです。すでにそこに国民を統合するテクストがあったから、あえてナショナルシアターという形で社会的階層の上部を可視化する必要はなかった」(内野儀)というシェイクスピアの両義性も関わっていよう(「〈ナショナルなもの〉をめぐる現代演劇の臨界点」二〇〇四年『舞台芸術』07)。

 

 言うまでもなく、シェイクスピアは、『新体詩抄』や『小説神髄』など日本近代文学の出発点において、演劇から小説へという文学の近代化世俗化の媒介となった。そこではシェイクスピアは詩や小説として導入された。いわば、それは最初から「演劇=悲劇の死」として導入されたのだ。この歴史性を踏まえずに「『マクベス』という作品に対して素手で向か」(柄谷)うことは、かえって「近代文学=内面」に加担することになるだろう。

 

 重要なのは、演劇の政治性の最たるは、テクストの内容や登場人物の言葉(だけ)ではなく、ポリス=共同体を創設すること自体にあるということだ。同じく中上の政治性も、「路地」というギリシア悲劇の「劇場」の創設自体に、そして紀州という土地にいわば「✕」をつけ、自前の「路地」の「地図」で書き換えよう(「十九歳の地図」)としたこと自体にあるといえる(熊野「大学」の創設もその一環だろう。突然場所を「出現」させ占有することが重要なのだ。それはwebで継続しても無力だ)。したがって、「路地」の消滅は、天皇制というこの国の「ナショナルシアター」に拮抗しようとする中上の政治性の消滅と言わなければならない。柄谷行人は、「『熊野集』の中に、路地はテクストだということが書いてあるけど、それは路地の解体工事が始まったころであって、そのとき急に「路地」を見つけたわけですね(笑)。自分で八ミリ映画で路地を撮ったりしているわけです。消えていくと思った瞬間に路地を見つけたのでしょう」と言っている(共同討議「中上健次をめぐって」、『批評空間』No.12、一九九四年)。このとき中上は、「演劇」から「(記録)映画」への転換を迫られたといえる。

 

 以前も述べたように、この国では天皇制が演劇から「法措定的暴力」を奪い、国家=ポリスを立ち上げた。天皇制自体がナショナルシアターを担ったわけである。イギリスにおけるシェイクスピアのように。

 

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 以降、中上は、ベンヤミンオイディプスのように、自分にはまだ神話を破壊する力がないことを思い知り、「まだ沈黙したまま、まだ未成年のまま」(『ドイツ悲劇の根源』)となる。

 

 大逆事件とは、この「後」、「法措定的暴力」を「大逆」(罪)とし、民衆には近づけないアンタッチャブルにした出来事であった。それは端的に「暴力」「罪」「悪」となったのである。「王=父殺し」とは、共同体全体で「子」になることではない。自らが「王=父」として「法措定的暴力」をふるい、たとえ小さなテントであっても新たに「場所=劇場」を立ち上げることにほかならない。「例外状況」における「主権」である。先の引用のように、中上は、「演劇」によって「神の僕」となり「神の時代の尻尾」をつけた人間になると言った。だが、それは「僕」や「尻尾」になるのが目的ではない。「僕」や「尻尾」によって、あくまでそれに付随した「神」(という垂直性)を引っ張り出し、露呈させるのが目的である。「神の死」以降、近代の啓蒙的理性は、その垂直的な「法措定的暴力」を「存在しない」(存在してはならない)タブーとして見えなくさせてきた。中上が、一貫して、「物語」を「法・制度」と呼んだのは、それが「法措定的暴力」によって措定され、「法維持的暴力」によって維持されては、われわれを「制度」として包摂してきたからである。そして、「物語」を「系譜」学的に捉えることで、その過程と仕組みとを吟味しようとした。おそらく、そうしなければ、中上は何も書けなかったのだ。

 

抵抗小説、反戦小説、プロレタリア文学。何に抵抗したのだろう。何の戦争を視たのだろう、一度として、日本文学に、いや世界の文学に、資本論としての物語論が書かれた事もなければ、階級形成論が書かれ、物語の圧政をうち倒すプロレタリアが見つけられ書かれたためしはない。それが苛立たしい。月々の文芸雑誌にあいも変わらずの物語にどっぷりひたって胸くそが悪くなるような小説が、新人でござい、中堅でござい、何々の世代でございと並んでいる。批評は、とっくの昔に死に絶えている。序破急、起承転結の物語が、文芸批評というまがいもの屋のあおりをうけ、今ひとつの物語である出版資本とまさにこれ以上ないというほど喜々として結びつき徘徊している。(「物語の系譜 佐藤春夫」)

 

 何も変わっていない。日本近代文学は、まだ何も書いていない。中上や三島が「父」が書かれたことがないと言ったのは、端的に何も書かれてこなかったという意味である。「資本論としての物語論」とは、資本という「王=父殺し」の文学にほかならない。「王=父」を思考し得ないなら、どうして「王=父殺し」が思考できるだろう。そして、「王=父殺し」が書き得ないなら、どうして資本という狂った「王=父」を抹消する=殺すことが可能だろう。日本近代文学は、資本という「王=父殺し」など考えもしないまま、「佐倉」のごとく死んだように生きていく。「何に抵抗したのだろう」。

 

 むろん、それは中上自身も同じだった。「秋幸」の「違う」は、まだ「何も書いていない」という意味なのだ。

 

徹が秋幸を見つめたまま歩いてくるのを見て、自分には親に死なれたという悲しみのかけらもないと気づいた。ただすべてが露わになっていた。浜村龍造の秘密が一つ一つくまなく露出し、それが未完結のまま目の前にある。それが浜村龍造の死だった。浜村龍造が秋幸が立って見ているのを知りながら首を吊ったのは、秘密が露出する事も未完結だった事も知って、秋幸の前で、命を切断したのだった。浜村龍造は秋幸に切断面をつごうとした。(『地の果て 至上の時』)

 

 何もかも「未完結」だ。中上の文学は何も書いていないが、「未完結」であること「だけ」を示そうと、われわれに「切断面をつごうとした」。その「切断面」だけが、今われわれの「目の前にある」。

 

中島一夫