劇場を再起動する暴力――アンチ・オイディプスはまだ早い その4

 繰り返せば、ベンヤミンは、バロック悲劇の「根源」を思考するために、同時にギリシア悲劇を見る必要があった。それは、近代=バロックの演劇が「法維持的暴力」の「反復」たらざるを得ないとしても、それがどこかで(例外状況において)ギリシア悲劇の反神話的な「法措定的暴力」と踵を接しているかぎり、そこには常に両者の矛盾が露呈するということだ。ギリシア悲劇バロック悲劇、法措定的暴力/法維持的暴力、(反)神話/歴史の間の断絶が露わになるのが演劇実践の場なのである。演劇が実践されるには、それがどんなに小さくても場=共同体(ポリス)とその法を、その都度新たに「暴力」的に立ち上げなければならないからだ。「だとすれば、演劇は法維持的暴力の権限としての役割にたえず抗おうとしているということであり、その意味で、原理的にギリシア悲劇的なのであり、そして、近代悲劇は、それとまったく正反対の行動をつづけながらも、歴史を再現するというその本質から逃れようとする不可能な試みとして実践されているのではないだろうか。」(鴻英良「バロックの演劇の近代性」二〇〇四年『舞台芸術』06)

 

 「その1」で見たように、西欧は、ギリシア悲劇的なものの存在を欠いては存在しない。「西欧世界は、ポリス的な共同体の確立、維持をもくろむとき、ギリシャ悲劇の構造を量産しつつ、ギリシャ悲劇的なものへと回帰しようとしたのである。」(鴻英良「『帝国』からの《悲劇》の誕生」二〇〇二年十二月『ユリイカ』)。

 

 これまた繰り返せば、ベンヤミンが言うように、ギリシアにおいて最初に反神話的言語精神=ゲーニウスが現れたのは、法ではなくギリシア悲劇においてであった。すなわち、ギリシアの反神話的なポリスが立ち上がるには、ギリシア悲劇の「法措定的暴力」を必要としたということだ。

 

 そもそも、古代ギリシア・ローマにおいて、演劇は決して自律した制度ではなく、したがって考察の対象にもなり得なかった。演劇の上演は、さまざまな儀礼と不可分であり、上演がなされる都市のアイデンティティの形成と切り離せないものだった。ギリシアにおいて、演劇はどのポリスにもあったわけではなく、紀元前四世紀以前においてはごく稀なことだった。演劇があるかないかということは、ギリシアのポリスの全き独立性=「自由(自主権)」を示しており、他のポリスと一線を画す手段であった(演劇を公式に禁止するポリスもあった)。例えばアテナイは、宿敵スパルタやテーバイといった寡頭政に対して、民主政の諸ポリスと同盟を結び、スペクタクルとしての悲劇はそのための装置だった。

 

ポリスの内に組み込まれた政治的制度しての演劇は、アテナイにおいては、市民としての感情を醸成する場であるという意味で、民主政のための教育的・社会的機構の一つであった。(フロランス・デュポン「ギリシア・ローマ演劇は愛国的(ナショナリスティック)であったか」横山義志訳、二〇〇四年『舞台芸術』07)

 

 例えば、ソクラテスプラトンは民主政に反対したが、したがって彼らは、演劇にも批判的だった。

 

演劇についても、その起源である神話的叙事詩についても、彼らが批判しているのが、その反教育的性格である。神々や英雄が暴力をふるい近親相姦を犯すなどというような非道徳的な物語は、子供に悪い模範を与えることになりかねない、というのである。さらに哀悼歌や落涙の悦びが中心となるようなスペクタクル自体も士気を阻喪させるという。この平等の立場で一体となる市民共同体を形成する場としての劇場による教育に対して、ソクラテスプラトンは饗宴や体育場での伝統的でエリート的な教育を対置する。ここでは(「騎士」と呼ばれる人々による)寡頭政の価値観が、少年愛と抒情詩によって伝達されるのである。そもそもテアトロクラティアとういうのも、プラトンアテナイにおける演劇と民主政との共謀に汚名を着せるために発明した用語であった。(デュポン、前掲論)

 

 西欧の民主政の導入と市民共同体の形成には、この寡頭支配者たちのエリート教育に対する演劇実践という場=メディアが不可欠だったのである。現在、これが、西洋=民主主義と中・ロの寡頭支配者による専制主義のヘゲモニー争いに変奏されつつ「反復」されていることはいうまでもない。

 

 いずれにしても、西欧世界の「根源」にはこの出来事が刻印されており、したがって西欧世界の維持には、ギリシア悲劇への「回帰」とその「反復」が要請されるのである。バロック悲劇の「法維持的暴力」は、その具体的実践である。

 

 だが、ベンヤミンが、十七世紀のバロック悲劇を重視したのは、あくまでそれが、常にその「根源」である「ギリシア悲劇=法措定的暴力」を思い出させ、それとの距離を「アレゴリー」として想起させるからだ。

 

 「根源=始原」にたちかえることなどできない。たちかえることが出来ると言ってしまえば、たちまちそれは「メシアニズム」になり、「政治の美学化」になるだろう。だからこそ、ベンヤミンは、「アレゴリー=批評」としてそれを感受しようとする精神を不可欠としたのである。バロック悲劇とその「根源」たるギリシア悲劇を複眼的に捉えようとしたベンヤミンに、むしろメシアニズムへの批判を見るべきだろう。

 

 翻って、日本の共同体における演劇はどうか。

 

なぜなら、日本においては、共同体を支えるものの文化的な基礎としてギリシャ悲劇的なものがその中心に据えられたことはないのであり、やっと明治以降になってから、そのような方向へ向けての運動が、ささやかながら、幾度か起きたときは、大逆事件に典型的に現れているように、ことごとく粉砕されてきたからである。

そうした事態をわれわれが経験しなければならないことが必然であるかのような主張を展開した文章こそ三島由紀夫の『文化防衛論』なのであるが、そこにおいて、三島は、国家を支える文化装置として天皇制を召喚してきている。神話批判という発想がつねに排除されてきた日本において、少なくとも明治以降も、「文化装置としての天皇制」が機能してきたことは疑いえないし、そのような場所に、ギリシャ悲劇的な意味での演劇、つまり、神話批判としての演劇が入り込む余地がないことは明らかである。そのことが日本の演劇における批評の排除ともかかわっていることは明らかであろう。(鴻英良「『帝国』からの《悲劇》の誕生」)

 

 明治以降の近代国家の成立過程において、日本では演劇のかわりに天皇制が「文化装置」として導入された。それゆえに、国家=ポリスの立ち上げとして、ギリシア悲劇のような演劇とそれによるナショナル・シアターを必要としなかったのである。言いかえれば、「法措定的暴力」を、天皇制が演劇から奪ったのだ。

 

 この時、法措定的暴力が一瞬露わになった。例外状況である。「その2」で見たように、バロック悲劇の王=天皇は、この例外状況を排除し「原状回復」させた。以降、この「法措定的暴力」の主体=「例外状況」における主権はアンタッチャブルになり、それに触れようとすれば「大逆罪」になった。もちろん、その禁止は「暴力」などではなく、神託に基づく正統性だったとする「神話」によって正当化されていった。鴻の言うように、「そのような場所に、ギリシャ悲劇的な意味での演劇、つまり、神話批判としての演劇が入り込む余地がないことは明らかである」。演劇実践は、非「暴力」で安全な文化になった。

 

 戦後において、天皇=君主は「象徴」化され「大逆罪」は廃止された。現実界の「神」は、まさに「象徴」界に参入したのである。もちろん、象徴界は両義的であり、そこにはつねにすでに現実界がのぞき込む「穴」が開いている。述べてきたように、そこから「例外状況」における「神」の「決断」が、「暴力=享楽」として介入してくるのである。

 

 非常時における天皇の栄誉大権(の実質)を復活させよ、と主張した「文化防衛論」(一九六八年)の三島は、もはや天皇が、「明治」期の近代国家の立ち上げの際のように、例外状況における「法措定的暴力」の主権者たり得ていないことにいらだっていたといえる。「三島の言う「文化概念としての天皇」とは、明治期において一旦浮上した神話的=「法措定的暴力」の場としてのナショナル・シアターそのものを指していたと見なしうるであろう」(絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』)。「文化概念としての天皇」が、戦前、戦後の神話的な天皇制に対するギリシア悲劇的な「神話批判」としてあったことを見る必要があろう(佐藤秀明は三島の天皇を「シアトリカルな天皇」と論じているが(『三島由紀夫 悲劇への欲動』岩波新書、二〇二〇年)、それもこの文脈で捉えるべきだろう)。そして、三島事件(一九七〇年)とは、本来天皇が、何よりも「法措定的暴力」の主権者であることを知らしめ、それを歴史的に刻印しようと一回的に行われた、演劇実践にほかならなかった。

 

 それは見せるための演劇ではない。本来の「ナショナル」シアター=ポリスを、暴力的に「再」起動させるための演劇実践であった。三島は、その一回的な演劇実践のために、「楯の会」の「劇団員」たちを(自らも含めて)ひたすら「訓練=稽古」してきたのである。

 

 「楯の会」は、一九六九年十一月三日、東京・三宅坂国立劇場の屋上で、結成一周年の観閲パレードを行った。このパレードが、皇居を目の前にした「国立」劇場の屋上で行われねばならなかったことが、三島にとっては、来るべき「出来事」が一回的で「ナショナル」な演劇実践だったことを証していよう(当初の三島の計画は「皇居突入」だったとも言われている。実際、国立劇場の奈落を「楯の会」の秘密のアジトとして用意していた)。「楯の会」の訓練を「稽古」と称していたことも、それのもつ意味を示している。その軍事訓練は、死を賭した最終的=一回的な行動=演劇実践のための世阿弥のいう「稽古」(世阿弥「稽古は強かれ」)だったのだ。

 

 「天井桟敷」を主宰した寺山修司は、さすがに「楯の会」のパレードが演劇実践であることを見抜いていた。

 

寺山 ところで、ぼくは「楯の会」のパレードを国立劇場の上でやられたのを見て、三島さんの芝居の作り方が変わってきたなという印象を受けたんだけど。

三島 ずいぶん話が飛ぶね。あれは簡単なことだ。皇居が前にあるからですよ。

寺山 皇居の前はいっぱい土地があるし、地上でもいいわけですからね。わざわざ地に足をつけないようになさっていた。

三島 でも、皇居前広場でやるわけにいかないよ。

寺山 それに武器を持っていない兵隊っていうのは魅力ないと思いますね。

三島 ほんとだね、ぼくもそう思うよ。

寺山 兵隊には言葉が武器だなんて言っちゃダメで、ナタかマサカリに匹敵するようなピカッと光るものが必要なんで……。

三島 警察によく言っといてください。(笑)

寺山 三島さん自身は積極的には不満に思っていらっしゃらないんですか、フォルムとして。

三島 うん、非常に微妙な質問で、政治的言語を使うほかはないね。

寺山 むしろ文学的用語で、絶対必要だとおっしゃったわけでしょ?(笑)〝べき〟である、と。

三島 そうはいかないよ。(「抵抗論」一九七〇年。寺山修司対談選『思想への望郷』所収)

 

 挑発的でスリリングなやり取りである。とりわけ、寺山の挑発に三島が「でも、皇居前広場でやるわけにいかないよ」と応じているのが印象的だ。いわゆる「血のメーデー事件」(一九五二年)以降、皇居前広場におけるデモや集会は封じられていたが、そのなかで深沢七郎は例の「風流夢譚」(一九六〇年)というフィクションにおいて、その皇居前広場で「王殺し」を行った。むろん、三島の発言はそれをふまえている。

 

 寺山は、「楯の会」のパレードに、三島の「芝居の作り方が変わってきた」と、つまりそれが「演劇」にほかならないことを見てとっていた。「わざわざ」皇居前広場の「地に足をつけないようになさっていた」という言葉や、「武器を持っていない兵隊っていうのは魅力ない」という言葉とともに、同様な文脈で解するべきだろう。すなわち、三島の「芝居の作り方が変わ」り、それが「演劇」実践としてなされている以上、それらは法措定的な「暴力」である「べき」であり、あるいは法措定的「暴力」と抵触する実践としてある「べき」だということである。「芝居は飽きた」という三島に対して、『椿説弓張月』の「腹切る場面は、とてもそんな感じはしなかった」と応じた寺山は、「楯の会」のパレードを、わざわざその『椿説弓張月』をやった国立劇場の上で行った三島に、何か切迫したものを感じていたのではないか。対談では「そうはいかないよ」とにべもなく否定した三島は、だがこの後まさに「べき=ゾルレン」の「暴力」へと進み出ることになる。

 

(続く)