2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

柄谷行人の「中野重治と転向」について その3

そのように二元論的対立が失効していたにもかかわらず、むしろ中野の方が「救いがたいほど」対立を生きていたのだ。1948年から58年まで、日本共産党専従だった増山太助の以下の証言は、その背景を伝えていよう。 中野と窪川(鶴次郎)はともに旧制四高出身で…

柄谷行人の「中野重治と転向」について その2

例えば、中野が『むらぎも』の有名な場面――芥川に、「才能として認められるのは」堀辰雄と君だけだから、文学をやめないで続けてほしいと言われ、「あ、あ、あ」この人は「学問・道徳的にまちがっている」と考える場面――についても、柄谷は、「文学をやめて…

柄谷行人の「中野重治と転向」について その1

柄谷行人は、冷戦崩壊直前の1988年に、中野重治の転向について論じている(「中野重治と転向」、『ヒューモアとしての唯物論』)。おそらく、この時柄谷は、目前に迫っていた冷戦崩壊によって、いよいよ訪れようとしていた、マルクス主義の終焉に備えようと…