柄谷行人の「中野重治と転向」について その3

 そのように二元論的対立が失効していたにもかかわらず、むしろ中野の方が「救いがたいほど」対立を生きていたのだ。1948年から58年まで、日本共産党専従だった増山太助の以下の証言は、その背景を伝えていよう。

中野と窪川(鶴次郎)はともに旧制四高出身で、中野の方が一歳年上だが、『驢馬』同人以来の親友であった。そして、二人とも「転向」していたから宮本夫妻からはきびしい態度で扱われ、中野は「近代文学」批判の先頭に立たされ、人のいい窪川は頭脳明晰な百合子の“小姑”的な引き回しにあってくたくたになっている感じであった。(『戦後期 左翼人士群像』)

 
 ここで言われる「「近代文学」批判」は、平野らの雑誌「近代文学」に限らず、広義の近代文学の批判という意味だろう。すなわち、「政治と文学」の二元論が失効し、両者の対立がなし崩しになっていこうとするなかで、宮本顕治ら「政治」陣営は、なし崩しに曖昧になっていく対立点を、近代文学を批判し続けることによって明確にしようとした。

 その「先頭に立たされ」たのが、中野にほかならなかったというのである。中野が、宮本らに対する転向者の負債感情から、平野と「政治と文学」論争に進み出たことは想像に難くない。転向者でありながら、なお(だからこそ?)政治=宮本顕治につき続けようとするこの姿勢が、また平野の驚きを生むのだ(むろん、後に平野は、この中野の姿勢にも、高名な「日本の革命運動の伝統の革命的批判」を見出し、「転向を再生のバネとする」のを見ようとするだろう(「転向文学と中野重治」1959年))。

 中野も平野も転向者だった。すると、その転向に対する疚しさの大小が、両者を「政治」と「文学」とに振り分けたことになる。二元論的対立からズレた「ちょっとの違い」の本質は、この疚しさにこそあったのであり、具体的には宮本=政治=党からの距離の「違い」を意味していたのである。

 繰り返せば、柄谷の「中野重治と転向」は、冷戦崩壊=マルクス主義の終焉の「前夜」において、「主義」とは異なる「マルクス的なもの」へと「転向=転回」したとして、中野重治を再評価した。「その1」で述べたように、それは当時アクチュアルな意味を帯びていた。

 だが、今となっては、中野の転向に、二元論的対立に解消されない「個」を見出し得たこと自体の歴史性を問うべきだろう。それは、「政治と文学」や「知識人と大衆」という二元論的対立が、すでに失効していたからこそ見出された「個=単独性」であった。私自身、この「個=単独性」に当時「解放」されたことを否定しない。だが、やはりそれは、幻想(ファンタスム)だったことが、今やはっきりしてきたのではないだろうか。

 「ちょっとの違い、それが困る」という「個」は、今や各自が個々のスキルの「ちょっとの違い」を、自己責任的に見つけ出すよう「せき立て」(ハイデガー)られており、完全に人的資本主義に捕捉されてしまっているように見えるからである。

戦後に、中野重治平野謙らの「近代文学派」に対して不当と見えるほどに反発したのは、「近代文学派」の構えがこの時期に形成されたものであり、彼にとって、それはいわば政治という五七五に内面という七七をつけ加えたもののように見えたからだ。政治的な挫折から「内面」に行くというのが、明治における近代文学の形成である。その政治的起源が忘れられたとき、「内面」が牙城となり、聖域となる。それがほとんど「文学」と同義語になる。近代文学はいわばすでに転向文学なのだ。しかも、それが忘れられて自明のものと化していたのである。

 この柄谷の認識にまったく異存はない。だが、この後「中野が「わかれ」ようとしたのは、そのような「文学」である」と続く一行は、冷戦崩壊によって無効化したと言わなければならない。「政治と文学」の二元論が崩壊し、「すべてが政治的になった」ということは、裏を返せば「すべては文学的になった」というのと結局は同じことだったのではないか。もはや、「文学」への「わかれ」は不可能になったように見える。その政治=文学に包摂された「現在」を、『錯乱の日本文学 建築/小説をめざして』の石川義正なら、「総力戦」と呼ぶだろう。

 「近代文学は転向文学だ」という柄谷の言葉はまったく正しい。この認識もなく文学をやっている連中は、はっきり言って問題外だ。だが、さらに言えば、冷戦崩壊は、中野の「わかれ」を不可能にし、したがって中野をも「近代文学=転向文学」に包摂したのである。もはや、そこにおいては、中野と平野の「ちょっとと違い」など無意味化されてしまっているのだ。

 ならば、今やむしろ、平野の「政治と文学」(あるいは「知識人と大衆」)に立ち戻って考えるべきではなかろうか。今は余裕がないので論証抜きに投げ出しておくが、平野は、「政治と文学」が二元論的対立を成す以前から、それが形成されていく過程を、良くも悪しくも、最も「生きた」批評家だからである。その認識から提示された文学史観(「平野史観」と呼んでおく)は、「政治と文学」の「文学」が、当初は「政治=マルクス主義」に対する別なる「政治」(オルタナティブ!)だったことを明確に示していよう(平野の「人民戦線」もそこから出てくる)。

 その別なる「政治」など「転向」にすぎないと、事後的に言うのはたやすい。だが、その姿勢は、結局「なし崩し」の転向に加担することにしかならないだろう。今必要なのは、安易に平野を忘却の彼方に押し流さず、平野史観を「善用」して、「なし崩し」になっていく過程を解きほぐしていく作業ではないだろうか。文学が、そのような、なし崩しの転向の累積(建築?)だということが、もはや見えなくなっているからである。

中島一夫