津村喬の江藤淳「フォニイ」批判とその後

 かつて津村喬は、江藤淳の「フォニイ」論について、次のように批判した。

ここにこそフォニイ論が投げつけられるべき土壌があったのだが、江藤淳のまがいもの批判には「正統」と「成熟」を至高とする度し難い上昇志向がみられた。それは一言にしていえば、うしなわれつつある「国=語」の側に立ってフォニイを裁こうとした、反動的な試みであった。だが批判された側にも一人としてまともな反論ができた者はいなかった。(「もう一つの言文一致――写生と通信文学についての序論」一九七五年)

 いわゆる「フォニイ論争」とその展開については、小谷野敦現代文学論争』に詳しい。そこで小谷野も言うように、「フォニイ論争」は、「形を変えた「純文学論争」であり「私小説論争」であった」。津村の言葉で言えば、江藤は、「国=語」(=言文一致)の上に立った純文学を「正統」と見なし、その保守を「成熟」、そうでない「フォニイ」を「まがいもの」として、後者を退けようとする「反動」であった、と。

 だが、江藤の「成熟」は、平野謙の「青春=人民戦線」への批判であり、平野のいう「純文学」とは実はプロレタリア文学のことであった(拙稿「なし崩しの果て」「子午線」vol.5参照)。それをふまえないと、純文学論争の本質も、論争で交錯する江藤と平野の関係のジグザグもともに見落とし、議論は単線的になってしまう。津村の議論も今読み返すと、江藤のこともフォニイ論争のことも捉え損なっていると思われるが、今は措く。仮に津村の主張を受け入れたとして、ではその先に何が待ち受けているのかを、ここでは問題にしたいのだ。

 津村は、江藤のフォニイを本質的に批判し得た例として、山口昌男の「フォニイ礼賛」(一九七四年)を挙げる。

山口は、書かれたものは本来語られる言葉のフォニイだとするプラトンの立場をとりあげ、だからこそ形式の遊戯によって現実を遠くこえることができるのであることをナボコフからキートンまでをとりあげつつ論する。(中略)フォニイ論を読者論との関わりで展開する視点を人類学者から与えられねばならなかったことを、文学者は多少とも恥じ入るべきだろう。文学本来の力とは、この犯しの力にほかならなかったし、そして「悪場所」の力はもともとフォニイと不可分なはずであった。

 こうした「フォニイ礼賛」は、「文壇的位階秩序」を「解体」したアメリカのニュージャーナリズムを想起させもするし、あるいはその戦線の「起源」には柳田国男正岡子規の「旅行記=通信文学」(写生)があって、そこには「国=語」に回収されない「もうひとつの言文一致」の可能性があったのでないか、というわけだ。だが、柳田の「旅行記=通信文学」は、クロポトキンの地理学さながら(柳田がクロポトキン主義者だったという発見については、すが秀実+木藤亮太『アナキズム民俗学』参照)、国土という「不死の身体」の植民地的な拡張にほかならなかった。

 津村は、(大石修平の論文を引きながら)言文一致を「旧き〝文〟が、その外延の前線に、――自己革新として、あたらしき〝言〟を獲得して行こうとする」過程と言う。だが、地理学的な「通信文学」は、まさに同様な過程によって生まれた、さらに「もう一つの」段階の言文一致ではなかったか。言文一致が国家の「領土化―脱領土化」の運動だったとしたら、「通信文学」は「脱領土化―再領土化」のそれだった。

 山口昌男―ニュージャーナリズム―柳田国男正岡子規)という参照先からも明らかなように、津村の江藤批判は、政治から文化へのカルチュラルターンそのものだった。もちろん、当時それは毛沢東主義文化大革命という「政治」に依拠していたのだ。

 いわゆる「下部構造の上部構造への進駐」である。だがこれが、結局は当初の意図から遠く離れて、下部構造を括弧に括ることにしかならず、やがて括ったことも忘れられた骨抜きのサブカルチャーへと帰結したことは、今となっては誰もが知るとおりである。

 この下部構造なき上部構造としてのサブカルチャーの浸透に対して、最もナーバスにその危機を察知していたのが、大塚英志なども指摘するように、ほかならぬ江藤淳であった。江藤ほど、カルチュラルターンに、そしてその帰結たる「成熟」から遠く離れた幼稚化と動物化に、本気で「おびえ」ていた者もいない。

 私は、津村が言うように、江藤に「「成熟」を至高とする度し難い上昇志向」があったとは思わない。おそらく、江藤にとっても、「成熟」がすでに「喪失」されていたことは自明だった。にもかかわらず、スターリン批判以降、平野の「青春」も賞味期限切れとなり、誰も処方箋を見出せなくなっていく、そのなし崩しの総「転向」の渦中で、「成熟」と言って耐えるほかなかったのだろう。今は、とても動物化などとはしゃぐことのできなかった江藤に、むしろリアリティを感じる。

中島一夫