散歩する侵略者(黒沢清)

 「侵略者」たちは、地球人の身体を乗っ取り、次に彼らの思考の言語化である「概念」を盗み取る。心身ともに地球人となることで、地球を侵略してしまおうというのだ。概念を抜き取られた地球人は、それにまつわる思考を失ってしまう。その姿は、まるでまだその概念を知らない子供のようでもある。

 侵略者たちはほぼ地球人と見分けがつかない。いったい誰が侵略者で、概念を盗む犯人なのか。彼らは「散歩する侵略者」、すなわち群衆に紛れるベンヤミン的な「遊歩者」(フラヌール)だ。散歩しながら犯行に及ぶ「犯人」である彼らは、同時に散歩しながら仲間=同志を探し出そうとする「探偵」でもあろう。
 
 彼らが盗む概念は、「家族」「仕事」「所有」「自分」といったもの。明らかにこれらは、資本制社会を形成するコアとなる「概念」だろう。ドゥルーズは、哲学者とは概念を創造する者だと言ったが、この侵略者たちは、資本制社会を成り立たせている諸概念を、逆にひとつまたひとつと差し引いていく存在なのだ。いや、概念を奪い去ることで「オルグ」(初期から見られる黒沢作品のテーマだ)する存在と言うべきか。彼らは哲学者というより、反資本主義的な活動家である。

 だから、必然的に国家と衝突する。厚生労働省の役人とその部隊は、侵略者たちを新種のウィルスを持ち込む者たちとして捕獲、除去しようとする。確かに、資本主義が「ウィルス」(ポランニー)なら、反資本主義は新種のウィルスか。ウィルスを無化するウィルス?あるいは、ウィルスの上書き?

 いまだ地球人のことがよく分からない侵略者のための「ガイド」として、「王殺し」の下手人たるジャーナリスト(長谷川博己)が選ばれるのも、したがって必然だろう。もともと彼は、横田基地で、米軍と自衛隊に何やら不穏な動きがあることをつき止め、独自に取材をしようとしていた。作中に「米軍は帰れ!」という立て看板が見えるように、基地住民にとっては米軍も「侵略者」に見えよう。少なくとも、とうに終わっているはずの「占領軍」の名残とはいえる。

 彼らは、占領=侵略しているにもかかわらず、「平和」と「民主主義」という「概念」をウィルスのように日本に持ち込んだ。占領=侵略されたにもかかわらず、米軍が「トモダチ」と見なされているゆえんである(むろん、作品が示すように、基地周辺ではその矛盾が露呈する。ちなみに、「自分」という概念を奪われた刑事(児島一哉)は、「みんなトモダチだよね」とつぶやく)。当初は、日本を民主化する「解放軍」と見なされたわけだ。同様に、この侵略者たちも、ひょっとしたら資本主義からの「解放軍」かもしれない――。

 最初は半信半疑だったジャーナリストも、侵略者に「どっちにつくの? そろそろはっきりした方がいいよ」と「オルグ」=促され、ついには侵略者たちの側に立つことになる。そして、ラスト近くでは、巨大なアンテナを通じて、侵略への最終兵器たる新種のウィルスを撒き散らそうとするだろう。思えば、その登場からして彼は、巨大なアンテナを屋根に積んだTV局のライトバンで取材をしていた。どのみち、米軍や自衛隊の機密情報をウィルスのように電波で流し、国家と衝突するのは時間の問題だったのかもしれない。

 だが、すでにアンテナから発信され、最終的な侵略が始まっていたにもかかわらず、それは貫徹されずに中止される。今まで、どうしても盗めなかった「愛」の概念を、ついに侵略者(松田龍平)が、妻(長澤まさみ)から奪い取ることに成功したのが理由らしい。いくら教会の牧師に説かれても、一向に「愛」が盗めなかったのは、スピノザ的に言えば、「愛」は、万人に通用する同一性である「概念」ではなく、個人の心に思い浮かべられた「観念」だからだろう。

 「愛」は一般的、共同体的に語れない。常に「この」単独的な愛(長澤から松田へ)だからだ。なぜ侵略が中止されたか尋ねられた侵略者=松田は、「宇宙人も一つ賢くなったということではないでしょうか」と答える。地球人が概念だけではなく、「この」観念を抱くことを知ったということか。

 だが、それは反資本主義的な闘争=侵略からすれば「転向」だろう。これでは、消えゆく媒介者として死んでいった同志の侵略者たちが浮かばれない。愛は地球を救ったが、一方で革命を挫いたのである。

中島一夫