マネー・ショート 華麗なる大逆転(アダム・マッケイ)

 それにしても、胸糞悪い映画だ。

 リーマンショック前夜。ここには、バブルを仕掛けた者と、バブルが崩壊することを望んでいる者しか出てこない。主に後者――バブル崩壊を一足先に察知して、それをまた儲けにつなげた者たち――が主人公たちである。

 だが、胸糞悪いのは、彼らが金儲けしか頭にないからではない。彼らが、そのことに疚しさを抱き、妙に内省的で「浮かれていない」ことが胸糞悪いのだ。これなら、例えば『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のディカプリオのように、狂乱ぶりを示してくれた方がはるかにマシである。

 おそらく、作品の意図としては、サブプライムローン金融商品化したCDO債務担保証券)に群がる者ども(CDOに「AAA」を付けた格付け会社を含めて)のみを悪役にすれば足りるということだろう。

 例えば彼らは、水商売のストリッパーにローンを組ませ、何件もの不動産を買わせている。映画の冒頭近くでは、前後のシーンとは無関係に、シャンパン片手に泡の風呂に入っている金髪美女が、サブプライムローンの説明をするというシーンを挿入する遊び心を見せるが、これは単なる「遊び」ではない。金髪美女の隠された裸身は、肝心な部分は見せないストリッパーの裸身と重なりあい、バブル=泡によって借り手の「実体=裸」は見えないというサブプライムローンの構造そのものを比喩として示しているのだ。

 だが、バブル崩壊を予知=期待した本作の主人公たちは、これら「悪役」たちと差別化されている。バブルがはじけ、CDOが破産することを予測し、それをビジネスチャンスとして、破産した際の保険CDS債務不履行保険)を商品化していった金融トレーダーの連中(クリスチャン・ベールライアン・ゴズリングブラッド・ピット、スティーブ・カレル)は、巧妙に免罪されているのだ。

 彼らは、「自分たちのせいで死者が出るかもしれないのだから、浮かれるな」、「ここには善も悪も、勝者も敗者もいない」、「資本主義が終わる」、「僕が間違っているのかもしれない」、「今売ったら、彼ら=悪役たちと同じになってしまう」など、「やましい良心」を次々に口にする。

 究極は、元銀行員のトレーダー、ブラッドピットのオーガニック志向だ。彼はまるで、自らがやっていることがそれで解毒され、それによって精神のバランスをとっているかのようだ。実際、ブラピは、他のトレーダーのように一喜一憂しない。静かで求道的な宗教者のようなあり様なのだ。

 だが、バブル崩壊を察知していながら告発することなく、それをテコにまた儲けようとする連中が、いかに苦渋に満ちた表情を見せようと、言い訳にもならないだろう(そういえば、突然、徳永英明の「最後の言い訳」が流れるシーンが)。

 世界システム論的に言えば、サブプライムローンで犠牲になった低所得者とは、「周辺」を喪失した資本主義が、無理やり作りだした国内の「周辺」である。本作の人物たちは、富を独占しながら、自らはウォール街=中心ではないかのように振る舞う(空気のよい田舎=周辺に住み、人付き合いをせず、質素な身なりをする)が、作品はその欺瞞を知っているぞ、という素振りを見せる。これを本作の批評性と見るかどうかは、金融資本主義者たちやハリウッドの「やましい良心」に、どこまで付きあえるかによるだろう。

中島一夫