資本主義リアリズム――「この道しかない」のか?(マーク・フィッシャー)その1

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

 著者は1968年生まれ、私と同年である。最後までうつ病と闘った著者は、2017年1月に48歳で自ら命を絶った。

 後期資本主義イギリスにおける新自由主義的教育「改革」を体現するような、「継続教育カレッジ」(中等教育を終えた者を対象とし、職業訓練や成人教育が提供される)で、「事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっている」「再帰的無能感」に覆われた十代の学生を相手に教鞭を取ってきた著者は、半ば必然的に「風土病」たるうつ病に見舞われた。次のような記述は、身につまされる。

学生に数行足らずの文章を読むように指示したとしよう。そうすると彼らの多くは――それも成績優秀な学生なのだが――「できない」と反発するだろう。教員がもっとも多く耳にする苦情は「つまらない」である。ここで問題になっているのは書かれた文章の内容ではない。むしろ読むという行為そのものが「つまらない」とされているのだ。私たちが目前にしているのは、昔ながらの若者的なアンニュイではなく、「接続過剰のせいで集中できない」ポスト文字社会の「新しい肉」〔New Flesh〕と、衰退していく規律制度の基盤となっていた閉鎖的かつ収容的な論理の不釣り合いなのだ。「つまらない」と感じることは単純に、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミュニケーションと感性的刺激の母胎に埋め込まれた状態から離脱させられ、甘ったるい即自満足の果てしないフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。(p66)

 だが、著者が、「資本主義リアリズム」という言葉を使うのは、「この道しかない」資本主義を、リアリズム的に「描写」するためではない。逆である。資本主義は、決して現実そのものではなく、現実主義(リアリズム)にすぎないこと、言い換えれば、資本主義が、ラカンの言うような構成された「現実」にすぎないことを示すためだ。

ラカンにとってリアルとは、あらゆる「現実」が抑圧しなければならないものであり、まさにこの抑圧によってこそ、現実は構成されるのだ。リアルとは、目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる、表象不可能なXであり、トラウマ的な空洞だ。だから資本主義リアリズムに対抗する上で可能な戦略のひとつは、資本主義が私たちに提示する現実の下部にある、このようなリアル(たち)を暴き出すことであろう。(p52)

 「資本主義は自分の姿に似せて世界を変革する」とマルクスは言った。すると「反・資本主義」も、下手をすると、それこそ資本主義下の「リアル」として回収されてしまう。音楽批評家でもあった著者は、例えばそれをヒップホップにおける二重の「リアル」に見た。「結局のところ、前者の「リアル」についてのヒップホップのパフォーマンス――「妥協なんてしない」(というメッセージ)――それこそが、まさに後者の「リアル」に、つまり、そういった真正性の感覚さえもが高い市場性を持つことが明らかな後期資本主義経済の経済的不安定さというリアリティに、容易に回収されることになってしまった」。

(続く)