多様性という全体主義 その4

 ここで「貨幣」空間における「多様性と(いう)全体主義」の問題を、性の空間へと移行させよう。現在はそちらの方がアクチュアルなのは間違いないが、そこにも疎外論とそれからの脱却という同型の問題が看取できる。

 

 例えばスラヴォイ・ジジェクは、性の多様性とは、フラットで単一な〈一〉を担保としていると述べている。

 

言い換えれば、存在論の基本的カテゴリーとしての多数性は、必然的に敵対を抹消する。多数性は、多を包み込む容器として〈一〉のような形式を前提とせざるをえない。二人の典型的な多数多様体マルチチュード)の哲学者であるスピノザドゥルーズが、同時に〈一〉の哲学者でもあるのは当然だろう。両者はともに、根本的な敵対と自己阻害とを除去するフラットな単一な世界の哲学者であり、潜在性を完全に展開しきって豊かになっていく世界、障害は外部にのみ存在するような世界の哲学者である。もしも性が多であるならば、この多数性は、それ自体のなかに敵対という障害のない〈一〉によって支えられていなければならない。それゆえ、性関係はないと断言するときにラカンがいいたいことは、二つの性は鍵と錠前のようにぴったり合うものではないという昔の卑俗な格言、二つの性は永久に争い続ける運命にあるという格言のようなことではない。また、ラカンがいいたいことは、男性と女性は互いに無関係で両立しえない二つの領域である(「男は火星から、女は金星からやって来た」〔アメリカ合衆国のカウンセラーであるジョン・グレイが一九九二年に出版した本のタイトル〕ということでもない。では、ラカンはいったい何がいいたいのか。

 性的差異は、実質的な存在としての二つの性ではなく、差異「それ自体」であり、あらゆる性的アイデンティティを横断する純粋差異(矛盾、敵対)である。(『性と頓挫する絶対 弁証法唯物論トポロジー』2021年)

 

 かつて何度も触れてきたことだが、「性関係はない」という「差異」がはじめにあった――。「セクシュアリティは、性関係はないという事実によって規定されており、部分欲動の多型倒錯的な戯れが生起するのは、この不可能性/敵対を背景としてなのである」。究極、セクシュアリティについては、この「性関係はない」という矛盾、敵対を「肝に銘じる」ことができるか否かに尽きる。この矛盾、敵対が根源的に存在する以上、われわれは「フロイトの言葉を用いれば、あらゆる性的アイデンティティにともなう居心地の悪さ(ウンベハーゲン)(不満というよりも不安に近い意味で)と呼べるもの」から逃れられない。「男性・女性というアイデンティティが中心的にあり」「ほかの性的アイデンティティ」が「二次的な逸脱あるいは規範からの倒錯的逸脱」なのではない。「異性愛規範からの「逸脱」が、規範それ自体における「逸脱」を指し示している」のである。

 

 したがって、よく言われるように、ラカンを「ファルス中心主義的な男性優位論者」と「のみ」捉えることもできない。もっと「事態」は「複雑」、というかラジカルである。ジジェクは言う。

 

また、構造主義の用語でいえば、男性のシニフィアンと女性のシニフィアンという、対立する二つのシニフィアンの差異でもない。ラカンが指摘したように、二つの原初的なシニフィアンのうちの一つが欠けており、それは「原抑圧」されている(つまり、一方の原初的シニフィアンを抑圧することによって性的差異の全領域が構成される)。性的差異を表すシニフィアンは男性の(「ファルス」)のシニフィアンのみ、ラカンのいう〈主人のシニフィアン〉、S1のみであり、このシニフィアンに女性の側で明確に対応しているシニフィアン(S2)は存在しない。この「対となるシニフィアン欠如」が意味するのは、男性のポジションのみが同一性を有し、これに対して女性のポジションには欠如/過剰が位置づけられる、ということだ・・・・・・と述べただけでもフェミニストの怒号が聞こえてくるようだ。存在するのは男性だけで、(ラカンがいうように)女性は存在しない。これが意味するのは、ラカンはあからさまにファルス中心主義的な男性優位論者であり、完全に自己同一的な男性という存在に対して、二次的で半端な存在、つまり欠如/または過剰というものに女性を貶めている、と。したがって、(アレンカ・ジュパンチッチが示唆したように)性的差異を記述する正しいやり方は、M/Fではなく、M+とするだけでよい。〔・・・〕人間は、二(男性と女性)へと分割されるのではなく、〈一〉(男性)とその過剰へと分割される。それゆえ性的差異はM+表示される。

 しかし、ここでラカンは意外なことに、そして逆説的な言い方で、事態を複雑にしている。〔ラカンによれば〕性的差異の「超越論的(経験的ではない)起源」においては、+(過剰または剰余)が最初に現れる。+は、それが剰余/過剰であるかぎり性的差異に先立つのである(同じことが剰余享楽についてもいえる。剰余享楽は「通常の」享楽のようなものの後にやってくるのではない。享楽はそれ自体剰余であり、ものごとの「通常の」進行を超えている。)(論理的な)始まりにおいて、「どこからともなく」現れる過剰が存在する。(『性と頓挫する絶対』)

 

 セクシュアリティを経験的ではなく超越論的な次元で捉えるとき、「+(過剰または剰余)が最初に現れる」。この「+」こそが、矛盾、敵対、逸脱、失敗と呼んできたものである。二つの性や多数の性があるのではない。「存在するのは、一つの性、そしてその残余、つまり〈一〉が〈一〉になることの失敗を実質化する残余なのである」。すなわち、超越論的なレベルでのセクシュアリティにおいて、重要なのは、MでもFでもM+ですらなく、「+」なのだ。「+」こそが「性関係は存在しない」ことを示しているのである。そして、「+」が存在するかぎり、性の空間において「全体性」は「全体性」であることに、「一」は「一」であることに、つねにすでに失敗する。この「+」という根源的な矛盾、敵対、逸脱、剰余を棚上げするためには、「その3」で見たように、アプリオリ=アポステリオリに「諸関係の総体」を「無限」として包摂するほかない。そこは、もはや「(階級)闘争」が乗り越えられた世界である。

 

キルケゴールがすべての人間を、官吏、女中、煙突掃除人という三つのカテゴリーに分類したことを思い出そう。官吏と女中が通常の異性愛カップルを表しているのに対して、この二つのカテゴリーは煙突掃除人という代補的カテゴリーを必要としている。官吏、女中、煙突掃除人のそれぞれが対応しているのは、男性、女性、プラス男性と女性との差異それ自体、個別的で偶発的な対象としての差異それ自体である。〔・・・〕そして、第三の要素(煙突掃除人、ユダヤ人、対象a)は差異そのものを、つまり差異化される項に先立って存在する「純粋な」差異/敵対を表している。もしも社会体を二つの階級に分ける分割が、過剰な要素(ユダヤ人、浮浪者、等々)なしに完遂されていたならば、はっきりと二つに分割された階級が存在するだけで、階級闘争などなかっただろう――この第三の要素は、階級の分類(社会を二つの階級にきれいに分割すること)から逃れる、経験世界における残余を示すものではなく、二つの階級の敵対的な差異それ自体を物質化したものなのである。(『性と頓挫する絶対』

 

 もし「+」がなかったなら、「はっきりと二つに分割された階級が存在するだけで、階級闘争などなかっただろう」―――。この闘争なき「無限」空間は、柄谷行人の言う「貨幣の無限性」、すなわちマルクス「価値形態論」における「一般的等価形態」が登場する、いわゆる「第三形態」以降の「空間」である。そこにおいては、「第一形態」「第二形態」にあった「相対的価値形態」(左辺)にある「商品a」と「等価形態」(右辺)にある「商品b」との間にある矛盾、敵対が、「取り違え」(Quidproquo)によってすでに乗り越えられているのだ(「第一形態」の商品aと商品bの間の矛盾、敵対性は、決して解消されないゆえに、「第二形態」のごとく「相対的価値形態」はひたすら「拡大」されていくほかない。「第二形態」の「拡大」は、「第一形態」でもって等式が完結しないこと自体を示しているのだ。価値形態論をトロポロジーの諸形態として論じたヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』で言えば、「第一形態」の商品aとbは「隠喩」的な関係にあるが、それは「同一性=相似性」にはなりきれない不可能な表現である(同一性=相似性が成立するのであれば、何も「隠喩」に頼るには及ばない)。この「隠喩」の不可能性こそが、矛盾、敵対性の表れである)。

 

 同様に、「性関係はない」という矛盾、敵対は、次のことを意味している。

 

したがって、「性関係はない」という事実は以下を意味している。二次的なシニフィアン(〈女性〉というシニフィアン)は「原抑圧されている」ということ、そしてこの原抑圧の代わりにわれわれが得るもの、つまり原抑圧によって生じた空白を埋めるものは、数多の「抑圧されたのちに回帰してくるもの」であり、「普通の」シニフィアンの系列である、ということだ。しかし、ここで事態は複雑になる。対を成す二項のうちの一方が欠けており、その欠如を埋めるのが多数性なのだが、こうした多数性の起源は、これと対立する起源によって代補されているのである。この対立する起源においては、出発点はシニフィアンの多数性(系列)であり、このシニフィアンの系列における空白を埋める再帰的なシニフィアンとして〈主人のシニフィアン〉が現れる。(『性と頓挫する絶対』)

 

 これが、ロジックのうえで、マルクス「価値形態論」と完全に同型であることは見やすいだろう。「第一形態」における「二次的なシニフィアン」たる「等価形態」(商品b)は「原抑圧」されており、この「原抑圧によって生じた空白を埋めるものは、数多の「抑圧されたのちに回帰してくるもの」、すなわち「多数性=拡大された相対的価値形態=第二形態」である。性においては「対を成す二項のうちの一方が欠けて」いるのと同様に、沖公祐が言うように「価値形態論で最も重要なのは、等価物(シニフィエ)の不在である」(「資本主義のマテリアリティ」、『余剰の政治経済学』2012年)。したがって、沖は、「マルクス価値形態論は、ソシュールシニフィアンシニフィエのモデルではなく、イェルムスレウの言語素論に基づいて理解されねばならない」と述べている。さもないと、「相対的価値形態と等価形態の非対称性を見逃すという決定的な誤りに導かれかねない」と。ラカンの「性別化の式」において「性関係はない」のと同様に、マルクス「価値形態論」においても「商品aとbとの関係はない」。すなわち「商品関係はない」のだ。このことは、沖が言うように、「例えば、上着でリンネルを買おうとしてみれば分かる」だろう(「貨幣のイデオロギー」、『余剰の政治経済学』)。

 

(続く)