多様性という全体主義 その3

 『貨幣空間』(2000年)の仲正昌樹は、ゾーン=レーテルの「貨幣」を、マルクスよりステージの進んだ位相で「社会的諸関係の総体」(以下の引用の「社会関係=X」に当たる)を捉えようとした試みとして論じている。長くなるが引用しよう。

 

〈労働力〉から〈富〉へと価値形式がシフトしていくことは、価値の妥当性が〝自然〟から完全に切り離されて、もっぱら社会的な関係性の中で規定されるようになったことを意味する。肉体労働の直接的な生産物の場合と違って、その反省化された形態である〈富〉は自然界の偶然性に左右されることがなく、少なくとも当該の〈社会〉の中では、いついかなる状況においても価値として〈妥当する〉のである。具体的な自然物ではなく、社会的な関係性という全く無定形で、抽象的な〝もの〟が価値として〈妥当〉するようになるわけだが、〈実在的反省=反照システム〉の中での弁証法的具体化プロセスでは、逆に、そうした抽象的な〝もの〟こそが価値形式としての〈妥当性〉を得ていくのである。前章で見たように、〈アルチュセールランシエール的に読んだ〉『資本論』第一巻では、無定形の[社会関係=X]が、物的外被を覆われて現象することによって〈物象化〉が引き起こされることが問題にされていたわけだが、ゾーン=レーテルの〈実在的反省=反照システム〉の弁証法は、この[X]が物的外被を身に纏っていくメカニズムを解明する視座を提供していると見ることができよう。社会的な反省=反照を通して、物理的な強制から自己を分離・抽象化した〝搾取関係〟が、〈富〉という〝物〟へと具体化したのである。〈富〉という価値形式は、その初期形態においては、個別の人間関係から全く独立であったわけではなく、国家の枠組みの中で保証された〈搾取する者/搾取される者〉の間の政治的関係に支えられていたが、〈貨幣〉という形式が登場したことにより、〈実在的反省=反照〉システムは更に次の段階へと進んでいく。〝人間的〟な個別性を完全に捨象した、純粋に理念的な価値形式の成立である。ゾーン=レーテルは、普遍的な〈妥当性〉を付与された、近代的な意味での〈貨幣〉の誕生を、商業資本主義の発展との絡みで以下のように記述している。

 

 「更なる生成的発展は、経済的価値形成がそれ自体として、固有の富の形成の出発点になる、ということに起因する。富の形成を媒介する貨幣機能という観点から見て、新たに成立した秩序についての反省=反照が登場する。この貨幣機能というの はより正確に言えば、生産者による生産物の価値実現の手段であると同時に、搾取 者による政治的な富の形成の手段であるという、その時点まではまだ敵対的になっ ていなかった貨幣の二つの機能である。交通貨幣(Verkehrsgeld)としての貨幣に ついての反省=反照は、一方では商業資本の成立に、即ち、商品価格の水準の違い から得られる貨幣富の形成に、他方では両替業によって得られる純粋な貨幣資本の 成立に繋がっていく。(STE(注『ルツェルン報告』))」

 

 ここには、先のすがの論点――マルクス資本論』は「特殊な商品たる貨幣のフェティシズムの解明は、商品論をもっておおむね足りると思ったわけである」(そして、ここにこそ廣松と柄谷の「限界」がある)――が具体的に論じられている。すなわち、「社会的諸関係の総体=X」は、貨幣の登場によって、「〈搾取する者/搾取される者〉の間の政治的関係」が「捨象」された形で、「〈富〉という〝物〟へと具体化」されていくのだ。貨幣の登場によって「富」が変質されているのである。「従来の〈富〉が、労働力を生産に投入して、出来上がった生産物を蓄積するために用いられていたのに対し、〈貨幣〉は現実の労働力とは関係なく、各国間での商品の差額や両替といった、言わば〈貨幣〉それ自体の操作によって、新しい価値として自己増殖することができる」。「富」が「貨幣」によって具体化されることによって、それまでは不可分だった貨幣における、「搾取される者」による「生産物の価値実現」の機能と、「搾取者による政治的な富の形成」の機能とが、これ以降分離し「相互に敵対的になって」いったのである。そして、後者の「〈貨幣〉は現実の労働力とは関係なく、各国間での商品の差額や両替といった、言わば〈貨幣〉それ自体の操作によって、新しい価値として自己増殖することができる」ようになっていった。

 

 この貨幣の登場による「富」の変質のプロセスを、フラットな「社会的諸関係の総体=X」と見なしてしまえば、この〈搾取する者/搾取される者〉の「敵対」性が見えなくなってしまう。言い換えれば、「社会的諸関係の総体=社会構築主義」は、貨幣の機能によって「疎外」が捨象された状態をもって、疎外(論)を乗り越えたと強弁しているわけだ。疎外論の脱却とは、理論ではなく、あくまで貨幣の力によるのである。

 

 ゾーン=レーテルは、その「敵対性」を「精神労働/肉体労働」の分離、敵対として、すなわち「労働(力)」における(不平等)問題として思考した。

 

ゾーン=レーテルにとって『資本論』は、認識論的な考察を含んだ経済学のテクストであるというより、〈思考抽象化=精神労働/実在的抽象化=肉体労働〉の分離線を抹消する可能性を秘めた、脱ジャンル的な、あるいはジャンル破壊的なエクリチュールなのだ。〈認識論〉という知の枠組みそれ自体が、〈精神労働/肉体労働〉の〈分離〉という条件下で歴史的に形成されてきたものなのである。ゾーン=レーテル自身の社会学存在論の仕事は、あえて[肉体労働―社会]の側から、〈精神〉の中で成立されるとされる〈アプリオリな総合〉の条件を問うことを通して、この分離線に揺さぶりをかける試みとして位置づけることができよう。〔・・・〕

 ゾーン=レーテルは、〈貨幣〉の与える〈客観的な妥当性〉の内に、〝我々〟の〈認識〉を構成する、時間・空間といった抽象的な諸形式の原型を見ようとする。〈貨幣〉から発する〈普遍的妥当性〉は、個々の主体の排他的自己関係性という制約を越えて、共通の〈認識〉の基盤(客観性)を作り出す強制力を帯びていたのである。〈貨幣〉を媒介として引き起こされる〈社会的総合 die gesellschaftliche Synthesis〉を通して、〈アプリオリな総合判断〉の成立条件が整えられたのだ。アポステリオリな要因に左右されない超越論的主体が単独で世界を構成したのではなく、〈貨幣〉に誘導される〈社会的総合〉によって、社会を構成するあらゆる主体に対して妥当する〈客観性〉が、〝アプリオリ〟なものとして、〝アポステリオリ〟に生成してきたのである。(仲正昌樹『貨幣空間』)

 

 柄谷行人の言う「貨幣の無限性」とは、まさにこの〝アプリオリ〟なものとして、〝アポステリオリ〟に生成してきた「客観性」「総合判断」だといえる。

 

貨幣の無限性。それは、すでにいったように、有限に対する無限定ではなく、閉じられた現実的無限である。いいかえれば、貨幣は、そのような無限として、各共同体をあらかじめすでに囲いこんでいる。各共同体間の交易がどんなに拡大しても、それは一般的等価形態を生み出さない。逆に、一般的等価形態は、いかに自閉的な共同体に対しても妥当する強制力をもっている。〔・・・〕ベルグソンのように、閉じた社会が先ずあって、世界宗教によって開かれた社会になるというのは馬鹿げている。世界宗教の「世界性」は、内/外のない交通空間の回帰、フロイトのいい方でいえば「抑圧されたものの回帰」なのであり、したがって、それは共同体的世界に対して強迫的にあらわれる。だが、それを共同体の強迫神経症的性格と混同してはならない。その強制力は、〝社会的なもの〟の無限性に由来している。(『探究Ⅱ』1989年)

 

 ここには、すでにこの後展開されていく、柄谷の「世界共和国」の基本的なビジョンがほぼ出そろっている。貨幣の無限性=一般的等価形態は、「抑圧されたものの回帰」、すなわち「アプリオリ」に「抑圧されたもの」が、アポステリオリに「回帰=強迫」的に現われる。それは「内/外」「有限/無限定」という疎外論アプリオリに乗り越えられた「無限」としてアポステリオリに見いだされてくる。「無限」は、あらかじめ「ある」のだ。柄谷にとって、「貨幣」や「世界宗教」はその表れである。

 

 この貨幣の「無限」性は、「各共同体をあらかじめにすでに(アプリオリ!)囲いこんでいる」。すなわち、「その1」で見た三島の「全体性」をすでに囲いこんだものとしてある。三島は、疎外論の累進が不可避なのを重々分かったうえで、疎外合戦を打ち止めにしようと、あえて戦略的に「文化概念としての天皇」を持ち出してみせた。一方、柄谷においては、疎外論はあらかじめ「貨幣の無限性」によって乗り越えられている。その「貨幣」空間においては、垂直的な階級(権力)関係における疎外がアプリオリ=アポステリオリに解消され、水平的な「共」がもたらされている。あとは、その「共」にふさわしい、それに見合った「貨幣」(地域通貨?)にしていけばよい。だが、ゾーン=レーテル流にいえば、いわばそれは「精神労働」のヘゲモニー下にある「精神労働」者だけの「貨幣」なのだ。

 

(続く)