多様性という全体主義 その1

 スポーツも文化も社会も「多様性」「多様性」の大合唱である。だが、前回の三島のエントリーにからめれば、三島は、「多様性」が「全体主義」と不可分であることを喝破していた。というか、三島は、基本的にマイノリティー問題を「ヒューマニズム疎外論」として「政治」利用されているだけで、それは真の問題ではないという認識をもっていた。

 

しかし戦後の日本にとっては、真の異民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題でありリフュジーの問題であっても、日本国民内部の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱う一部の扱いには、明らかに政治的意図があって、先進工業国における革命主体として異民族の利用価値を認めたものに他ならない。そこには、しかし、日本の民族主義との矛盾が論理的に存在するにもかかわらず、ヴェトナム戦争アメリカの黒人暴動とが、かかる「手段としての民族主義」を、ヒューマニズムの仮面の下に、正当化したのである。(「文化防衛論」1968年)

 

 そして、「異民族=マイノリティー問題」を「内部」の問題として取り込もうとする(多様性!)「ヒューマニズム疎外論」が「全体主義」を必然的に要請する。それは、「「全体」の独占」を本質とする」本質主義疎外論なのだ、と。

 

左右の全体主義文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、つねに全体性の削減へ向うのである。言論自由の弾圧の心理的根拠は、あらゆる全体性に対する全体主義の嫉妬に他ならない。全体主義は「全体」の独占を本質とするからである。

 

 三島は、この政治における「左右の全体主義」に対抗すべく、「言論の自由」を確保したうえでの「文化の全体性」を模索し、かの「文化概念としての天皇」の導入の提言へと理論的―実践的な歩を進めていったのである。

 

 難しいことではない。平たくいえば、小説の「語り手」や「視点」ではないが、「多様性」を「多様性」として認識するためには、「全体」を俯瞰するために超越(論)的な「全体性を独占」した「視点」を必要とするということだ。主戦場は常に「全体性」なのである。それが68年以降ということだ。だからこそ三島は、一方で「表現の自由」を主張しながらも、あれほどまでにそれと矛盾するかに見える「全体性」にこだわったのである。そして、「天皇」を、しかしあくまで実体とは関係のない「文化概念として」要請し、それをもって「全体」の「独占」合戦を打ち止めにしようとした。その実践の帰結は、あのとおりだ。その最期は、したがって「全体性と無限」の問題を体現しているのである。これについては、また触れよう。

 

 左派の文脈でいえば、廣松渉が、疎外論本質主義に対して、「人間は社会的諸関係の総体である」(マルクス『ドイツイデオロギー』)という社会構成論を対置した。フェミニズムの「社会構築主義」(ジェンダー(平等)主義)も同様の理論的文脈だろう。だが、この社会的諸関係の「総体」と言える(あるいは「社会」は「構築」されていると言える)「語り手」は、いったいどこにいるのか。廣松が、「フュア・ウンス=分析者の視点」と「フュア・エス=当事者の視点」というまさに「視点」の位相を区別しなければならなかったゆえんである。よく言われることだが、廣松の疎外論批判や社会構築主義は、こうして「全体=総体」を「独占」しようとする疎外論の「亡霊」を拭い去れないのだ。

 

 疎外論は、必ずや「本質=人間=故郷」からの疎外という「本質主義」を内包する。したがって、それに対する批判は怠りなく必要だが、三島や廣松の帰結を見ても、同時にそれは容易ではないことが知られよう。せめてそれを踏まえておかないと、現在のように、「多様性」(「多文化主義」や「文化相対主義」というカルチュラルレフトのタームの通俗版と捉えるべきだろう)といえば「多様性」である(になる)かのような、魔法の杖を振り回すごとき言説がのさばるばかりだろう。端的に「多様性」などと言えるのは神だけである――。寛容を謳う言説が最も傲慢なものを隠し持っており、したがっていつでも前者は後者へと転化するのだ。

 

(続く)