食うこと、明日、元気に会社に行くこと その2

 だが、「食う=吃飯問題」から「身体」や「健康」の政治性に接続されていったとき、革命が受動的革命へと反転していく契機が、すでに内包されていたこともまた事実だろう。例えば、津村は、いわゆる「横断左翼論」の出発点について、次のように回想している。

 

68年当時東大助手共闘にいて早稲田のナンセンスドジカルにいたく共感してくれたある先輩が東大赤門の近くの喫茶店で一種の集合論の図式で説明してくれたことを今になって思い出しました。「こうやって組織があって(丸を描く)その中に自分がいるという発想は共産党新左翼も変わらないのさ。君たちのやりかたのどこが新しいかというと、自分という円があって、その一部に自分の革命サークルもある、なんとか研究会もある、学校もあるし仕事もある、個人は無数の関係の集積だとわかっていれば組織に支配されることはない」「それって横断左翼論ですよね。うちの親父が同時に社会党にも共産党にも総同盟にも総評にも入っていたというのはそういうことなのかな」「そうかも知れない」「でもそう考えると授業に出るから裏切ったとか会社に入ったから挫折だということはなくなりますね」「そう。そのかわりどこまでも責任を逃れられないよね」考えてみればあれが世間に流布する全共闘イメージとひとつ次元の違う議論をした最初だったと気がします。私の中に「権力」も「反権力」も「革命党」も「内ゲバ」もあるとしたら、私が変わっていくこと以外に希望はないわけです。身体の政治性というテーマはそこから出てきました。(『LEFT ALONE 持続するニューレフトの「68年革命」』「対談を終えて」二〇〇五年)

 

 このように、津村にとって、「横断左翼論」と「身体」は地続きだった。その根源にあったのは、「個人は無数の関係の集積だとわかっていれば組織に支配されることはない」というパースペクティヴの転換である。むろん、マルクスフォイエルバッハのテーゼ』の「人間は社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」をふまえていよう。当時、廣松渉が、疎外論的な本質主義を批判するために、このマルクスの「人間は社会的諸関係の総体である」という関係主義、多元主義、社会構成論を導入していったことは有名である。津村の「横断左翼論」も、この疎外論批判の文脈にあった。

 

 だが、このマルクスによる組織や社会からの「個」の解放ほど、68年以降に簒奪された「革命」もないだろう(以前述べた、伊藤整の「組織と人間」論を展開させた福田恒存の「一匹と九十九匹と」も、ブントに影響を与えていながらその後保守に簒奪された)。

 

 

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フェミニズム本質主義ウーマンリブ)からジェンダー論(社会構築主義)への転換はもちろん、近いところではNAMにおける複数の部会に所属し、トップはくじ引きで決めるという組織論(そういえば、NAMを立ち上げた柄谷行人は、野口晴哉の「整体」に関心を持ち、「革命はいわば〝整体〟のようになされるべきだと思う」(『LEFT ALONE』)と言っていた。津村と意外に近いところにいたといえる)や、さらに通俗的なレベルでいえば、SNSで匿名のアカウントを複数所有するという現在の「文化」(スタイル)にまで、その多元主義は浸透していよう。

 

 だが、すでに、上記の回想で津村はその危うさを指摘していた。確かに人間が「諸関係の総体」ならば「授業に出るから裏切ったとか会社に入ったから挫折だということはなくな」るだろう。だが、その一方で、「そのかわりどこまでも責任を逃れられない」ことを招き寄せてしまうのだ。いわゆる「自己責任論」である。「諸関係の総体」による解放は、いつのまにか、逆にすべてが「自己責任」へと包摂される事態に帰結してしまったのだ。本質主義的な「自己」からの解放どころではない。プロレタリアートが上部構造へと進駐していった結果、「自己」が全体主義的に肥大化してしまったのである。文化大革命の「整風運動」が、全体主義的な粛清へと帰結していったのも、このあたりに起因するのではないか。

 

 重要なのは、それがもともと「人間は社会的諸関係の総体である」という認識そのものに潜在していたロジックだということだ。

 

疎外論は必ずや「本質からの疎外」という問題構成を取る。いわゆる「人間疎外」なる概念は、「人間」という抽象的な「本質」を前提とせざるをえない。これに対して廣松は、「人間は社会的諸関係の総体である」(「フォイエルバッハ・テーゼ」)という「関係主義」=社会構成論を対置した。そして、廣松の実証によれば、この関係主義への転換に際してヘゲモニーを取ったのが、エンゲルスだとされるのである。おそらく、この実証は正しいのであろう。

 しかし、そのように見る時、『資本論』を中心とする後期マルクスのいわゆる物象化(物神化)概念は、平板化することをまぬがれない。物象化が、ある歴史段階の社会的諸関係がもたらす「錯視」でしかないとしたら、社会関係を変えればその錯視はすべて消滅する(革命!)、という「全体主義」的オプティミズムに帰結するほかないからである。事実、廣松はマルクスの立場を「トータリスムスtotalismus」と捉える。(すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』)

 

 先に見たように、津村は、「私の中に「権力」も「反権力」も「革命党」も「内ゲバ」もあるとしたら、私が変わっていくこと以外に希望はない」と言った。この「私が変わっていくこと」から、私の「身体」や「健康」が主戦場として前景化されてくる。だが一見、最も全体主義に遠いこの「私」の「身体」こそが、最も全体主義に漸近していってしまうのである。「社会的諸関係の総体」として捉えられていない「身体」は、「総体」から疎外されていることになり、したがって再び疎外論が作動するからだ。いかに、疎外論批判の貫徹が困難か、ということだろう。「社会的諸関係」という社会構成論=ジェンダー論が、ポリコレという倫理的な全体主義に帰結したことについても言うまでもない。

 

 だが、津村が「身体」や「健康」を主題化していこうとしたのは、あくまでそれらが資本主義の労働力の問題に関わってくるからだったことを忘れるべきではない。

 

権力と資本がよびかける「健康」とは、まず労働力のリ・クリエイトのことであって、いいかえれば、秩序の要求するペースについて来い、という命令にほかならないのだということをまず確認しよう。これにたいして、われわれが投げつけるべきコトバは、「病気でいいじゃないか!」である。(津村喬、岡島治夫「〈人民の健康〉のために――東洋体育道の基礎概念」一九七四年)

 

 要は、明日も元気に会社に行けるのが私の健康ではなく、会社の健康でしかないとしたら、本当の「健康」とは何かという問題である。1974年に、当時新日本文学会で企画委員をやっていた津村は、その名も「健康道場」なる連続講座を行った。その時、病床にいた花田清輝は、そのタイトルを聞いて「文学者は不健康でなければいけないんだ」と批判したという。もちろん、津村の言い分は、先の引用のように、自分もまた「病気でいいじゃないか」と主張しているのだということだったろう。健康/不健康という対立自体が、資本制を担う労働力としてのそれに還元されてしまっていることが問題なのだ、と。


 宇野弘蔵が、労働力商品の「無理」といって、資本制に対する労働=身体の外部性を強調したとしたら、津村は、すでに内部に回収されてしまった「身体」の「健康」を主題化したといってよい。だが、宇野の「無理」が、「本来人間は商品化されてはならない」といった疎外論的な人間主義ではなかったように、津村もまた、資本主義に組み込まれた「身体」や「健康」が本来性を喪失していると言いたかったわけではない。そうではなく、すでに商品化されてしまった労働力の「身体」や「健康」を、資本主義下のそれらではないものへと何とか読み替えようとしたのである。

 

 その読み替えにおいても、期せずして宇野理論と並行、シンクロしていたといえる。宇野は「科学」としての経済学は、「革命の必然性」を証明できないが、資本制はその矛盾を「恐慌」として表現すると考え、いわゆる「恐慌論」を展開した。同様に、津村もまた「病気」を、「健康」の対立項として捉えるのではなく、「身体」の運動における「恐慌」現象として見ようとしたのである。

 

病気は「おそってくる」のではない。それは自業自得である。生活の構造に規定された身体の歪み、異常が蓄積していった時、この異常を異常として表現しつつ解決しようとする生命のはたらきがおこる。これが病気である。それはいわば全構造的な矛盾の展開過程であって、そこから症状(矛盾の現象形態)だけを切離して治したりすることはじつはできない。〔…〕風邪はたしかに外部のヴィルスが入ってきてひくのであるけれども、しかしヴィルスがあれば風邪をひくわけではない。無理な生活、無理な姿勢が続き、身体のバランスがこわれた時に、そのバランスが回復するために身体がヴィルスをよびこむのである。これは恐慌が資本主義の自動調整作用であるのに似ている。風邪をうまくひけば、それを機会に身体のいろいろなゆがみを正し、ひく前より一段と健康になることができる。

 

 津村は、例えば下痢をしたからといって、腸が悪いと考えて薬を飲むのは、「自分が侵略によってつくりだした「後進国」に恩きせがましい「援助」をする帝国主義の論理と同じである」とまで言っている。これは、宇野経済学の「鬼っ子」と呼ばれた(その1で見た)岩田弘の「世界資本主義」論と同型のロジックだろう。津村にとって「身体」や「健康」が、あくまで(世界)資本主義の構造の問題として考えられていたことは、何度強調してもしすぎることはないだろう。

 

 津村が、「病気でいいじゃないか」とアジったのは、まさに「病気」を直ちに「不健康」として「健康」と対立させてしまうのではなく(そうすると、それを「切離して治」すか、あるいは「周縁=後進国」として「従属」させておくかになる)、資本主義の「恐慌」や「最も弱い環」(岩田弘)という、資本制の矛盾が露呈する一局面として捉えようとしたからであった。「病気」における帝国主義(戦争)を内乱=矛盾へ、というレーニン主義というべきか。いずれにせよ、どんなに「病気」でも仕事は休めないといって、「無理」に「健康」になろうとすることによって、自らを「労働力商品」化するサイクルは開始されているのだ。

 

中島一夫