持久戦は持続しているか その2

 『津村喬 精選評論集――《1968》年以後』(二〇一二年)を編集した際(あるいはそれ以前から)、すでにすがは津村の思考のジレンマを見ていた。それは、「六八年」を「六八年」たらしめた津村や華青闘告発が、だが同時に「「六八年」を衰弱させた張本人として忌避される傾向が今なお存在」し、それは「理由のないことではない」というものだ(『精選評論集』解説)。

 

 ここでは「「決断」なくして革命はないという、あたり前といえばあたり前の問題が、本質的に問われていた」と言ってよい。まさに、華青闘告発や津村のいう持久戦は、「「決断」を沈静させるものとして受け取られた」。華青闘告発によって顕在化されたマイノリティーによる反差別闘争は、それがいかに過激なものであれ、革命への「決断」を不断に繰り延べていく持久戦として展開されるほかないからである。

 

そもそも、見出されたマイノリティーの諸闘争は、基本的に日常生活に根ざしたものであり、そこにおいて「正義」が実現されているか否かを問うことなのである。少なくとも、自然成長的な過程としては、そうなる。「革命」が権力奪取と共産主義を展望するものであるのに対して、マイノリティーの諸闘争は、資本主義の枠内での日常的な改良に自足する傾向を持つほかはない。それは、労働者階級が「サラリーマン」化して、もはや革命の主体たりえなくなった以上に、そうであると言えるかも知れない。労働者は、少なくとも、資本主義と直接に深くかかわっていることを容易に自覚できるが、マイノリティーにとって、それは難しいからである。華青闘告発以降、マイノリティー運動にシフトした新左翼諸党派のディレンマは、一つには、ここにあった。マイノリティーを革命の主体として措定してみることは、「決断」をずるずると後退させ、日常に埋没してしまうことに帰結するように見えたのである。(『津村喬 精選評論集』「解説」)

 

 その「決断」の「後退」と「日常」への「埋没」は、現在「ポリコレ」と呼ばれている。

 

 津村にとっても、この批判は当初から認識されていた。例えば、津村が「戦略的理性」と呼んだものは、この種の批判に対するものだったろう。

 

しかしきみは最も重大な問題を、〈党〉の問題を避けて通っている。きみは構改派よろしく、現代資本主義の構造変化を強調するが、革命の主体というものをどうとらえているのか? 〈党〉形成ないしに主体が可能なのか? 戦争戦争とやたらにいうが、革命軍創出の展望をもっているのか?

――もし諸君のいうのが従来の意味合いでの、固定された組織としての〈党〉だとしたら、わたしのこたえは「もし〈党〉なしの革命があるとしたら、それは日本の革命であろう」ということになるだろう。〔…〕われわれの現在のような条件にあっては、〈党〉はさまざまなレベル、さまざまな場におけるイニシアティヴ・グループとして以外に存在しえない。それを反戦や評議会として分離すること、目に見えるかたちでの「分離=結合」をやることも誤りであるとわたしは考える。〈軍〉についても同様で、〈軍〉だの〈党〉だのとロクでもない実体が名乗りをあげるところに、こんにちの混乱と頽廃の根源があるのだ。必要なのは、そのような唯名論的体系の創出ではなく、実体としてはなお連絡もとれず、バラバラであっても、現代資本主義の構造そのものによって結びつけられている諸戦線であり、それに一貫した論理をあたえつつその内部で生きてうごく戦略的理性の形成なのである。(「戦略的理性のために」、『戦略とスタイル』)

  

 「軍」やら「党」やらといった「唯名論的体系の創出」が問題なのではない――。この津村の主張が、先に触れたすがの「国民皆兵論」への反論と通底しているのは言うまでもない。さらにこの対立は、「観念に名前をつけた時から観念の堕落が始まる」と言った東大全共闘に対して、「名前がつかなければ観念ではない」と返し、曲がりなりにも「文化概念としての天皇」という「名前」を「創出」した三島由紀夫をも想起させよう。千坂恭二も言うように、三島の「文化防衛」の軍隊構想と「楯の会」の実践は、「文化概念としての天皇」の「親衛隊」であった。いかにそれがしょぼいものに見えようとも、三島なりに無理すじを通した「唯名論的体系の創出」だったといえる。いずれにしても、ここでは、「観念」に名前を与えるか否かという「決断」が問われているのだ。

 

 津村が「唯名論的体系の創出」を批判し、「さまざまな場におけるイニシアティヴ・グループ=有機的知識人」をもって「もし〈党〉なしの革命があるとしたら、それは日本の革命であろう」と主張できたのは、まだかなりグラムシ主義のリアリティがあったからだろう。だが、二〇〇九年の民主党政権誕生によって、グラムシ主義が政権奪取した途端、まるで最後の輝きであったようにグラムシ主義の耐久年数はいよいよ切れたように見える。

 

 もちろん、津村の思考は、大枠グラムシ主義でありながら、同時にグラムシ主義の廃墟を見つめ、それによって解消されないものを常に捉えようとしていた(3・11後の「脱原発」の文脈における津村の復権など)。だが、やはり中国自ら文化大革命を否定し、資本主義化してしまった以上、グラムシ主義や第三世界論のリアリティを支える基盤は徐々に掘り崩され、政権をとった時にはすでに完全に資本主義に「回収」されてしまっていたといえる。

 

(続く)