食うこと、明日、元気に会社に行くこと

 津村喬を読み返していると、津村がやろうとしていた革命が、現在ことごとくひっくり返されているのがよくわかる。反差別、反原発、日中国交回復、日常生活、身体、健康、飯を食うこと、…。津村は、持久戦的に次々と戦線を移動していったが、その足跡を見るにつけても、まるで世界は津村の実践を捕捉しては、ひとつひとつその可能性をつぶしていったように見える。現在が、いかに「六八年」の受動的革命に規定されているかということだろう。「「反革命」は必ず革命的条件をも作り出しているというのが、大原則」(すが秀実『1968年』)なのだから、津村の革命は、反革命=受動的革命として「実現」されていると見るべきなのだろうが、凡人にはそうした「絶望する勇気」を持つのはなかなか難しい。

 

 例えば、「食う=腹を満たす」ことについて、呉智英は次のように述べている。

 

新左翼が例えば知識人批判をしたときにね〝彼らは全く空理空論であって、大衆の立場を忘れてるんだ〟という風なことを言ったわけですよ。具体的に言えば津村喬ね。〔…〕人民に依拠した! その人民というのを考えてみた場合ね、人民が求めてるのは理論家ではなくて実務者だったわけですね。これはまさにね、文革を保守側が取り込んでいるということでね。というのは、紅衛兵たちは〝知識人は特権階級である。お前らの話を聞いても何の役にも立たん! うだうだ理論をこねるよりもとにかく今、我々の腹を満たせ〟と喚いたわけです。それと同じことをね、保守側にやられたんでは、新左翼の突き出した問題は全部体制側に回収されてしまってるってことでね。(『保守反動思想家に学ぶ本』)

 

 呉の言う「実務者」というのは、古典的知識人ではなく、「経済学というよりは商学であり、理学というよりは工学であるみたいな」いわゆる実学志向のテクノクラートであろう。中国文化大革命が掲げる「人民」は、それまでのロマン主義的な理想に燃えた革命に対して、「食う=腹を満たす」というリアリズムを対置した。この「食う」という本来「下部構造」の問題が、「文化」(大革命)という「上部構造」の問題として現れたことが、文革の、そして文革を背景にした(といわれる)日本の68年の特質だろう。津村が、「プロレタリアートの上部構造の進駐」というスローガンとして何度も繰り返した問題である。

 

 確かに、津村は、最初期から「この世で最も重大な問題はなにか? 飯を食う問題である」という毛沢東のいわゆる「吃飯問題」を重視してきた。それを離れたどんな高邁な理想も芸術も理論も、例外的で特権的な少数者に属するものにすぎない、と。だが、いわばそれは、呉が言うように、ロマン主義(理想)に対してリアリズム(実務)を掲げたというより、両者を止揚するために重視されたのだ。それが、「プロレタリアート(リアリズム)の上部構造(ロマン主義)への進駐」なのである。

 

 魯迅が言うように、「なお存在する多くの階層の差は、人間をそれぞれ分離させる結果となり、人々はついにもはや、他人の苦痛を身をもって感ずることができなくなってしまった」(「燈下漫筆」)。

 

 では、どうすればよいのか。このとき最大の問題となるのが、飯を食うという「吃飯問題=日常性」なのだと津村は言う。

 

日常性の度合の基準となるべき、現実の水準は存在する。それは、その社会の主要な生産力が形成する日常性の水準である。現代日本の第一の生産力、それは工業プロレタリアートである。一九二七年の中国にあっては、それは農民であった。農民の中でも圧倒的多数を占める半自作農の大部分と貧農であった。他の諸階層は、夫々に生産力なのであるが、〈上層〉へ行くほどに日常性(吃飯問題!)が軽くなるということは、それだけ主要な生産力にたいする寄生性が増すということなのである。この日常性の分離を普遍的なものにまで組織するのは、近代国家である。そしてプロレタリアートだけが、この国家を廃棄しうるほどの生産力の水準を形成しうる。〔…〕〈部落〉や人種の分離は所有関係から直接規定されない。この分子はさまざまな起源をもっているが、近代社会にそれ自身の物的基礎を通常余りもたずに残存し、日常性の下位の水準を形成する。マルクスは、すべての日常性の分離を自覚的に解体しなければならないこのことを「プロレタリアートは全人類を解放することなしに自分を解放できない」と言った。毛主席が文革の中で少くとも三度以上、マルクスのこの言葉に注意をはらうよう指示したことは、周知のとおりである。

 これらの全体が、最大の問題としての〈吃飯問題〉ということだと私は考える。(「毛沢東の思想方法――日常性と革命」一九七〇年)

 

 津村にとって、「部落や人種」に対する「反差別」闘争が、決して現在のような倫理的なポリコレという「上部構造」にとどまるものではなかったことは、「〈部落〉や人種の分離は所有関係から直接規定されない」し、彼らは「物的基礎」を「余りもた」ないものの、この「分離」を真に「解体」するためには、やはりプロレタリアートによる全人類の「解放」が、つまりはマルクスが必要なのだと明言しているくだりからも明らかだろう。すなわち、所有関係や物的基礎を問わない倫理的なポリコレは、結局部分的な闘争に終わる。革命が全体性であるためには、食うこと=吃飯問題をつかむ革命が必要なのだ、と。

 

 おそらく、このとき、「文化」大革命という呼称が誤解を与えた。「文化」という言葉は、マルクス主義的にいえば表層的な「上部構造」の問題にすぎず、すなわちそれは単なる「改良」闘争であり、「権利擁護闘争」であり、当時の言葉でいえば「諸要求」路線と受け取られたのである。だが、津村が考えていた「文化」革命とは、「食うこと=吃飯問題」を中核に据えた文化=生活様式の革命であり、津村の言葉でいえば「スタイル」の革命だった(いまや通俗的な言葉としてある「ライフスタイル」なども、津村の日常性の「スタイル」の受動的革命だろう)。

 

政治的な行動様式をおしつけることは、むずかしいことではない。だがそれが、彼の生活様式にとって外的な政治的行動様式の共同性であるとしたら、それは持続しない、弱々しいものになり、もうすでにはっきり結果があらわれているように、少々さわぎをおこすことができるだけで、すぐに破産してしまうのである。なぜもっと盛大にさわぎをおこすことができないのか。〈飯を食い、話をする〉問題をつかまないからである。生活を組織しなければならないこと、要するに文化(生活様式)の革命ということを理解しないことが、現在の日本の革命闘争の主要な思想的困難である。

 

 「少々さわぎをおこすことができるだけで、すぐに破産してしまう」運動をいかにしてのりこえられるか――。いまだなお支配的なこの難問(つまりアナーキズムの全盛、支配)に、津村もまた直面していた。そうした「弱々しい」革命を強靭に持続していくために、いわば「食う」ことを、上部構造=文化へと進駐させようと目論んだのだ。それが津村の「持久戦」だった。むろん、それは、内容が形式を、ではなく、形式(スタイル)が内容(食う)を規定するというフォルマリスムであった。それは毛沢東主義につきまとう、農本主義的で日本浪漫派的なイメージを刷新するものだったはずだ。主要な生産力が異なるのだから、単に毛沢東のように農民に向かっただけではうまくいかない。もはや農業(のみ)に「食う」が規定されているわけではないからだ。津村は、「食う」を、農業の問題から、いわば世界資本主義の問題へと読みかえよう(=「活学活用」(毛沢東))としたのである。

 

 津村が、ニクソン田中角栄の訪中と、先を競うように掲げた左派ヘゲモニーによる「日中国交回復」が、岩田弘の「世界資本主義」論と並行していた戦略であったことを忘れるべきではない(すが秀実『1968年』参照)。津村にとっては、「食う」もまた世界資本主義の問題だった。だが、日中国交回復同様、それは理解されなかったのである(現在のように、中国の権威主義を民主主義陣営から批判を繰り返す(民主主義会議!)のは容易だが、それ自体が世界資本主義を、すなわち津村の「日中国交回復」の戦略を忘れさせる、世界資本主義を前提とした偽の問題設定だろう)。

 

今また〈高度成長〉の矛盾がさまざまな公害としてあらわれ、問題になって来ている。食品公害も問題になった。中国の場合〈吃飯問題〉とは本当にメシが食えないことだったが、ビキニ・マグロやチクロの場合は、メシがあっても食えない、ということだ。他方でコメがひどい余り方をして、減反のためにたいそうな予算を使ったりする。ここで毛沢東思想を活学活用しようというなら、なぜそうなるのか、本当の矛盾は何なのかキチンと暴露して、これが資本主義なのだ、もう本当にやっつけなきゃだめなのだ、ということを労働者大衆の胃袋にタタキ込むことが求められているのではないか。〔…〕これをさておいて、なんの「人民、ただ人民……」であろう。毛沢東思想を抽象的で常識的な教条にしてしまうことと斗わねばならない。

 

 津村は、単にインテリの空理空論を軽蔑して、より「実務」的で具体的な、人民の「食う」へと移行しようとしたのではない。それだったら、よくある「大衆」へ下りていこうとする、反知性主義的な転向の一形態にすぎなかっただろう。そうではなく、すでに「食う」ことも世界資本主義に包摂されており、であれば、世界資本主義を問題化しないかぎり、「食う」ことすら取り戻すことはできないと考えていたのである。もはや「食える/食えない」だけで「食う」問題を考えることはできず、現在、たとえ「うだうだ理論をこねるよりもとにかく今、我々の腹を満た」したところで、それ自体が世界資本主義の枠内に回収されて終わりだろう。津村を「活学活用」するには、まずは津村の「食う」が、単に大衆の「リアリズム」への転向ではなかったことを見る必要がある。

 

(続く)