持久戦は持続しているか

 

 

生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ

生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ

  • 発売日: 2017/07/03
  • メディア: 単行本
 

 

 備忘録として(といっても、もうずいぶん前の話)。

 

 二〇一八年一二月一五日に京大人文研で行われた、シンポジウム『1968年と宗教』において、パネリストのすが秀実と聴衆の津村喬の間でちょっとした議論があった。先日、津村氏が亡くなって以来、津村を再読しながら、その時のやりとりを思い返している。おそらく、シンポの副題「全共闘以後の革命のゆくえ」について言えば、この日最も重要な議論が、その時生起しかけていた。だが、体調もあってか、その後津村が退場したため、残念ながら議論が深められることはなかった。以下は、その時あり得たかもしれない議論の一端を、「想像」してみたものである。

 

 私の記憶では、津村が最も鋭く反応を示したのは、すがが提示した「国民皆兵論」に対してであった。柳田批判、戦後天皇制―民主主義批判をベースにした口頭発表に続けて(「柳田国男戦後民主主義の神学――一九六八年の視点からの照射」「大失敗」Ⅰ―1所収)、共和制と国民皆兵についてコメントしたすがに対して、津村の反論は、それは「いつか来た道」で、その一帰結としての「南京虐殺」から考え始めた者としては同意できないという趣旨だったと記憶する。

 

 このレベルでは、津村がすがの「国民皆兵論」が、「義務」ではなく「権利」として、すなわち「全共闘以後」において見失われた「主権」の問題として主張されたことを理解しなかったといえる(あの短時間のやりとりでは致し方なかっただろう)。すがの発言は、概ね以下の内容だった。ほぼ同様な主張を展開している『生前退位天皇制廃止―共和制日本へ』(堀内哲編、二〇一七年)所収のインタビューから引いておく。

 

共和制というのは、もちろん君主をいただかないということであり、主権は国民がもっている。とすれば、われわれ「国民」は「国家」を「守る」義務と権利があるわけだよね。主権在民というのは、そういうことでしょう。選挙権があるのと同じような意味で、ですよ。我々は国軍兵士になる義務と権利があるわけだ。ところが、九条において軍隊は否定されているわけだ。われわれの権利が剥奪されているわけでしょう、九条は共和制に反するんです。〔…〕今や徴兵制なんか事実上ムリなわけでしょう。先進国においては金かかりすぎるし、軍事的にも意味がない。先進資本主義国では空軍主体ですから、そんなにたくさん兵士はいらないわけですね。それに、地上軍を導入するのはリスクがかかり過ぎる。しかし、そういう時にこそ、我々が兵士になる権利がある。「無理」なんだろうが、そう言うのが「道理」でしょう。主権を持っている国民だからそう主張するのは、日本においては一条と九条のセット状態を突破しうる可能性になるでしょう。〔…〕安倍ちゃんだって国会答弁で「国民に苦役を与えない」とか言って徴兵制の復活を否定している。これは文字通りに受け止めるべきで、もうそんな金ない、そんな金使えないから、国民皆兵、徴兵制ができないというだけでなく、現代国民国家の国民支配というのは、そういった形で国民の権利を剥奪しながら、苦役から解放していると言って飼い殺しにしている。今の国民国家は、そういう意味で、国民国家の理念を否定せざるをえない。こういうと講座派マルクス主義みたいだけど、その意味で、今の日本は近代国家じゃないでしょう。

 

 われわれは、このコロナ禍において、「今の日本は近代国家じゃない」ことや、「権利を剥奪」された自粛によって「飼い殺し」にされていることを嫌というほど思い知らされているが、今は措く。基本的に、すがの「共和制―国民皆兵論」は、「実際、軍隊がなければ革命も起きないですよ」という、三島以降、完全に消えてしまった認識がベースにある。

 

 一方津村は、近代の戦争を、質的変化に応じて三つのステージで捉えていた。近代戦、総力戦、持久戦である。

 

戦争の歴史にとって、二つの根本的な飛躍が存在した。フランス革命は、近代戦の誕生を告げた。一七九三年八月二三日の革命議会の布告は、史上最初の国民皆兵を命じた。「いまより敵を共和国の領土外に駆逐するまで、すべてのフランス人は軍務の要求に応じなければならない」。国家理由(レゾン・デタ)となった戦争は、自身のうちの、以前のような儀礼的な要素を一掃する。カルノの簡潔な布告は命ずる。「一般布告――集団的にかつ攻撃的に行動せよ。常に銃剣を帯びて戦闘に参加せよ。大会戦に従って、敵を全滅させるまで追討すべし」。死闘の原理が、このようにして姿をあらわす。中国革命は、近代戦にたいする戦争、超―戦争(ないし間―戦争)、つまり持久戦を生みだす。持久戦を予感しつつ、国家理由としての近代戦は総力戦に転化する。あるいは、また総力戦が持久戦の条件となる。(「戦争の言説(ディスクール)と言説(ディスクール)の戦争」一九七一年、『戦略とスタイル』)

 

 津村の考えている「戦争」が、三つ目の「持久戦」のステージにあることは言うまでもない。それは、第二ステージ「総力戦」が、同時にそれに対する戦争(超―戦争)を生み出したものにほかならず、津村はこれを日本帝国主義(総力戦)に対する中国人民の革命戦争(持久戦)に見出した。

 

もはや軍が、軍団や官僚制的戦闘組織が人民を動員するのではなく、武装した民衆が真の正規軍となるだろう。反省され、歯止めをかけられた戦争の相互性は、いまや超―戦争として、間―戦争(空間の獲得)として、さらに持久戦(時間の獲得)としてあらわれるだろう。それは、人民の戦争とよばれるだろう。

総力戦が持久戦を生みだしたこと、それによる総力戦の変化は、深くわれわれの現在に関わる。その転移がまずアジアにおいて、日中戦争の中でおこったということによって、この相互性がなおわれわれを決定しており、〔…〕。

  

 このような戦争論を思考していた津村にとって、すがの共和制―国民皆兵論は、第一ステージの「近代戦」への逆戻りであり、確かに「いつか来た道」にしか見えなかっただろう。

 

 だが、一方すがにとっては、おそらく一九六八年以降の「持久戦」が、果たしていまだなお有効に機能しているかどうかが問題だったのである。

 

(続く)