民主主義の「本源的蓄積」その2

 民主主義(ジジェクは「民主主義」を、ほぼ「君主なき共和主義」の意味で用いている)の「本源的蓄積」ともいえる「創設の暴力」は、創設時のジャコバン主義者において露わである。彼らは、王の首をはねた後、大文字の他者=指導者となって自ら独裁を引き受け全体主義へと移行する、その一歩手前で踏みとどまった。そして、今度は自分たちの首がはねられることを選んだ。

 

 ジャコバン主義者が王の首をはねるという原初の一撃は、その後、王の後の「空位」を占めようとする者はすべて「罪人」であり、したがって次々と首をはねられねばならないことを意味する。それが、民主主義の大義というものだからだ。サン=ジュストが言ったように、王のいない民主主義においては「誰も罪なしで支配できない」のだ。ジャコバン主義者は、王殺し=民主主義の大義にきわめて忠実で、王殺し後に大文字の他者の手先として恐怖政治を執行する官僚となることを、自ら拒絶したのである。

 

ジャコバン主義者には大文字の(神、徳、理性、大義)の意志を満たす手先でしかないという絶対的な確信が欠けていたのである。革命的な大文字の徳になり代わっての恐怖政治の執行者という外見の背後に、ひょっとしたら何らかの「病理的な」私的利害が隠されているかもしれないという可能性によって常に苦しめられていたのが彼らだったのだ。(『為すところを知らざればなり』)

 

 ジャコバン主義者=真の民主主義者にとって、官僚になることは、大文字の大義や理性に則った「公僕」であるどころか、カントのいうパトローギッシュ(病理的)な「私利私欲が隠されている」行為として、断固退けられるべきものだ。ジャコバン的宇宙では、革命の英雄は、「英雄」という形式そのものによって、即「裏切り者」へと転化してしまうのである。

 

 一方、スターリン主義全体主義はどうか。

 

これに比べれば民主主義の後の全体主義では、革命家たちは大文字の他者の手先という役割を徹底的に引き受け、そのことによって彼らの身体そのものもやはり再二重化され崇高な質を帯びることになるのである。

 

 ジジェクが、スターリン主義全体主義を、常に民主主義(革命)「後」の問題として捉えていたことが重要だろう。当たり前だが、古典的、伝統的な大文字の主人たる王や君主と、全体主義的な大文字の指導者とは異質である。この違いを見ないなら、全体主義は単に時代錯誤的な個人崇拝にしか映らないだろう。

 

古典的な大文字の主人の権威は或るS1の権威である、こうした「不合理な」権威の心的力域なしでやっていきたいのが啓蒙なのである。その直後にこの大文字の主人は「全体主義的」な大文字の指導者という装いで再登場する。彼はS1としては除外され、S2つまり知の連鎖(例えば、「歴史の法則の客観的知識」)を体現しているような対象という姿を帯び、人食い的残虐さで歴史の必然性を完遂する「責任」を引き受けているのである。

 

 スターリン主義全体主義が現れるには、「「不合理な」権威」を「なし」にする近代的な「啓蒙」、すなわち王殺し=民主主義革命が先行していなければならない。大文字の指導者は「その直後に」「再登場する」のである。言い換えれば、サドが現れるには、カントが先行していなければならないのだ。

 

 そして、これこそが、悪名高き27年、32年テーゼの思想的な意味だろう。27年テーゼは、明治維新は不十分な革命であり、したがって王殺しを完遂するブルジョア革命を先行させ、それを強行的速度でもって社会主義革命へと転化せねばならないという、いわゆる二段階革命論を主張した(32年テーゼも、結局二段階革命論を採用した)。

 

 二段階革命論とは、先の文脈でいえば、いくら資本主義が成熟し、うわべはブルジョア資本主義に見えようとも、啓蒙=民主主義革命によって、古典的、伝統的な(万世一系!)大文字の主人が退場し、あの「不合理な権威」が「なし」にならないかぎり、一向に社会主義革命へと移行せず、したがってスターリン主義全体主義的な大文字の指導者が登場する余地もないということを示している。言い換えれば、カントが先行しなければ、それがサドへと転化することもないということだ。ここでは、サドはあくまで「カントの」真理なのである。

 

 だが、この国の革命は、スターリン主義全体主義をサド的な悪として忌避するあまり(また、それがしばしば、総力戦体制=全体主義と同一視され)、カント的なジャコバン主義者たちをも否定してしまったように見える(以前論じたように、この二段階の転化を、サド的な悪への「怯え」としてリアルに捉えていたのは、むしろ江藤淳三島由紀夫といった「保守」の側だろう)。「大逆」事件(一九一〇年)以降、そうだろう。

 

 だが、それは27年、32年テーゼを頭から否定することであり、その結果が佐野・鍋山の転向である。27年、32年テーゼをはなから思考の外に置くことは、結局、その佐野・鍋山の転向を矮小化された形で反復するほかない。その帰結が、現在の革命ぬきの民主主義、あの最後の「一匹を食う」という「創設の暴力」を曖昧に棚上げした民主主義である。この国では、民主主義「創設の暴力」は、(発話作用や発話結果の)「主体」あるいは「主権」の問題ではなく、被害――敗戦や占領という「災害」的な外圧――としてしか思考されない。

 

 現在の「民主主義か権威主義か」という議論は、「民主主義」についても「全体主義」についても、述べてきたように、原理的な突き詰めを回避した偽の問題設定にしか思われない。それは、六〇年安保の「民主か独裁か」(竹内好)の百倍薄められた反復でしかない。「民主か独裁か」も「民主主義か権威主義か」も、最初から答えが決まっている「踏み絵」のようなものである。とうに冷戦は終わっているのに「新冷戦」と呼び戻されているように、とうにスターリン主義全体主義は終わっているのに、「独裁」や「権威主義」は「悪=敵」として(のみ)呼び戻される。だが、あの「不合理な権威」は「なし」のはずの「民主主義」の側にこそ、不合理な「権威」が残存してはいないか。

 

中島一夫