福田恆存の「政治と文学」その2

 福田恆存は、「一匹と九十九匹と」や「人間の名において」(いずれも一九四七年)によって、主に中野重治荒正人平野謙との間で繰り広げられた、いわゆる戦後「政治と文学」論争にコミットした。

 

 特に「一匹と九十九匹と」は高名だが、福田はそこで、ルカ伝の「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失わば、九十九匹を野におき、往きて失わせたるものを見いだすまではたずねざらんや」という有名な一節を、「このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれである」と捉えた。

 

革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷いとを体感していなければならない。(「一匹と九十九匹と」)

 

 文学は、政治の見逃した一匹を救いとることができる――。

 戦後「政治と文学」論争において、それに対して批判的ながらも、なお「政治(マルクス主義)の優位性」から自由になりきれず、その「内部」にあった荒や平野ら「近代文学」同人に対して、この福田の一文が、「政治」批判としてはるかに歯切れがよく、いわば「外部の一撃」として響いたことは容易に想像できる。相手陣営の中野重治が、思わず福田を「荒の直接の弟子」呼ばわりしたのも分からないではない。

 

 ここで福田の言う「九十九匹」を救う「政治」が、『黙示録論』においては「衆の心=集団的自我」と呼ばれていたことは言うまでもない。福田にとっては、戦前から問題は地続きだった。

 

 福田が、あえて「外部」から戦後「政治と文学」論争に関わっていかざるを得なかったのは、共産党の講座派歴史観に基づく革命の第一段階である、「民主主義革命=戦後民主主義」が無視できなかったからだろう。民主主義(革命)における「衆の心=集団的自我」の実態に絶望したロレンス『黙示録論』に影響された福田としては、戦後民主主義革命が結局ナショナリズムにすぎないように見えたことは、避けて通れない問題だった。

 

 当時、似たような思考は、論争を離れてある程度共有されていたといえる。例えば大岡信が『うたげと孤心』という言葉で捉えようとしたのも、同様の問題だろう。

 

私は一九四五年八月十五日に中学三年生として日本の敗戦を経験した世代に属するが、少年は少年ながらにあの当時感じていたある覚醒の経験が、このような問題を意識させた大きな要因だったと思っている。つまり、戦中の軍国主義合唱のうたげが、あっというまに戦後の民主主義合唱のうたげに変貌するのを肌身に感じたときの奇怪な感覚が、その後ずっと消え去ることなく続いて、〈うたげと孤心〉という主題を私の中に用意したのであるらしかった。(「この本が私を書いていた」同時代ライブラリー版『うたげと孤心』に寄せて)

 

 大岡のいう「うたげ」が福田の「九十九匹」、「孤心」が「一匹」に当たることは明らかだろう。実際、『うたげと孤心』の岩波文庫版解説を書いた三浦雅士は、大岡の問題意識が、一九五〇~六〇年代のマルクス主義=政治に対する批判であったことは否定できないと言っている。

 

 福田の「一匹と九十九匹と」という問題設定は、当時福田にとどまらないものだったのであり、その後の思想にも大きな影響を与えていくことになる。

 

呉智英「ただ、福田がおもしろいと思うのはね、戦後民主主義のひとつ前の原型は、〝マルクス主義の薄まったもの〟いわゆる通俗マルクス主義だよね。で、その通俗マルクス主義のもうひとつ前、前身はというとこれは、キリスト教文化になってくるわけで、福田の場合、このキリスト教批判からやっているということね。有名なD・H・ロレンスの『アポカリプス論』を戦争直後に翻訳した頃から、キリスト教的な「憎悪の構造」について、彼はずっと批判しているわけで。」

すが秀実「そう。戦後しばらくして書かれた「一匹と九十九匹と」、あれはまさに、戦後民主主義批判なわけですよね。〝九十九匹より一匹にかける〟というニュアンスでもって、いわゆる全員一致にはかけないという。だから福田がブントに影響を及ぼした部分ってのは、実はある。」

呉「ある、ある。」

すが「これは最近、ブントの指導者に一人だった西部邁が「福田恆存論」を書いているし、柄谷行人なんかも個人的にはそういうことを言っているのを聞いたことがある」。

呉「福田はだから、吉本にも影響を与えているわけですよ。吉本の「マチウ書試論」ってのは明らかに今言った『アポカリプス論』に触発されて出てきたもんだから。そういうパースペクティヴの長さということから言っても、福田恆存が朝日的な進歩主義、水増しされた通俗マルクス主義に対して、いちばんノンを唱えているという気がする。」(別冊宝島『保守反動思想家に学ぶ本』一九八五年)

  

 ちなみに、この『保守思想家に学ぶ本』の巻末には、「保守思想家之閻魔帖」という一覧表がある。上の呉とすがに加えて、三上治高橋順一の四名が、名だたる「保守反動思想家」らを、「学ぶべき点」から◎〇△✕で採点しているのだが、その中で、柳田国男三島由紀夫を抑えて、唯一四人とも◎を与えているのが福田恆存なのである。本書を初めて読んだのは、福田をまともに読んだこともない学生時代だったと記憶するが、その頃から、福田というのは、当時ラジカルと言われていたあの西部邁柄谷行人吉本隆明にまで影響を与えた人物なのかと内心驚いたものだ。

 

 前回に述べたことを繰り返せば、福田は、それまで、例えば平野謙などの知識人論には欠落していた大衆(衆の心)を問題化しようとした。それまでの知識人―大衆という図式における「大衆」は、知識人(イエス)によって「個の心」を陶冶されるべき「迷わない」子羊たちにすぎない。真に大衆の「大衆」性が露呈するのは、知識人―大衆の図式が崩壊し、知識人(イエス)が大衆(ユダ)の心を表象=代表し得なくなってからである。そこは、イエスなきユダらが人々を裁かずにいられないという「懲罰社会」である。

 

 ロレンスが見たその「アポカリプス=終末」に震撼させられた福田は、「知識人」に「自覚して滅びる唯一の人種」という使命を見て、その後いわゆる「知識人論争」にコミットしていくことになる(「論理の暴力について」一九四八年)。いずれにしても、福田は、従来のように「知識人」ではなく、「大衆」=迷える子羊の「一匹」へと視線を転じていったのだ。「大衆への反逆」(西部)や「大衆の原像」(吉本)はもちろん、知識人/大衆の差異が消滅したのちの絶対的ではない相対的な「他者」(柄谷)の問題も、明らかにその福田の影響下にあった。柄谷の「この私=単独性」(『探究Ⅱ』)とは、「九十九匹」(一般性、私的所有)からの疎外をポジティヴに捉え返した「一匹」(個体的所有)にほかならない。この「一匹」の立場を選択することによって、ブントは共産党から分かれ得たのである。「政治」概念は大きく転換しようとしていた。

 

(続く)