多様性という全体主義 その5

 東浩紀浅田彰が、すでに連載中から指摘していたとおり、柄谷の『探究Ⅰ』においては「他者(性)」という言葉でもって、商品aとbとの間の通訳不可能な矛盾、敵対が中心に論じられていたものの、『探究Ⅱ』『探究Ⅲ』と進むにしたがって、両者の「他者性=敵対性」から遠ざかっていった。

 

東 〔・・・〕実際にわれわれが主体として他者に直面する場合は、他者というのは一人一人の具体的な他者であるわけですね。しかし、その一人の具体的な他者の他者性を認識するためにはどうすればいいのかといったときに、他者を他者として認識するために大文字の他者みたいなものがまず主体の中にインストールされ、それによって初めて他者を他者として認識できるんだという形になっていく、哲学的にはそういう道筋が一般的ですね。柄谷さんの『探究』は一回その図式を離れたはずなのに、途中から再びそうなっていく。〔・・・〕ですからぼくは『探究』の初期はすごく高く評価していますが、後半はそうでもない。

 

浅田 『探究Ⅰ』でキルケゴールや後期ヴィトゲンシュタインの問題を扱っているときは具体的な他者が問題になっているけれども、『探究Ⅱ』でデカルトスピノザ、さらに『探究Ⅲ』でカントの話になると、他者の無限性・物自体性を捉える――というか、そういうものに捉えられる、主体の側の条件という話になってくる、と。(共同討議「トランスクリティークと(しての)脱構築東浩紀大澤真幸浅田彰柄谷行人。『批評空間Ⅱ―18』1998年)

 

 この帰結が、「その3」で見た、『探究Ⅱ』における「貨幣の無限性=一般的等価形態」である。ここにおいては、貨幣の(「商品の」ではない)フェティシズムは消えている。沖公祐は、この「貨幣のフェティシズム」を、カントロヴィッツ『王の二つの身体』に準えて「貨幣の二つの身体」として論じた。

 

確かに、商品身体とは結局のところ有用性をもたらすところの諸属性の束にすぎず、それらを商品身体から取り去るならば何も残らない(貨幣の第一の身体)。しかし、形式的使用価値概念はまさにそのような有用性に解消しきれない剰余=過剰性を指示している。そして、この剰余こそわれわれが先に指摘した貨幣の第二の身体に他ならない。(「貨幣のイデオロギー」)

 

 沖の言う「剰余=過剰性=貨幣の第二の身体」が、先に見たジジェクの言うセクシュアリティにおける「+=過剰、剰余」に相当していることはいうまでもない。「貨幣の第二の身体」は、リンネル(種)が商品世界から排除されることで、価値(類)と「取り違え」られることによってもたらされる。

 

 商品フェティシズムと貨幣フェティシズムの決定的な相違がここにある。貨幣フェティシズムは、ある商品(リンネル)を商品世界から排除し差別することではじめて成立するのだ。「その3」で見たゾーン=レーテルの「肉体労働/精神労働」の差別も、これに淵源する。このとき、「肉体労働=商品世界」というオブジェクトレベルと、「精神労働=一般的等価形態」というメタレベルとの、排除と差別が相互に生起するのである。貨幣となる商品がもともとは一商品だったように、精神労働も一労働であったにもかかわらず。等価交換システムが包摂する「膨大な商品の集積」(『資本論』)たる近代市民社会における差別と排除は、根源的にはここに存在すると言わなければならない。したがって、貨幣のフェティシズムを無視することは、差別を無視することである。

 

 「その4」の例で言えば、この差別と排除によって、上着でリンネルは買えないにもかかわらず、なぜかリンネルで上着は買えることになるわけだ。リンネルは上着の「価値」を「表現=表象」しているわけではない。「詩は表現ではない」(入沢康夫)に準えれば、「貨幣は商品の表現ではない」のである。この「貨幣」と「商品」との間の「間隙」(「くうかく(空隔)」山本陽子)に「貨幣フェティシズム」はある。この「間隙=くうかく」を「表現=表象」と見做してしまえば貨幣フェティシズムは無化される。「取り違え」が「取り違え」でなくなる。

 

 いわば、「貨幣の第二の身体=フェティシズム」は、「価値形態=第一形態」は不在である、言い換えれば「商品関係はない」という矛盾、敵対を「取り違え」によって乗り越え、不在で不可能なはずの「価値形態=第一形態=商品関係」が「あった」かのように、われわれを振る舞わせるのである。そして「貨幣は商品の(価値の)表現である」を自明視させるのだ。その矛盾、敵対を乗り越えさせる「貨幣の第二の身体」は、「第一形態」の右辺の商品b=「等価形態」にすでに胚胎している。存在しないはずの「等価形態」が「第一形態」の右辺にすでに現れている。だが、それが存在することを想定しなければ、われわれが現にその中にいる「貨幣形態」もあり得ないのだ。「ない」けれど「ある」――。このジレンマこそが、「貨幣形態」という「結果」から遡行して「第一形態」という「原因」を取り出した、マルクス「価値形態論」の理解の肝であろう。

 

 だが、何度も繰り返せば、最も重要なのは、あくまでその「原因」が本当は「不在」であるということなのだ。いわばそれは、物が商品世界という「象徴界」(ラカン)に参入するときに喪失される「もの」である。われわれは、本当は「もの=原因=等価形態」という「シニフィエ」は存在しないにもかかわらず、というかそれゆえに、「交換」の際には、擬制的に別なる商品=シニフィアンをあたかも「等価形態」のように扱うほかはない。「意識はしないがそう行う」のだ。だが、もちろんそれは擬制にすぎないので、シニフィアンは決して打ち止めにならずに、連鎖して拡大していくほかないのである(第一形態から第二形態へ)。このシニフィアンの連鎖と拡大に、「無限」を見るか、「全体性」を見るか、「多様性」を見るか、・・・が現在問われている。だが、そのこと自体が、商品世界という「象徴界」に、「原因」の「不在」という形で「あな」が開いていることによるのである。

 

 そのときに、不在の「原因」が、あたかも「存在」するかのようにさせる「もの」を「+=過剰、剰余」という「第二の身体」として思考してきたわけだ。その思考のパースペクティヴにおいては、「性別化の式」は、「M/F」でも「MF+」でもなく、端的に「M+」で表すことができる。そして、「性別化の式」が「M+」ならば、価値形態論は、例えば「W(商品)+」で表されよう。

 

 にもかかわらず、性別を「M/F」と表せば、それは商品を「W1(商品a)/W2(商品b)」と表すのと同じである。しかし、そのように表してしまえば、述べてきたように、「W1」と「W2」の関係が「不可能」であるという、最も重要なその「不在」性が見えなくなってしまうのである。

 

 むろん、この「不可能」性には、フーコー『言葉と物』が見いだした「表象」空間とその崩壊という歴史性が刻印されている。神=王によって表象が保証されていた「古典主義時代」の後、その表象空間は、フランス革命=王殺しと連動して崩壊する。その後は、「死の恐怖」をめぐる「生死を賭する戦い」(ヘーゲル)、そしてその戦いに敗北した「奴」たちの「悔恨=やましい良心」の「表現」としての「労働」が、代わって表象空間を支えることになる。古典主義時代の表象空間を背景としたアダム・スミスと、それが崩壊した後の空間を生きたリカードとの間に、フーコーが明確に一線を引いたゆえんである。「人間」(主義)を担保することになる、いわゆる「労働価値説」の「起源」は、あくまでスミスではなくリカードにあるのだ(だからこそ、フーコーは、マルクス(主義)はリカードに「何も付け加えることはなかった」と)。

 

 この「労働価値説」が円滑に機能していた間は、W1(商品a)とW2(商品b)には、ともに「人間」による等価な「労働」が費やされていると見なされ(同一労働=同一賃金の根拠)、両者の間に「表象」が矛盾なく成立していたわけだ。だからこそ、その同じ「人間」による「労働」が「表象」能力を失い、「商品は表象=表現ではない」となった事態に、フーコーは「人間」の終焉を見たのである。疎外論とは、概ね、この終焉した「人間」を復権しようとするヒューマニズム的な反動=リアクションだろう。したがって、それは何らかの形で「労働価値説」の復権を潜在させている(アダム・スミスの回帰を隠し持つ、「人間」主義的な市民社会マルクス主義はその典型だろう)。

 

 見てきたように、廣松や柄谷は、疎外論からの脱却を図ったはずだったが、「貨幣」を自生的に発生する「共(コモン)」として捉えてしまったことで、疎外論に絡め取られてしまったように見える。貨幣を「諸関係の総体」を担保する「共(コモン)」のように見なせるのは、宇野弘蔵的に言えば、元来「無理」な労働力の商品化を推し進めることで、「価値形態論=形態」が「労働価値説=実体」を把捉したから、すなわちそこでは「人間」が復権していることによるからである。「多様性」とは、そのような疎外を乗り越えた「人間」たちの「表現」である。だが、やはり、それは「無理」ではないだろうか。その「無理」を通そうとすれば、必ずや「全体主義」に帰結するだろう。

 

 マルクス資本論』が、価値形態論と労働価値説を混在させていたのは、両者は混在を余儀なくされるからにほかならない。逆にいえば、「人間」が終焉し、したがって「「労働」価値説」が終焉すれば、「価値形態論」も機能失調に陥るのである。W1(商品a)とW2(商品b)を(等価)交換させてきたのは、両者に投下された「労働」だからである。「労働」が両者をつながなくなれば、「表象」は不可能になるほかない。

 

 見てきたように、W1とW2との間の矛盾、敵対とは、人間=労働価値説が機能失調することで、W1=W2という価値形態論の「第一形態」が不可能になりつつあるという事態である。それによって、「第一形態」という「貨幣(形態)」の「原因」の不在が露わになっているのだ。その「第一形態=原因」を「存在」せしめてきたのは、見てきたように「(価値)形態(論)」に把握された「労働(価値説)」であろう。その労働(力)の商品(交換)化が「貨幣(形態)」と癒着し、あたかも「貨幣」が自生的に発生してくるように(自然に「第一形態」から「第四=貨幣形態」へと発展するかのように)見えさせてきたのである。

 

 「M」と「F」の「性関係はない」という「現実界」の露呈も同様な事態だろう。1950年代は「象徴界」に一貫性を見いだしていたラカンが、60年代以降、「象徴界」に「穴」を見いだし、そこから覗く「現実界」を問題化せざるを得なくなっていったゆえんである。現在、W1とW2、MとFとの間の矛盾、敵対を見ない言説は、事態の「隠蔽」にしかならない。

 

 その隠蔽は、やがて両者を、「関係の不可能=矛盾、敵対」ではなく、単なる「差異」として「存在」するように見せていくだろう。MとFには「性差」があり、W1とW2には商品としての「使用価値」の「差異」があるというように。そこから、「単独性」が互いに「差異」をはらみながら、「共」(コモン)を成立させる世界は一歩だ。

 

 だが、もはやその使用価値の「差異」は、「労働」を内在させた価値ではない。「能力」(スキル)の差異が価値化された「人的資本」のそれである。それは「共」(コモン)と言っても、破格に高価な「人的資本」家同士が、互いに「単独者」として点と点で交わっているような、ゾーン=レーテルのいう「肉体労働/精神労働」がおぞましいまでに極限まで差別化された世界である。そもそも差異をはらんだ「単独性」が、どうして「共」(コモン)になり得るだろうか。

 

 「差異」をはらんだ「単独性」同士が「多様性」としてある世界――。言葉としては美しく、「経験的」にはそれは「正しい」理想的な世界のように見える。だが、その「経験的」なレベルの「差異」の認識こそが、見てきたように、現在の「多様性=みんな違ってみんないい」という「全体主義」に帰結しているのではなかったか。経験的な「差異」は、むしろ超越論的な矛盾、敵対、逸脱、余剰、・・・を、すなわちあの「+」をなかったことにしてしまうのである。したがって、人的資本主義下の現在、われわれはむしろ、経験的には「差異」は「存在しない」とすら言うべきではないか。一見、最も「全体主義」に聞こえるその言葉こそが、最も「全体主義」を遠ざけるように思われる。人的資本の「差異」は、互いに「資本」であるゆえに、すべてを水平的な「差異」へと均してしまう。もはや垂直的な矛盾や敵対は乗り越えられたように。

 

 だが、見てみたように、それは決して乗り越えられ(てはい)ないのだ。当たり前だが、「みんな違ってみんないい」と言いさえすれば、矛盾や敵対はなくなるわけではない。それらは、「差異」という言葉に中に埋もれて見えなくなっているだけであり、必ずや現実界として噴出する。しかも、そうした事態を招いた原因は、「多様性(の認識)が足りないからだ」と、最悪の誤認をしてしまうのである。

 

中島一夫